広澤 克実
 1962年4月、栃木県生まれ。旧名:広沢克己・広沢克。外野手・内野手。8(ヤクルト)→80・10(巨人)→31(阪神)。小山高校から明治大学に進み、東京六大学野球で活躍。ロス五輪の日本代表に選ばれて出場し、アメリカを破って金メダルを獲得した。
 ドラフトでは日本ハム・ヤクルト・西武の3球団が1位指名して競合の末、1985年にヤクルトへ入団。1年目から18本塁打を放ってスラッガーの片鱗を見せつけたが新人王は逃した。
 4年目の1988年には打率.288、30本塁打、80打点でベストナインに選出され、リーグを代表する打者になった。
 1990年には最後まで首位打者争いに加わり、打率.317、25本塁打という成績で打率リーグ3位に入った。
 その翌年には99打点を挙げて、打点王を獲得。この年のオールスター第2戦ではMVPを獲得している。
 1992年には25本塁打、85打点の活躍でヤクルトを14年ぶりのリーグ優勝に導いた。
 1993年にも94打点で2度目の打点王に輝いている。チームも、セリーグ2連覇を果たし、日本シリーズでも西武を破った。
 1995年にはFA宣言で巨人に移籍して打率.240、20本塁打を残した。1997年にも22本塁打したものの、その後1999年に打率1割台という不振に陥った。
 2000年には巨人を自由契約になって阪神に移籍。2001年には規定打席未満ながら打率.284、12本塁打を残し、通算300号本塁打を達成した。
 そして、2003年には終盤にいぶし銀の活躍を見せ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、その年の日本シリーズを最後に現役を引退した。

 三振を恐れない思いきったスイングで本塁打を量産し、ヤクルトの黄金時代を作り上げた。6年連続20本塁打、11年連続2桁本塁打を記録したスラッガーである。 

通算成績(実働19年):打率.275、306本塁打、985打点。1736安打。1529三振。打点王2回(1991・1993)ベストナイン4回(1988・1990・1991・1993)

数々の伝説


  @六大学野球で2季連続首位打者

 広澤は、1983年春の六大学野球リーグで打率.457をマークして首位打者となった。しかも、4試合連続本塁打という六大学野球新記録まで打ち立てている。その勢いは、秋のリーグ戦に入ってもとどまることを知らなかった。打率.484を記録してまたも首位打者になったのである。2シーズン連続で東京六大学野球の首位打者を獲得。これは、史上2人目の快挙だった。
 広澤は、六大学野球を代表するスラッガーでもあり、1983年春に6本塁打、秋に4本塁打を放ち、田淵幸一に並ぶ年間最多本塁打10本という歴代1位タイ記録を打ち立てた。
 大学通算本塁打数18本は、あの谷沢健一に並ぶ好成績である。


  Aロス五輪で金メダル

 広澤の名を一躍高めたのは、1984年に開催されたロサンゼルス五輪だった。公開競技としてではあったが、野球が初めてオリンピックで行われた、という記念すべき大会である。
 広澤は、大学生ながらその打撃力を評価され、多くの社会人野球選手に混じってオリンピックに出場した。
 日本は、勝ち進み、決勝戦でアメリカを6−3で破って金メダルを獲得する。広澤は、そのオリンピックで3本塁打を放ち、金メダル獲得に大きく貢献した。この活躍により、日本中から注目を浴びた広澤は、ドラフトで3球団から1位指名された。


  Bヤクルト黄金時代の4番

 1990年に知将野村克也を監督に迎えたヤクルトは、最初の年こそ5位だったものの、翌年には3位に上げ、1992年には14年ぶりのリーグ優勝を果たす。広澤は、野村ID野球の主砲として打率.276、25本塁打、85打点の活躍で優勝の原動力となった。広澤は、1987年からずっとフル出場でチームを引っ張ってきていた。
 ヤクルトは、ここから黄金時代を迎えることになる。
 翌1993年には圧倒的な強さで2連覇を果たす。広澤は、94打点を挙げて2度目の打点王に輝く。ヤクルトは、西武との日本シリーズも4勝3敗で制した。広澤が第7戦で放った本塁打は、日本一を大きく手繰り寄せた。 
 その後、広澤は、1994年にFA権を取得し、1995年から巨人へ移籍した。


