古田 敦也
 1965年8月、兵庫県生まれ。捕手。背番号27。右投右打。立命館大学で活躍した後、1988年トヨタ自動車入りし、ソウルオリンピックで銀メダルを獲得。
 1990年、ドラフト2位でヤクルト入り。1年目からレギュラーとして野村克也監督の英才教育を受ける。
 1991年には激しい首位打者争いの末、落合博満をかわして.340で首位打者のタイトルを獲得し、ヤクルトが12年ぶりにAクラスへ躍進する原動力となった。
 1992年には打率.316、30本塁打、86打点と初の30本塁打を記録し、ヤクルトの14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。この年のオールスター第2戦ではサイクルヒットを記録している。
 1993年も.308、161安打、17本塁打を残してシーズン最多安打を記録するとともに、ヤクルトをリーグ2連覇に導いた。攻守に渡る活躍が評価されてシーズンMVPも獲得している。
 以後、1995年、1997年にも日本一となり、1997年には打率.322、9本塁打でシーズンMVPに選ばれ、日本シリーズでは打率.316、1本塁打、3打点と好リードでシリーズMVPを獲得した。
 2001年にも打率.324を残してヤクルトのリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも打率.500、1本塁打、3打点と大活躍。それに加えて、近鉄の猛牛打線を抑えた功績でMVPを獲得している。
 2004年にはプロ野球選手会長として合併阻止と新規球団参入に尽力し、合併は阻止できなかったものの、楽天の新規参入に多大な貢献をした。その一方で打率.306、24本塁打という好成績を残している。
 2005年4月には捕手として史上2人目となる通算2000本安打を達成した。
 2006年からはヤクルトの選手兼任監督となり、1年目は3位となったが、2007年にチーム低迷の責任をとってその年限りで監督を退任し、現役も引退した。
 現役を通じてリーグ優勝5回、日本一4回を経験しており、ヤクルトの黄金時代を作り上げた。
 2015年1月、野球殿堂入り。

 眼鏡をかけた捕手でありながら素早く正確なスローイングで圧倒的な盗塁阻止率を誇り、投手や打者の心理・癖を読んだ頭脳的リードで他チーム打線を抑え込んでいく扇の要だった。打撃の方も、打率を稼げる中距離ヒッターとして打線の中核を担った。

 通算成績(実動18年):打率.294、217本塁打、1009打点、2097安打。首位打者1回(1991)シーズンMVP(1993・2001)ベストナイン9回(1991〜1993、1995、1997、1999〜2001・2004)ゴールデングラブ賞10回(1990〜1993、1995、1997、1999〜2001・2004)

数々の伝説


 @太っていたからキャッチャー

 古田が野球を始めたのは小学三年生のときである。年上の子供たちを見て以前から野球に興味を持っていた古田は、少年野球チームへ入れる歳になってすぐに野球を始めたわけである。
 そして、与えられたポジションはキャッチャー。本人が言うには、当時は太っていて、太っているならキャッチャーが最適、と有無を言わせず決められてしまったそうである。
 小学生には嫌われがちなこのポジションも、古田は最初から嫌ではなかったという。


 A眼鏡をかけてプレー

 古田は、プレー中もずっと眼鏡をかけている。これは、大学進学を目指して受験勉強中に目を悪くしてしまったためだと言われている。
 立命館大学に進んだ古田は、眼鏡をかけてプレーし、正捕手で主力打者として活躍を見せる。だが、眼鏡をかけてプレーする古田に「プロに入りたいならコンタクトに替えた方がいい」という忠告をする人が多くなった。なぜなら「眼鏡をかけた捕手はプロ野球で成功しない」という格言が残っていたからである。確かに眼鏡をかけた捕手で有名なのは戦前のカイザー田中くらいである。
 古田は、コンタクト使用を試してみたものの目に合わず、断念して眼鏡でのプレーを続けた。
 そして、ドラフト会議当日、古田は、記者会見場まで用意してプロ球団からの指名を待った。事前に「指名する」と言ってきた球団があったからだ。しかし、古田の名前が読み上げられることはなかった。
 プロ球団は、眼鏡をかけたキャッチャーを避けたのだった。


 Bソウルオリンピック銀メダル

 トヨタ自動車に入った古田は、プロに指名されなかった悔しさをバネにして、そこでも正捕手兼主力打者として都市対抗野球で活躍するまでになる。古田は、アマチュアの全日本チームにも選ばれ、そこでも正捕手となる。
 1988年にはソウルオリンピックに出場。野茂英雄、潮崎哲也との最強バッテリーを中心にした布陣で、キューバには敗れたものの銀メダルを獲得したのである。


 C野村監督との師弟関係で球界を代表する捕手に

 トヨタ自動車で活躍する古田に目をつけたのは、ヤクルトの片岡宏男という編成担当だった。野村克也監督に捕手の獲得を指示された片岡は、古田獲得を決めるが、当初野村監督は「眼鏡をかけた捕手ならいらない」と言っていたという逸話も残っている。
 しかし、入団してきた古田の素質を見抜いた野村は、自らの持つ技術や知識をすべて古田に伝授していく。それは、あたかも大学の講義のようであったと言われている。
 古田は、1年目からいきなりレギュラーの座をもぎとり、試合中も配球から打者心理までに及ぶ野村監督独特のぼやき指導を真面目に吸収していく。2年目にヤクルトを13年ぶりのAクラスに導き、首位打者まで獲得した古田は、ID野球の頭脳として日本を代表する捕手となっていったのである。


