原 辰徳 
 1958年7月、福岡県生まれ。右投右打。背番号8。神奈川県の東海大相模高校から東海大を経て4球団競合の末、ドラフト1位で巨人入団。その日、巨人指名選手として初めて号外が出たという。
 高校通算44本塁打を放ち、2年時の春の甲子園センバツ大会で準優勝。東海大学では3冠王を2度獲得し、通算打率は.398、21本塁打を放っている。大学通算144本塁打は、首都大学リーグ新記録でもあった。
 プロ入団1年目の1981年から三塁手としてレギュラーを獲得し、「若大将」の異名をとった。打率.268ながら22本塁打、67打点の活躍を見せて新人王に選出された。チームは、8年ぶりの日本一になっている。
 2年目から4番に座り、3年目の1983年には打率.302、32本、103打点で巨人のリーグ優勝に貢献し、MVPを獲得。
 新人のときから12年連続20本塁打以上という大記録も達成している。
 1987年のリーグ優勝、1989年の日本一、1990年のリーグ優勝、1994年の日本一にも大きく貢献している。特に1987年は自己最高打率の.307、34本塁打、95打点という好成績でチームをリーグ優勝に導いている。
 1989年に外野手に転向するが、その後再び3塁手に復帰し、1995年、アキレス腱の故障から37歳で引退。
 2002年から長嶋茂雄の後を受けて巨人の監督に就任。就任1年目から日本一になった。2003年シーズン終了後、監督を退任した。
 自然に構えたゆったりしたフォームから小さなバックスイングで豪快にレフト方向へ引っ張るバッティングで本塁打を量産した。 
 2006年には再び巨人の監督に就任。2007年にはリーグ優勝を果たしたが、クライマックスシリーズで敗退した。
 2008年には阪神に最大13ゲーム差をつけられながら逆転でリーグ優勝を果たし、クライマックスシリーズも制したが、日本シリーズでは3勝4敗で日本一を逃した。
 2009年には、第2回WBCの日本代表監督として日本をWBC2連覇に導くと、日本プロ野球では巨人をシーズン優勝、クライマックスシリーズ制覇、日本シリーズ制覇の完全優勝に導き、完璧な1年を作り上げた。

 通算成績(実働15年):打率.279、382本塁打、1093打点、1675安打。打点王1回(1983)MVP1回(1983)新人王1回(1981)最多勝利打点2回(1982・1983)ベストナイン5回(1983・1987・1988・1990・1991)ゴールデングラブ賞2回(1987・1988)

数々の伝説


  @怪我から三塁手に

 原は、小学生時代から投手であったが、打撃も人並み外れていた。
 中学2年生の冬、友達とサッカーをしていたところ、足首を故障してしまい、医者では「今後スポーツができない」と言われるほどの重傷だった。
 幸いにもその怪我は奇跡的に治っていったが、それをきっかけにして足へ負担のかかる投手はあきらめ、あこがれの長嶋茂雄が守っている三塁手に転向したと言われている。


  A打点王の裏話

 1983年9月10日、巨人×ヤクルト戦で、巨人は無死1・2塁のチャンスをつかんだ。
 バッターボックスに立った原は、チャンスを広げようと犠牲バントを試みた。主砲だけに、サインではなく、自主的な判断だったという。
 しかし、結果は失敗。
 気を取り直してヒッティングに切り替えた原は、次の球をものの見事に3ラン本塁打。
 そのシーズンは、山本浩二にほんの2点差をつけただけで打点王を獲得している。もしあの犠牲バントが成功していれば、1点差で打点王を逃していたわけである。
 犠牲バントは、時に成功しない方がいい結果を生むこともあるのだ。


  B1イニング2本塁打

 1985年5月12日、大洋ホエールズ戦で原は、8回の1イニングだけで2本塁打するという記録を成し遂げている。これは、巨人では川上哲治に次いで2人目の記録である。 


  C津田恒実の速球で骨折

 1986年、原は、好調に本塁打を量産し、9月24日までに既に自己最高の36本塁打を放っていた。
 しかし、9月24日の対広島戦で、広島の剛球投手津田恒実の投げた快速球に押されて、バックネット側にファールした際、左手甲を骨折。
 これ以降、原は、グリップの握り方を変えたといわれている。


