1938年12月、佐賀県生まれ。投手・内野手。背番号20。鳥栖高校3年生のとき、三塁手から投手に転向し、社会人野球のブリヂストンタイヤで頭角を現す。1961年、中日に入団する。
入団1年目のオープン戦から快投を見せ、開幕後も3試合連続完投勝利の活躍で濃人監督の重用に応える。連投連投の日々ながらほぼ完璧な投球を見せ、中日を熾烈な優勝争いに加わらせる。結局、1ゲーム差で巨人に優勝をさらわれることになるが、シーズン35勝19敗、防御率1.70、310奪三振の驚異的な成績でチームの貯金すべてを稼ぎ出す。32完投という驚異の完投数を誇り、沢村賞にも選出される。
2年目の1962年も61試合に登板し、30勝17敗、防御率2.33という好成績で2年連続最多勝と2年連続30勝を記録するが、チームは3位に終わる。
3年目には10勝12敗、防御率3.83を記録して何とか2桁勝利を挙げたものの、2年目までの球威は影を潜める。
4年目の1964年には6勝11敗、防御率4.20とさらに成績が下降し、この年限りで投手をあきらめ、内野手に転向する。
1965年には主に三塁手として打率.199、3本塁打の成績を残すと、1967年には107試合に出場して打率.215、5本塁打を記録する。つなぎの打者として、26犠打を残してリーグ最多犠打に輝いている。
1968年には再び投手に転向して再起を図ったが、1勝1敗に終わり、その年限りで現役を引退した。
1998年、横浜の監督に就任し、その年に横浜を38年ぶりの日本一に導いた。2000年限りで横浜監督を退任した。
大きく伸び上がってから投げる豪快な投球フォームから繰り出す快速球と縦に落ちるカーブを武器に、1年目からチームの半数以上の試合に登板して「権藤、権藤、雨、権藤」と評された。投手として輝いたのは最初の2年間だけだったが、その2年間の輝きが突出していたため、最も記憶に残る伝説の投手となっている。
通算成績:(実動8年)82勝60敗、防御率2.69、667奪三振。最多勝2回(1961〜1962)最優秀防御率1回(1961)最多奪三振1回(1961)新人王1回(1961)ベストナイン1回(1961)沢村賞1回(1961)
打率.206、18本塁打、85打点、214安打。最多犠打1回(1967) |