平野 謙
 1955年6月、愛知県生まれ。右投左右打。背番号81→57→3(中日)→24(西武)→8(ロッテ)。投手として犬山高校から名古屋商科大学に進み、愛知大学リーグMVPになる活躍を見せ、ドラフト外で1978年に中日へ入団する。
 投手として入団したが、2年目の1979年途中から早くも外野手に転向する。
 1981年にようやく1軍出場を果たすと、1982年にはレギュラーを獲得し、打率.288、4本塁打、20盗塁、51犠打の活躍で初のゴールデングラブ賞も獲得、中日のリーグ優勝に大きく貢献する。この年の51犠打は、日本新記録だった。
 1984年には打率.291、30盗塁、36犠打を記録して2度目の最多犠打を記録する。
 1985年には打率.300で初のシーズン3割を達成し、1986年には48盗塁で初の盗塁王を獲得する。
 1987年は、故障の影響もあって90試合出場で規定打席に届かず、その年のオフに西武へ移籍する。
 西武では移籍1年目から打率.303、7本塁打、46打点、18盗塁、41犠打と素晴らしい活躍を見せて西武を日本一に導く。初のベストナインに選ばれるとともに、ゴールデングラブ賞にも選ばれ、セパ両リーグでの受賞となった。
 その後も、1990年に23盗塁、50犠打、1991年にも2年連続50犠打を記録するなど、5年連続シーズン最多犠打という記録を作る。
 1993年に打率.239に終わると、その年のオフにロッテに移籍する。ロッテではレギュラーとして活躍することはできなかったが、1995年からはコーチ兼任となり、1996年に23試合出場で打率.298を残しながら現役を引退する。

 強肩と俊足を生かした守備・走塁と、スイッチヒッターとして臨機応変に打ち分ける打撃、そして卓越したバント技術で中日を優勝に導き、西武では黄金時代を作り上げた万能プレーヤーである。

通算成績(実動16年):打率.273、53本塁打、479打点、1551安打、230盗塁、451犠打。盗塁王1回(1986)ベストナイン1回(1988)ゴールデングラブ賞9回(1982、1985〜1986、1988〜1993)

数々の伝説


 @ドラフト外で頼み込み入団

 平野は、名古屋商科大学で投手として活躍し、1977年には愛知大学リーグのMVPに輝くが、全国的には全く無名の存在だった。そのため、ドラフトで指名されるはずもなかった。
 そのため、平野は、自ら人脈を駆使して中日のスカウトに頼み込み、入団させてもらうことを取り付けたという。背番号は、81である。
 平野は、プロ入り後も、さして注目を集めることなく、3年間は1軍出場さえ叶わなかった。
 2年目には投手をあきらめて外野手に転向。スイッチヒッターにも挑戦し、自らの俊足や強肩を生かすために、地道な練習を重ねた。そして、ようやく入団4年目に1軍出場を果たすのである。


 A戦力外通告寸前から活躍

 1980年まで全く一軍での試合出場がなかった平野は、その年のオフ、ついに整理対象者として名前が挙がる。
 しかし、1981年から中日の指揮を執ることになった近藤貞雄監督は、平野の素質を高く評価しており、平野だけは何としても残すように指示を出す。
 すんでのところで解雇を逃れた平野は、1981年に近藤貞雄監督の下で代打や守備固めを中心に110試合に出場し、1982年には2番打者としてリーグ優勝に貢献するのである。


 Bシーズン犠打の日本記録樹立

 1982年、中日は、見事にリーグ優勝を果たす。その中でも、いぶし銀の活躍を見せたのが、この年からセンターのレギュラーに定着した平野だった。
 平野は、打率.288で129安打を放った打撃成績もさることながら、20盗塁、51犠打を残し、俊足を生かした広い守備範囲と投手仕込みの強肩でも貢献した。
 特に51犠打は、シーズン最多犠打であり、当時の日本新記録でもあった。この当時は、まだ犠打の職人に対する評価は低かったものの、平野の犠打は、西武移籍後、次第に高評価を受けるようになる。
 平野の犠打は、右打席でも左打席でも広角にバントを成功させることができ、またラインぎりぎりでも切れずに転がす技術を持ち合わせていた。