  D涙の本塁打

 1989年10月26日、巨人×近鉄の日本シリーズ第5戦は、巨人の1勝3敗で迎えていた。巨人は第1戦から3連敗し、近鉄の加藤哲郎投手から「ロッテ(パリーグ最下位)より弱い」と酷評されていた。
 第5戦も、斎藤雅樹と阿波野秀幸の緊迫した投手戦となり、2×1で巨人リードで7回表まで進んでいた。
 原は、このシリーズで未だに無安打の絶不調状態にいた。そして、7回裏に2死満塁で打席が回ってきたとき、藤田監督が「絶対打てる」と何度も暗示をかけ、原は、吉井から見事に期待に応える満塁本塁打を放った。
 この本塁打により圧勝した巨人は、続く第6・7戦も勝ち、劇的な逆転日本一となった。


  E引退試合で本塁打

 1995年10月8日、原は、アキレス腱の故障からこの年は本塁打もここまで5本しか放っていなかった。そして、この日の広島最終戦が引退試合になっていた。
 4番スタメンで出場した原は、紀藤投手から有終の美を飾る382号本塁打をレフトスタンドに放った。
 試合後の引退セレモニーでは、巨人の4番という「聖域」を長年守り続けた誇りと、監督として再びグラウンドに戻ってくる夢を宣言し、ファンの歓声を浴びた。


  F監督1年目で日本一

 長嶋茂雄監督からバトンを受けて巨人の監督に就任した原は、開幕当初はつまずいたものの、ベテランと中堅、若手をうまく起用した采配で徐々に調子を上げていく。6月半ばに首位に踊り出てからは独走態勢を作り上げた。投手では上原浩治・桑田真澄・工藤公康らが終始安定した投球を見せ、打者では松井秀喜・清水隆行・高橋由伸らが猛打を見せた。
 原の父は、アマチュア野球界で多大な功績を残した名監督原貢。原辰徳も、父親譲りの素質を証明したが、翌年、阪神に独走を許したため、わずか2年で退任した。


  G監督としてメイクレジェンド

 2008年、巨人は、開幕5連敗を喫し、7月8日は首位阪神に13ゲーム差をつけられる苦戦を強いられる。
 しかし、原は、我慢強い采配でクリーンアップの復調を待ち、さらに投手陣では若手の山口鉄也、越智大祐らを多用して、反撃態勢を整える。そして、8月からは投手陣と打撃陣が絶好調となり、9月には怒涛の12連勝で追い上げ、10月8日に阪神との同率首位決戦で勝利を収め、ついに単独首位を奪った。そして、10月10日にリーグ優勝を決め、原は、球史に残るメイクレジェンドを完結させた。
 巨人は、クライマックスでも中日を破り、西武との日本シリーズでも先に3勝を挙げたが、3勝4敗で敗れ、6年ぶりの日本一を逃した。


  HWBC連覇と巨人の完全優勝達成

 2009年、原は、第2回WBCで日本代表監督として指揮を執る。
 日本は、第1ラウンドこそA組の1位決定戦で韓国に敗れて2位通過だったものの、第2ラウンドでは敗者復活戦から勝ち上がって韓国を破って1組1位通過を果たす。
 そして、準決勝でアメリカを9−4で破ると、決勝では5度目の対戦となった韓国を5−3で振り切って2大会連続世界一となり、原は、WBC優勝監督となった。
 原の快進撃は、日本のシーズンでも続き、巨人監督としてペナントレースを圧倒的な戦力で制すと、中日とのクライマックスシリーズも4勝1敗、日本ハムとの日本シリーズも4勝2敗で制して、日本一も達成した。
 同一年に世界一監督、日本一監督となったのは、原が史上初であり、2009年はまさに原の年となった。





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