広瀬 叔功
 1936年8月、広島県生まれ。右投右打。外野手・内野手。背番号57→12。大竹高校から1955年に投手として南海入り。コーチの勧めですぐに内野手に転向する。
 2年目に1軍出場を果たし、初打席から7打席連続安打を放つ活躍を見せる。
 1957年に規定打席未満ながらも打率.284、25盗塁を残して頭角を現すと、1958年には36二塁打を放ってシーズン最多二塁打を記録し、盗塁数も33と伸ばした。
 1959年には打率を.310と3割台に乗せてアベレージヒッターとしても素質も開花させて南海のリーグ優勝に貢献する。日本シリーズでも打率.313を記録し、4連勝での日本一を勝ち取った。
 1961年には42盗塁で初の盗塁王を獲得。失敗はわずか6という成功率の高さを誇り、南海をリーグ優勝に導いた。その年から、5年連続で盗塁王を獲得。それまでも度々外野を守っていたが、1962年からは本格的に外野手となった。1963年には187安打を放って最多安打も記録し、初のベストナインにも選出される。
 1964年には打率.366、12本塁打、58打点で72盗塁という驚異的な成績で首位打者、盗塁王の二冠王に輝いて、リーグ優勝の原動力となった。日本シリーズでも打率.345を記録してチームを日本一に導いた。この年からのリーグ3連覇に大きく貢献して南海の黄金時代を作り上げた。
 1968年には盗塁44、失敗2という盗塁成功率95%以上という成績を残し、盗塁技術の高さを知らしめた。
 1972年にも盗塁42を記録するとともに、外野手としてこの年創設のゴールデングラブ賞を獲得する。7月には通算2000本安打も達成した。
 1977年限りで現役を引退。
 1999年、殿堂入り。

 100メートルを11秒4で走れる俊足を武器として勝利に関わる盗塁にこだわり、極めて高い盗塁成功率を誇った。首位打者を獲得するほどの打撃とセンターから左右両翼まで走りこんで捕球できるほどの守備範囲もあった万能選手だった。

通算成績(プロ23年、実働22年):打率.282、131本塁打、705打点。596盗塁(歴代2位)。2157安打。盗塁王5回(1961〜1965)首位打者1回(1964)最多安打1回(1963)ベストナイン3回(1963〜1965)ゴールデングラブ賞1回(1972)

数々の伝説


 @デビュー7打席連続安打

 広瀬が1軍に定着したのは、自慢の足ではなかった。ルーキーイヤーには1軍出場すらなかった広瀬は、2年目の7月29日にようやく1軍での出場機会を得る。
 そして、広瀬は、プロ初打席で初安打となるレフト線への三塁打を放つデビューを飾った。この試合は何と4打数4安打。広瀬の鮮烈なデビューは、それだけでは終わらなかった。その後の試合でも、3打席安打を続け、何とデビュー以来、7打席連続安打を記録したのである。
 2年目のシーズン打率は4割。デビューからの7打席連続安打がそのまま記録に表れた結果となった。


 A5年連続盗塁王

 広瀬は、1961年、42盗塁で初の盗塁王を獲得する。翌年には初めて50盗塁の大台に乗せて2年連続の盗塁王を獲得する。1963年にも盗塁王を獲得した広瀬は、1964年、ついに自己最高の盗塁を記録する。
 約2試合に1個の割合で盗塁を積み重ねた広瀬は、72盗塁を記録したのである。この記録は、当時歴代3位の記録だった。
 1965年にも39盗塁で盗塁王に輝いた広瀬は、5年連続盗塁王という当時の新記録を打ち立てた。
 100メートルを11秒4で走る快足に加え、1塁からのリードが3メートル75という並外れた距離、そして、スピードを殺さず2塁手前まで全力で走り、短いスライディングで2塁を陥れる迫力。さらに鉄壁と言われるバッテリーのわずかな隙をついてセーフになる技術は、群を抜いていた。特に西鉄の大エース稲尾和久との一瞬を巡る駆け引きは、ファンを魅了し続けたという。


