長谷川 滋利
 1968年1月、兵庫県生まれ。右投右打。背番号17(オリックス)→21(エンゼルス)→17(マリナーズ)。中学時代に全国中学校軟式野球大会でエースとして全国制覇を果たす。東洋大姫路高校では甲子園に1985年春夏、1986年夏と3度出場。1985年は控えだったが、1986年はエースとして2勝してベスト8に進出している。
 立命館大学時代は、エースとして関西大学リーグ歴代2位となる通算40勝を挙げ、1991年にドラフト1位でオリックスに入団する。
 1年目から実力をいかんなく発揮し、12勝9敗1Sの好成績で新人王を獲得する。
 3年目の1993年にも12勝を挙げると、1994年にも11勝と安定した活躍を見せる。
 そして、1995年、阪神淡路大震災で被った深刻な状況を克服し、12勝7敗、防御率2.89の好成績を残してリーグ優勝に大きく貢献する。
 翌1996年には故障もあって4勝に終わったが、チームは日本一となる。
 1997年、大リーグのエンゼルスへ金銭トレードで移籍。当初は、先発投手として期待が高かったが、セットアッパーとしての素質を見出され、リリーフ登板が主流となる。
 そして、1998年には起用に答えて61試合に登板し8勝3敗5S、防御率3.14という好成績を残して脚光を浴びることになる。
 2000年には一時は守護神も務めるなど、66試合に登板して10勝6敗9S防御率3.58と渡米後初の2桁勝利を挙げ、大リーグを代表するセットアッパーとなった。
 2002年にマリナーズへ移籍するといきなり8勝を挙げ、2003年にはまたしても守護神の役割を任されるなど2勝4敗16Sを挙げ、防御率は驚異の1.48を記録する。この年、球団記録を更新する28回2/3連続無失点記録も樹立している。
 2003年には大リーグのオールスターに出場し、日米双方のオールスター出場を達成する。
 2005年、46試合に登板し、大リーグ通算500試合登板も達成する。1勝3敗防御率4.19とまずまずの成績を残すも、余力を残して現役を引退。

テンポがよく、タイミングの取りにくいフォームで打者を翻弄し、日本では先発投手、大リーグではセットアッパーとして共に不動の地位を築いた名投手である。大リーグへ行って増した球威もさることながら、絶妙のコントロールと多彩なコンビネーションで打ち取る頭脳的な投球で日米のファンを魅了した。

通算成績:(日本6年)57勝45敗4S、防御率3.33 新人王(1991)
(大リーグ9年)45勝44敗33S、防御率3.70
(日米通算15年)102勝89敗37S、防御率3.49
数々の伝説


 @中学で全国制覇、高校で甲子園3度出場

 長谷川は、中学時代に早くも頭角を現していた。3年時に全国中学校軟式野球大会でエースとして全国制覇を果たしたのである。
 さらに高校は、名門東洋大姫路に入り、1985年春夏、1986年夏と甲子園に出場を果たす。1985年は、控えとして代打での出場にとどまったものの、1986年夏にはエースとして学法石川高校、拓大紅陵高校を破って東洋大姫路をベスト8に導いた。
 立命館大学でもエースとして関西学生リーグ歴代2位となる通算40勝を挙げた。
 長谷川がアマチュア時代に歩んだ道は、誰もがうらやむような理想の道だった。


 A新人王

 長谷川は、オリックスにドラフト1位で入団する。この年は、亜細亜大学の小池秀郎が8球団から指名を受けるという小池ブームが起こったが、オリックスは、小池を指名せず、関西から出た好投手長谷川を指名したのである。
 この指名は、確かだった。長谷川は、1年目から星野伸之、山沖之彦、伊藤敦規ら強力な先発陣と肩を並べてローテーションの中心投手として活躍し、12勝9敗1Sという好成績を残して新人王を獲得するのである。この年、オリックスは、64勝63敗と辛うじて勝ち越してAクラスを死守しており、長谷川は、Aクラスから転落する危機に現れた救世主だった。


 Bリーグ優勝、そして日本一

 1995年1月、オリックスの本拠地神戸を阪神淡路大震災という未曾有の天災が襲った。オリックスは、大打撃を受けた神戸を勇気づけようと「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となってペナントレースを引っ張る。
 長谷川は、投手陣を引っ張り、4完封を含む12勝7敗、防御率2.89とオリックスの強力投手陣の中でも抜群の安定感を誇った。打者ではイチロー、ニールらが好成績を残し、守護神の平井正史が剛速球で抑え続けて、オリックスは2位に12ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たしたのである。
 オリックスは、日本シリーズこそヤクルトに敗れたものの、翌年にはパリーグを制すと日本シリーズで巨人を破って見事日本一に輝く。長谷川は、このシーズン4勝にとどまったが、日本シリーズで2年連続登板を果たす。
 長谷川は、この2年間でリーグ優勝、日本一と頂点を極め、ついに大リーグへ渡る決意をするのである。


