東尾 修
 1950年5月、和歌山県生まれ。投手。背番号21。右投右打。箕島高校から西鉄(後の西武)にドラフト1位指名されて1969年入団。
 1年目は0勝に終わったものの、2年目の1970年に11勝を挙げてローテーション投手となる。
 チームが黒い霧事件に巻き込まれて弱小球団に転落していたため、最初の6年のうち5年は負け数の方が上回るという結果になったが、1975年に23勝15敗7S、防御率2.38、154奪三振の好成績を残して最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得し、チームをAクラスの3位に引き上げた。
 1982年には10勝11敗1Sの成績ではあったが、広岡達朗監督の元で西武のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでは2勝1敗1S、防御率0.00という活躍を見せてシリーズMVPになった。
 この年をきっかけにして、西武は黄金時代を築き始め、常勝軍団と呼ばれるまでになっていく。
 1983年には18勝9敗2S、防御率2.92で最多勝と最優秀防御率のタイトルを手にするとともに、チームもリーグ優勝を果たしてシーズンMVPに選出されている。
 1984年9月15日には通算200勝を達成した。 
 1987年にも15勝9敗、防御率2.59の成績を残し、チームをリーグ優勝へ導いたことで2度目のシーズンMVPに選ばれている。
 しかし、その年のオフ、東尾は、麻雀賭博事件に関与したとして、半年間の出場停止処分を受ける。
 これが事実上、東尾の野球生命を奪うことになり、東尾は、調子を崩したまま1988年限りで現役を引退した。
 現役時代を通じて6度のリーグ優勝、5度の日本一に貢献している。
 1995年に監督として西武に復帰。1997年・1998年とパリーグ連覇を果たし、2001年限りで勇退した。
 2010年、殿堂入り。

 内へ食い込む鋭いシュートと外へ際どく決まるスライダーを得意とし、打者の懐をえぐる強気のピッチングは「ケンカ投法」とまで呼ばれた。現在のところ、最後の250勝投手であり、165与死球は日本記録である。

 通算成績(実働20年):251勝247敗23S、防御率3.50。1684奪三振。シーズンMVP2回(1983・1987)最多勝2回(1975・1983)最優秀防御率1回(1983)最多奪三振(1975)ベストナイン2回(1983・1985)ゴールデングラブ賞5回(1983〜1987)通算与死球165(日本記録)日本シリーズMVP(1982)


数々の伝説


 @黒い霧事件後の西鉄エース

 1970年、西鉄を激震が襲った。エースの池永正明投手ら、多くの選手が八百長行為に加担した、とされて永久追放・出場停止などの処分を受けたのだ。
 西鉄は、そのショックからか、最下位に沈んでいる。
 東尾は、この年が入団2年目。プロ初勝利をこの年にあげ、ローテーションの一角を担うまでになって11勝18敗、防御率5.15という成績を残している。この成績は、お世辞にも好成績とは言えるようなものではないが、投げる場を与えられたことで東尾を大きく成長させて行く。
 最初の頃は負け数の方が勝ち数よりも上回っていたものの、年々防御率は良くなって行った。そして5年目には15勝14敗、防御率3.29を残してついに勝ち数が負け数を上回り、大エースへの道を歩み始めたのである。 


 A与死球日本記録

 東尾は、右打者への内角シュートと外角スライダーのコンビネーションで打ち取るタイプのため、死球が多かった。
 東尾が与えた死球は通算165個。これは、ダントツの日本記録である。
 宝刀の内角シュートは、他の投手よりもボール1個分懐へ食い込んでいく鋭い切れ味を持っていた。
 そのため、他球団の選手・指導者の中には「故意にぶつけている」と主張する者さえいた。しかし、内角シュートでエースに登り詰めた東尾は「バッターの逃げ方が下手なだけ」と取り合わなかった。
 そして、1985年6月22日の近鉄戦で東尾は、ついに渡辺秀武投手が作った144個を上回る145個目の死球を与え、日本記録を樹立した。
 その145個目の相手が近鉄の主砲デービス。
 この因縁が1年後の事件につながって行くとは、このとき誰も予想しなかっただろう。


 Bデービスの東尾殴打乱闘事件

 1986年6月13日、西武×近鉄戦に先発した東尾は、6回表1死まで近鉄打線を3点に抑え、6−3とリードを奪っていた。
 そこで打席に立ったのは近鉄の主砲デービス。東尾は、デービスをカウント2−1と追い込み、宝刀の内角シュートで勝負に行った。
 しかし、右打者の懐をえぐるように食い込んだその球は、よけるデービスの右ひじに当たってしまう。
 激怒したデービスは、バットを放り投げて東尾に突進。マウンドに立ち尽くす東尾の顔面にパンチを4発ぶち込み、キックを放った。
 その乱闘でデービスは退場処分となり、パリーグから10万円の罰金と10日間の出場停止処分を受けた、
 しかし、東尾は、顔を腫らし、右足を捻挫したものの、そのまま投げ続けている。そして、意地で完投勝利をもぎとったのである。


 C西武の黄金時代の礎を築く

 東尾が入団した頃の西鉄は、弱小球団であった。そのため、東尾は、シーズン最多敗戦4回という不名誉な記録を持っている。
 チームが強くなってきたのは、球団名が西武になってから。広岡達朗監督が徹底した管理野球を厳しく推し進め、1982年にはついにリーグ優勝・日本一を達成する。東尾は、その年のシリーズで2勝1敗、防御率0.00の成績を残してシリーズMVPに選出されている。
 1983年の西武は86勝40敗という圧倒的な強さを見せつけ、2位に17ゲーム差を付けて優勝するという離れ業を演じた。
 東尾は、18勝9敗2S、防御率2.92で文句なしのシーズンMVPとなっている。
 西武は、森祗晶監督になってから次第に他の追随を許さないチームとなっていく。投手では東尾を中心に松沼兄弟・工藤・渡辺久信といった好投手が揃い、打線も秋山・スティーブ・石毛・清原といった好打者が揃って行き、隙のないチームとなった。
 東尾は、引退する1988年までに6度のリーグ優勝、5度の日本一に貢献し、シーズンMVP2回、シリーズMVP1回を獲得している。
 

 D最後の大記録保持者

 1978年に東尾は、23勝14敗1Sという好成績を残し、投球回も303回1/3にのぼった。この投球回数が現在のところ、シーズン300イニング登板を果たした最後の投手となっている。
 1980年代に入ると、投手のローテーションが確立され、エースが大事な試合を連投に次ぐ連投で乗り切るというスタイルはなくなっていく。そのため、エースでも200イニング台前半でシーズンを終えることが普通となり、東尾の300イニング突破に続く者はいなくなったのである。
 東尾は、その他にもこれで最後になるであろうという大記録を残している。
 通算250勝投手もその一つであるし、1977年に記録したシーズン20敗も最後になるであろうと言われている。


 E監督として2度のリーグ優勝


 東尾は、1995年に森祗晶監督の後を受けて西武の監督に就任。就任当初は、連覇を止めてしまうが、1997年には76勝56敗で2位に5ゲーム差を付けて念願のリーグ優勝を果たす。
 そして、翌年も見事なパリーグ連覇を達成した。かつての常勝軍団を支えてきた選手に加えて、西口・松井稼・豊田・石井貴・マルティネスといった選手を整備しての優勝だった。



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