長谷川 良平
 1930年3月、愛知県生まれ。右投右打。投手。背番号18。半田商工高校から安田商店・安田繊維・新田建設・第一繊維という社会人チームを経て1950年、広島カープにテスト入団。
 1年目から15勝を挙げて早々とエースの座を手にしたものの27敗を喫して最多敗戦投手となる。
 2年目には17勝14敗でチーム解散の危機を救う。4年目の1953年には20勝10敗、防御率2.66の好成績を残して球界を代表する投手に成長した。
 1955年には30勝17敗、防御率1.69という成績で初のシーズン30勝を達成するとともに最多勝のタイトルを手にした。しかし、チームは58勝70敗2分で4位にとどまった。
 晩年は肩を壊して主に中継ぎで活躍した。
 1963年限りで引退。200勝まであと3勝で現役を終えた。常にBクラスだった弱小チームでこれだけの勝ち星を積み重ねた功績は高い評価を受けている。
 1965年から3年間、広島の監督を務めた。
 2001年、殿堂入り。

 小柄な体から腰を捻ってスリークォーターかサイドで変則的に投げ込む切れの良い直球と宝刀のシュートで弱小球団の広島で長年エースとして強豪球団を苦しめた。広島球団史上最高の投手との呼び声も高く、「小さな大投手」との異名を持っている。

 通算成績(実働14年):197勝208敗、防御率2.65。1564奪三振。最多勝1回(1955)

数々の伝説


 @テスト入団

 1950年、愛知県の社会人チームで野球をやっていた長谷川は、球団創設のため選手集めをしていた広島カープの入団テストに招かれる。
 当時、無名だった長谷川は、打席に立った広島の主力打者に対して宝刀のシュートを投げ続け、多くの打者のバットをへし折った。その光景を目の当たりにした石本秀一監督は、即座に採用を決定。長谷川は、その日のうちに広島と契約することになったのである。


 A広島カープ存続の危機を救う

 1950年は、長谷川の入団1年目であるとともに、広島という市民球団にとっても1年目のシーズンであった。
 長谷川は、先発投手として15勝27敗の成績を残したもののシーズン最多敗戦投手。チームは41勝96敗1分、勝率.299で最下位の8位に沈んだ。
 翌1951年は、セリーグは7球団になったものの、試合日程を組む難しさに直面したセリーグ連盟は、セリーグを6球団に減らすために「勝率が3割を切ったチームの処置は理事会が決める」という露骨な広島潰し策を打ち出した。
 1950年の広島は、勝率.299で唯一勝率3割を切った球団である。
 広島は、創設2年目にして解散の危機に立たされたのだ。
 長谷川は、入団2年目にして自らの右肩にチーム存続の運命を背負ってしまったのである。この年、長谷川は、獅子奮迅の活躍を見せる。41試合に登板し、17勝14敗、防御率3.48の成績を残したのだ。
 チームは32勝64敗3分で2年連続最下位。それでも、勝率.333を残して広島は解散を逃れた。長谷川の17勝は、チームの勝ち星の半分以上を稼いでおり、勝率も.548。長谷川が広島を救ったといっても過言でない働きだった。
 1952年の長谷川は、11勝にとどまったものの、広島は、37勝80敗3分で何とか勝率.316に踏みとどまり、最下位も脱出した。代わりに松竹が勝率.288で最下位に沈み、大洋に吸収合併されるという結果になったのである。
 

 B世間を揺るがせた長谷川問題

 1951年のオフ、長谷川への統一契約書が規定の12月15日までに届かなかったことから球界を巻き込んだ騒動へと発展する。
 契約書が届かなかったのは、広島で契約書の印刷が遅れてしまったためであったが、そのことを知った名古屋球団は長谷川獲得へ動き出した。広島に契約の意志がない、と判断したためである。しかし、広島がエースを手放すはずもなかった。
 話はこじれ、史上初のコミッショナー裁定に持ち込まれ、長谷川の移籍が認められない旨の裁定が出された。
 それでも、名古屋側は、あきらめきれずに長谷川獲得を目指したが、広島側の熱意が押し切り、長谷川は広島と契約することで決着したのである。
 この騒動は、3ヶ月に及び、マスコミは長谷川を叩いた。しかし、開幕前日に名古屋から広島駅に戻った長谷川は、多くの広島ファンに歓迎を受けた。


 C小さな大投手

 長谷川の身長は167センチ。体重も56キロ程度と当時としてもかなり小柄な投手だった。
 しかし、長谷川の投球は、入団当初から一級品であった。体を捻る変則的なフォームから繰り出される切れ味抜群の速球と何種類もある宝刀シュートで強豪球団の打者を抑えていった。投げる瞬間に跳ね上がるようにして、小さい体なのにサイドに近いところから投げ込む天然のシュートはかなりの癖球だった。同年代の金田正一との行き詰る投げ合いは語り草になっている。
 酒や遊びを絶ち、広島のために一心不乱に投げ続ける。まさに孤高のエースとして弱小球団を支え続けた。「小身、弱小、貧乏を逃げ場にしたくなかった」と自ら語る長谷川の投球は、気迫だけで投げているとまで恐れられた。「小さな大投手」という愛称は、長谷川のためにあるようなものである。


 D藤村富美男に浴びた代打逆転満塁サヨナラ本塁打

 1956年6月24日、甲子園で阪神×広島戦が行われた。
 試合は1−0と広島がリードしたまま9回裏に入る。しかし、阪神も粘りを見せ、広島は2死満塁のピンチを迎える。
 そのとき、阪神の監督兼任で三塁コーチボックスにいた藤村は、一塁コーチボックスの金田に促され、自ら「代打、俺」と告げたという。
 リリーフとしてマウンドに上がっていたのは長谷川である。長谷川がこの藤村に投げた渾身の投球はレフトスタンドへ運ばれてしまう。代打逆転満塁サヨナラ本塁打である。
 これが藤村の現役最後の本塁打となった。長谷川は、藤村の大ファンだったため、打たれても悔しさは残らなかったと言われている。


 E200勝目前で引退

 球団創設からエースとして投げ続けた長谷川も、1958年に肩を痛めてからは登板数が減った。それでも1963年までに積み重ねた勝ち星は197。
 長谷川は、あと3勝と迫った通算200勝を目前にして引退する。
 球団の運命を背負って守り抜いた長谷川にとって、200勝を目前に引退することに悔いはなかったという。
 長谷川の現役中、広島はついにAクラス入りすることはなかった。もし、広島以外の球団にいたなら通算300勝近くはしていたであろうと言われてもいる。
 しかし、1951年の広島32勝中17勝、1953年の広島53勝中20勝、1955年の広島58勝中30勝、1956年の広島45勝中22勝という記録は、いつまでも色あせることはないだろう。



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