 C大リーグ挑戦

 長谷川は、大リーグに挑戦するという夢を早いうちから持っていた。野茂英雄が大リーグへ挑戦する前から既に大リーグ挑戦への願望を口にしていたのである。
 だが、長谷川は、オリックスのエースとして欠かせぬ存在になりつつあった。1995年オフに大リーグ挑戦を表明したものの、シーズン12勝をあげていた長谷川は、球団に慰留されて断念する。
 それでも、長谷川は、粘り強く球団と交渉を続ける。皮肉にも、1996年、シーズン途中で不振に陥った長谷川は、シーズン4勝にとどまったにもかかわらず、オリックスは日本一に輝き、長谷川への追い風となった。大リーグ挑戦に理解ある仰木彬監督の下にいたことも長谷川に味方した。
 長谷川は、球団との円満な交渉により、エンゼルスへの金銭トレードでの移籍が決まる。所属球団との激しい衝突を経て大リーグへ移籍した野茂英雄、伊良部秀輝とは異なるスムーズな移籍により、長谷川は、世間の大リーグ移籍に対するイメージを大きく変えたのである。
 さらに長谷川は、アメリカのマスコミに対しても積極的に英語で受け答えし、チームにもいち早く溶け込んだ。そんな国際派で模範的な姿勢は、アメリカ国民にも好印象を与えた。


 D名セットアッパー

 大リーグへ移籍した長谷川は、1年目の最初から大きな壁にぶつかる。先発でなかなか白星を挙げられなかったのである。白星を挙げられないあせりからか、本来の投球ができない悪循環に陥った長谷川は、先発よりも中継ぎとしての役割を求められる。
 だが、長谷川は、中継ぎに回ると本来の投球を取り戻し、好投を続ける。先発での失敗を取り戻すかのごとく投げ続けた長谷川は、日本人投手初のシーズン50試合登板を達成したのである。
 大リーグに対応できるようにと自ら課した厳しいウエイトトレーニングによって球威、球速ともに増した1998年の長谷川は、さらに安定感を増し、61試合に登板し、8勝3敗5S、防御率3.14という好成績を残す。大リーグではセットアッパーも、好成績を残せば先発投手級の評価を得ており、長谷川は、名セットアッパーとして大リーグで高評価を得ることになった。当時、日本では、まだ中継ぎと言えば、2線級投手を指すイメージが強かったが、長谷川の大リーグでの活躍は、中継ぎのイメージさえ大きく変えたのである。


 E日米のオールスターに出場

 長谷川は、日本で1995年に監督推薦によってオールスターゲームに出場しており、ほぼ完璧なピッチングを見せながら落合博満に同点本塁打を浴びてパリーグの勝利を消してしまうという苦い経験をしている。
 大リーグで実績を積み重ねていた2003年、故障で戦列を離れた佐々木主浩に替わってストッパーに抜擢された長谷川は、期待に応えて余りある活躍を見せ、何と28回2/3連続無失点という快記録も達成する。
 完璧な好投を続ける長谷川は、大リーグのオールスターゲームに監督推薦で選出される。日米両方のオールスターに出場という栄誉を勝ち取ったのである。
 初めての大リーグオールスターゲームに出場で硬くなったのか、長谷川は、1点リードの5回に登板したものの本来の投球ができず、ヘルトンに2ラン本塁打を浴びるなど、4失点で降板する。
 日米双方のオールスターで打たれたものの、長谷川は、オールスターでの悪夢を引きずらずに好投を続け、1995年、2003年のシーズンとも好成績を収めている。


 F日米通算100勝と大リーグ通算517試合登板

 長谷川は、オリックス時代にエースとして57勝を挙げたが、大リーグでは主にセットアッパーとしての道を歩んだだけに、勝ち星はあまり増えなかった。
 それでも、大リーグきってのセットアッパーとして1998年に8勝、2000年には10勝、2002年にも8勝を挙げるなど、安定した活躍を見せた。
 そして、2004年、ついに日米通算100勝を達成したのである。
 それでも、長谷川の日米通算100勝は、数字には表れない価値の大きさがある。2000年には66試合、2004年には68試合に登板したことからも分かるように、セットアッパーとして毎日のように準備し、大リーグ9年間で517試合もの登板を果たした。1年平均58試合も投げてきたことになる。そんな中で残した2003年の防御率1.48は、20勝や40セーブと同等の価値があると言っていい。
 また、日本人投手として大リーグ通算500試合登板を達成したのは長谷川が初めてである。


 G余力を残して引退

 2005年は、長谷川にとってマリナーズとの契約最終年だった。しかし、長谷川は、5月半ばまで好調だったものの、その後は失点する登板が目立ち、次第に負け試合での登板が増えた。それでも、長谷川は、自らのペースを崩さずに46試合に登板し、防御率4.19とまずまずの成績を残す。
 しかし、マリナーズは、長谷川との契約を更新しなかった。2006年には38歳になるものの、目立った衰えもない長谷川に、日米の数球団が獲得に動いた。
 だが、長谷川は、自ら現役生活にピリオドを打った。大リーグ9年間で1年平均58試合もの登板をこなしてきた長谷川にとって、ベストの気力、体力を維持することが困難になっていたようである。プロとして納得できる完璧な状態で投げられなくなったら引退。長谷川は、美しい引き際を選んだ。
 早すぎる引退ではあったが、現役時代にも随所に見せた潔い決断力は、辞めるときも健在だった。





(2006年2月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system