 C審判石ころ事件

 1982年、中日×西武の日本シリーズは、2勝2敗のタイで第5戦を迎える。
 試合は、投手戦となり、0−0で3回表に入る。2死から田尾安志がショート内野安打とエラーで2塁に進み、先制のチャンスで平野が打席に入る。
 平野は、西武の先発杉本正から一塁線を抜ける鋭い当たりを放つ。先制点が入り、平野も3塁打を狙えるほどの打球だった。しかし、打球は、1塁線を抜けた後、1塁塁審の村田康一に当たって、2塁手の前に転がる。
 3塁を回ってホームに還ろうとしていた田尾は、慌てて3塁へ戻ろうとするが、2塁からの転送によって憤死した。
 野球規則では、内野手を抜けた打球は、審判に当たってもボールインプレーとなるため、審判は、石ころと同じ扱いである。平野は、先制打が一瞬にして無と化し、先制できなかった中日は、そのまま流れをつかめず、1−3で敗れた。翌第6戦も落とした中日は、2勝4敗で日本一を逃す。
 もし、第5戦の3回表に中日が先制していれば、中日が日本一になる可能性が高かったため、この一件は、のちに「審判石ころ事件」と呼ばれるようになる。


 D突然の西武移籍

 レギュラーに定着後の平野は、5年連続で規定打席に到達し、特に1986年には48盗塁を決めて盗塁王に輝くなど、中日には欠かせぬ看板選手となっていた。
 平野は、淡々と自らの仕事をこなしていく職人肌の選手だが、1987年に中日監督に就任した星野仙一監督は、闘志が前面に見えない平野のプレーを高く評価しなかった。故障もあって出場機会が減少した平野に西武が目を着けた。そして、1987年オフ、小野和幸との交換で西武へ移籍することとなる。
 平野は、西武の森祇晶監督の下で走攻守が揃ったプレーヤーとして高評価を受け、移籍1年目から2番打者として打率.303、18盗塁、41犠打の記録を残して西武のリーグ優勝、日本一に貢献する。


 E通算最多犠打の日本記録樹立

 平野は、中日で2回、西武では5回の計7回にわたってシーズン最多犠打を記録する。
 特に西武では5年連続であり、この期間、西武は、圧倒的な強さを誇る黄金時代を築いた。1番打者の辻発彦が出塁して平野が送り、秋山幸二、清原和博、デストラーデといった大砲がランナーを返すという得点パターンは、他球団を圧倒した。

 1990年6月28日のオリックス戦では通算265犠打の日本新記録を樹立し、その後、さらに記録を伸ばし続けて現役引退まで451犠打を積み上げた。
 西武の黄金時代の中でも、特に平野の犠打が目立った試合が1991年6月19日のオリックス戦である。この試合で平野は、史上4人目となる1試合4犠打を決め、日本タイ記録を作る。
 平野は、現役を通じて1試合最多犠打、シーズン最多犠打、通算最多犠打でも日本記録を樹立した犠打の達人であり、常勝チームで犠打の重要性を見せつけ、著しく犠打の地位を向上させたのである。


 F西武黄金時代の2番打者

 平野が移籍した当時、既に常勝チームとなりつつあった西武は、走攻守が揃った平野の加入によって、圧倒的な戦力を誇り、黄金時代を築く。
 移籍1年目から打率.303の好成績を残し、チームを日本一に導くと、1990年から1993年までリーグ4連覇、1990年から1992年までの日本一3連覇に大きく貢献する。
 平野は、2番打者として秋山、清原、デストラーデ、石毛らへつなぐ役目を着実に果たし、その強固さは巨人に4連勝した1990年の日本シリーズに顕著に見られる。
 このシリーズで2番打者として出場した平野は、第1戦の第1打席で辻を3塁に進める犠打を決めて先制点につなげると、第2戦でも第1打席に辻を2塁に進める犠打を決めて先制点につなげる。第3戦では辻を1塁に置いてレフト前ヒットを放って先制点につなげる。そして、第4戦では、1回に辻を2塁に進める犠打を決め、0−2とリードを許した5回にはランナーを2塁に置いて左中間へのタイムリー2塁打を放ち、この回大量6点を奪って逆転する集中打を呼び込む。
 このシリーズでの平野は、4試合で打率.500、4犠打と自らの役割を完璧に果たして陰のMVPとも言える活躍を見せた。
 この年の西武は、パリーグを2位に12ゲーム差をつける圧倒的な強さで制しており、まさに無敵のチームだった。


 Gゴールデングラブ賞9度

 投手から外野手に転向した平野は、俊足を生かして守備範囲が広く、投手出身ということもあって強肩で、しかもコントロールが抜群に良いという名手だった。
 そのため、1982年にレギュラーを獲得するといきなりゴールデングラブ賞に選出される。さらに1985年と1986年にも受賞した平野は、西武に移籍してからも1988年から1993年まで6年連続でゴールデングラブ賞を獲得する。
 西武で主にライトを守った平野は、センターの秋山幸二とともに守備でも西武を支え、鉄壁の右中間は、常勝西武の象徴でもあった。




(2008年12月作成)

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