  C3球団で4番

 ヤクルトの4番を務めた広澤は、1995年にFA宣言で巨人へ入団する。巨人では松井秀喜、落合博満の後ろを打つ5番打者としての活躍を期待されていたが、思うように結果は残せなかった。
 それでも、1997年、広澤は、全盛期に近いバッティングをよみがえらせ、4番に座っての活躍も増えた。
 しかし、翌年からは故障と不振が続く。また本来の活躍を見せることができなくなった。
 広澤は、再起を期して2000年に阪神へ移籍する。そこにはかつてヤクルトで共に黄金時代を作り上げた野村克也監督がいた。野村監督は、広澤を度々4番で起用する。
 これによって、広澤は、ヤクルト、巨人、阪神の3球団で4番を務めることになった。しかも、伝統のライバル球団、阪神と巨人の両方で4番を務めた打者は、プロ野球史上、広澤が初めてだった。

 
  Dヒーローインタビューで六甲颪を熱唱

 2001年7月、甲子園の試合で活躍し、お立ち台に上った広澤は、大観衆の前で前代未聞の約束をする。
「今度、甲子園でお立ち台に上れたら、六甲颪を歌います」
 そのときは、8月末に訪れた。それまでもお立ち台に上ることはあったのだが、「甲子園じゃないから」という理由で歌わなかった。
 8月29日の巨人戦。試合は、阪神の井川慶と巨人の高橋尚成の行き詰まる投手戦で5回まで0−0が続く。
 6回裏、ランナーなしで打席に立った広澤は、高橋からバットを折りながらレフトスタンドに運ぶ先制の10号本塁打を放つ。
 試合は、この後も動かず、井川が完封して1−0で阪神が勝った。広澤の本塁打は、貴重な決勝点となり、広澤は、お立ち台に呼ばれた。
 多くの観衆が見守る中、広澤は、アナウンサーからマイクを受け取ると、伴奏なしで「六甲颪」を熱唱。それに阪神ファンも応えて、球場内は全員で「六甲颪」の熱唱となった。
 普段からジョークでファンを喜ばせる広澤の卓越したユーモアセンスは、度々珍プレー特集番組でも紹介されている。そんなキャラクターは、入団時から既に表れており、記者からプロでの抱負を聞かれたとき「有名になって中山美穂に会いたい」と答えたという伝説が残っている。


  Eヤクルトでは大杉、阪神で掛布の背番号を継ぐ

 東京六大学の大スターだった広澤は、1984年末に3球団からドラフト1位指名を受ける。抽選の結果、ヤクルトが交渉権を得る。ヤクルトでは、その1年前の1983年に大打者大杉勝男が引退していた。ヤクルトは、大杉の背番号をこのまま永久欠番にしようと考えていたという。しかし、大杉の勧めもあって、期待を込めて広澤に大杉の背番号を引き継がせることになった。
 広澤は、入団1年目からシーズン18本塁打を放つなど、新人離れしたバッティングを見せてそれに応えた。
 時は過ぎて2000年、巨人を自由契約になって阪神に移籍した広澤は、何と掛布雅之がかつて付けていた「31」の背番号を引き継ぐことになった。
 そして、2003年、死のロードと呼ばれる夏の甲子園期間で調子を崩した阪神で、広澤は、チームをよみがえらせる渋い活躍を見せて掛布らが成し遂げた1985年以来のリーグ優勝に貢献するのである。


  F現役最終打席は日本シリーズでの最年長本塁打

 2003年、見事にリーグ優勝した阪神は、日本シリーズでも先に王手をかける。しかし、第6戦に敗れ、第7戦も1−6とリードを許して9回まで来ていた。9回も簡単に2アウトにまで追い詰められる。日本一まであと1人、とダイエー側のベンチ、スタンドが騒ぐ。そんな騒々しい雰囲気の中、広澤は、代打で登場した。
 このシリーズで広澤は、7打数無安打6三振と完膚なきまでに抑え込まれていた。普通ならすんなり凡退して終わるところである。しかし、カウント1−1から和田毅の渾身のスライダーを完璧に捕らえた広澤の打球はライナーでレフトスタンドに突き刺さる。
 杉浦享の40歳4ヶ月を1年以上も更新する41歳6ヶ月でのシリーズ史上最年長本塁打だった。しかも、この本塁打は、シリーズ通算600号という記念弾でもあった。
 広澤は、この打席を最後に現役を引退。シリーズ最年長本塁打は、ファンへの惜別弾ともなったのである。





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