 B高い盗塁成功率

 広瀬は、歴代の盗塁王たちの中でも極めて高い盗塁成功率を誇る。通算盗塁成功率は83%。
 プロ2年目ではまだ25盗塁を決めながら14盗塁死する成功率約64%という並の選手だったが、1960年には25盗塁しながら失敗はわずかに4で成功率約86%と飛躍的な成長を遂げた。
 初めて盗塁王を獲得した1961年には42盗塁で失敗がわずか6で成功率は約88%。自己最高の72盗塁を記録した1964年の失敗は9で成功率が約89%である。
 特に広瀬の盗塁成功率が際立ったのが1968年の44盗塁で失敗が2という成績である。約96%の成功率という驚くべき高さを記録したのである。
 歴史に名を残す偉大な盗塁王は、大抵、シーズン最多盗塁死を記録したことがあるものだが、広瀬は、1回たりとも記録したことがない。福本豊が通算11回ものシーズン最多盗塁死を記録しているのと比べれば、広瀬の卓越した盗塁技術に驚かざるを得ない。
 広瀬は、オールスターゲームでも盗塁を7回試みてすべて成功させる、という離れ業を見せている。


 C31連続盗塁成功

 1964年、広瀬は、3月28日に盗塁を決めると、その後、走る度に盗塁を成功させる。5月28日には呉昌征が1943年に記録した連続29盗塁を破る30連続盗塁を決めた。
 広瀬は、5月30日にも盗塁を決めて何と31連続盗塁という記録を達成した。連続盗塁こそ31で止まったものの、広瀬はその後も高いペースで走り続け、シーズン72盗塁を記録するのである。
 

 D右打者最高打率更新で首位打者

 1964年の広瀬は、シーズン序盤から打撃の達人のように打ちまくる。開幕から89試合目となる7月2日まで4割を超える打率を維持し続けたのだ。89試合目まで4割台を超えたのは、日本野球史上、広瀬が初めてだった。
 広瀬は100試合目で打率.399というハイアベレージを記録していたものの、その後調子を落とし、最終的には打率.366でシーズンを終える。
 しかし、この打率は、右打者としては当時の史上最高打率だった。広瀬は、この年、首位打者とともに盗塁王も獲得し、チームもリーグ優勝を果たしたが、MVPには26勝を挙げたスタンカが選ばれ、広瀬は一歩及ばなかった。
 これだけの打率を残して首位打者を獲得した広瀬だが、意外にも首位打者のタイトルはこの1度だけで現役生活を終えている。


 E安打の記録

 広瀬は、盗塁の記録があまりにも素晴らしいため、見落とされがちだが、安打製造機としての実力も超一流だった。
 首位打者を獲得した1964年、広瀬は、打者としての能力を爆発させるかのよう安打を量産する。5月14日から6月13日まで27試合連続安打を記録したのである。当時の日本記録だった野口二郎の31試合には及ばなかったものの、1ヶ月間毎試合ヒットを打ち続けたことになる。
 また、広瀬は、その前年の1963年に186安打を放ってシーズン最多安打を記録する。この記録は、パリーグ新記録であり、この記録は、1994年にイチローがシーズン210安打を放って破るまで続いた。
 その他にも俊足を生かしてシーズン最多二塁打3回、シーズン最多三塁打3回と長打を稼ぐことにかけても長けていた。
 その集大成が通算2000本安打達成だろう。広瀬は、1972年7月1日、西鉄戦でプロ20年目にして通算2000本安打を達成する。これは、史上6人目の快挙だった。


 F通算596盗塁

 広瀬は、現役生活を通じて通算596盗塁を積み重ねた。当時の日本記録ではあったが、その後、福本豊が通算1065盗塁という大記録を樹立したため、福本の記録だけが目立つ形になってしまっている。
 だが、広瀬も、福本のように記録を意識して走りまくれば、福本に近い通算記録を残していただろうと言われている。なのに、広瀬は、盗塁の記録に無頓着だった。
 まず、広瀬は、大差のついた試合で盗塁をしようとしなかった。ただ記録を増やすだけのための盗塁には意味がないと断じ、勝利をもぎとるために、あくまで競った試合で盗塁することに価値を見出していたのである。そのため、広瀬の盗塁のほとんどは3点差以内の試合なのだという。
 また、広瀬は、打席にホームランバッターが立っているときの盗塁も少なかった。ホームランバッターが打席にいれば、本塁打を打ってもらえる可能性が高いから盗塁の必要はない、というのがその理由だった。
 広瀬は、彼独自の高いプロ意識の下で盗塁を試みたため、通算盗塁数こそ福本に及ばないものの、福本をしのぐ盗塁成功率を誇った。対戦相手がここで盗塁をされたら一番痛手になる、というここぞの場面で確実に盗塁を決める広瀬は、史上最高の盗塁の名手と言えるだろう。





(2005年8月作成)

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