 D驚異の盗塁阻止率

 古田が名捕手であることを示しているものは、卓越したリードが挙げられるが、データで示しているものもある。それが盗塁阻止率だ。
 盗塁阻止率は、プロでも4割を超えれば一流と呼ばれる。しかし、古田は、盗塁阻止率5割以上のシーズンが6回を数えた。また、盗塁阻止率1位のシーズンが1990年から1994年までの5年連続を含む10度にのぼる。
 しかも、1993年には.644、2000年には.630という驚異的な盗塁阻止率である。
 この高い盗塁阻止率を支えているのが、柔軟で投球動作を素早くできるように考え出されたキャッチング、そして、走者が走りこんでくるところに送球できる正確な強肩である。
 そのため、走者が古田から盗塁を奪うのは至難の業と言う他ない。


 E落合博満との首位打者争い

 1991年の古田は、リードでも成長を見せる半面、打撃面でも急成長を遂げ、首位打者争いに加わっていく。そして、最後は、大打者落合博満(中日)との壮絶な争いとなった。
 3冠王狙いの落合が本塁打狙いで調子を崩したのとは対照的に古田は好調を維持し、首位を奪う。しかし、落合も、あきらめずに猛追する。ヤクルト×中日の最終戦では欠場して逃げ切りを図る古田を援護すべく、落合に6打席連続四球を与えるという歴史的な記録も作られた。
 落合は、最後の2試合で驚異的な6打数5安打を記録し、打率を.3395として.3382だった古田を抜いてしまう。
 残り試合のあった古田は、落合を抜くべく出場。1打数1安打で見事打率を.3398として初の首位打者を獲得した。
 捕手で首位打者になったのは、野村克也以来2人目という偉業であった。


 Fオールスター史上初のサイクルヒット

 1992年のオールスター第2戦は千葉マリンスタジアムで行われている。ファン投票でトップとなり、この試合も先発出場した古田は、第1打席にいきなり三塁打を放った。古田は、その後もヒット、本塁打と続け、あと二塁打が出ればサイクル安打となるところまでこぎつけた。
 古田は、第4打席こそ、力んで凡退したものの、第5打席では見事な二塁打を放ち、サイクル安打を達成した。この試合のMVPにも選ばれている。
 オールスターでのサイクル安打達成は、1951年の第1回から数えて42年目にして初という偉業だった。


 GシーズンMVP&日本シリーズMVP

 1997年の古田は、前年の打率.256が嘘のように蘇った。4月から首位を快走するチームと刺激し合うように5月には月間MVPを獲得した。
 そして、独走態勢のまま2位に11ゲームの大差を付けて優勝。古田も、打率.322、9本塁打、86打点を残していた。
 古田は、チームの防御率を4.00から3.26にまで大きく引き上げた功績も評価されて2度目のシーズンMVPを獲得した。
 そして、西武と対戦した日本シリーズでも古田が3・4戦に決勝打を放つなど投打で圧倒し4勝1敗で日本一になった。古田の成績は、打率.316、1本塁打、3打点で、リードでも2完封を導くなど攻守の功績を認められ、シリーズMVPを獲得した。
 捕手で同じ年にシーズンMVP、日本シリーズMVPになったのは古田が初めてである。


 H選手会の権利のために

 古田は、プレーで素晴らしい働きを見せてチームを牽引しているだけでなく、プロ野球選手の権利の強化にも熱心に取り組んでいる。
 プロ野球選手の肖像権を日本野球機構ではなく選手会で管理できるようにするための奔走、試合増に対してセ・パ交流試合を強く提唱して実現に導いたこと、そして、プロ・アマチュア間の関係改善へ尽力したことなど、多くの活動を行ってきている。
 そして、最も注目を集めたのが契約の際の代理人制度である。
 1998年に選手会の会長に就任した古田は、この制度を実現させるために奔走した。今まで抑えられてきた選手の球団に対する交渉権を高めるとともに、選手と球団の間に代理人が立つことによる緩衝材の効果も狙ってのことであった。
 古田が先頭に立って強気の姿勢を通したかいがあって、ついに2000年から代理人制度が認められることになったのである。


 I4打数連続の1試合4本塁打

 古田は、ホームランバッターではない。シーズン20本塁打以上は3回あるが、10本程度に終わっているシーズンも多い。
 しかし、37歳10ヶ月で迎えた2003年6月28日の広島戦では、ホームランで日本タイ記録を作る。第1打席にライトスタンドへ10号ソロを放つと、第2打席四球の後、第3打席で左中間スタンドへ11号ソロ、第4打席ではレフトスタンドへ12号3ランを運んだ。そして日本タイ記録がかかった第5打席もレフトスタンドへ13号2ランを叩き込み、1試合4本塁打を達成した。この記録は、1951年の岩本義行(松竹)、1964年の王貞治(巨人)、1980年のソレイタ(日本ハム)、1997年のウィルソン(日本ハム)に続いて史上5人目の快挙だった。また、4打数連続本塁打も史上17人目の記録である。


 J選手会長として史上初のストライキ決行でプロ野球縮小化を阻止

 2004年6月13日、日本プロ野球界は、緊急事態を迎える。近鉄がオリックスとの合併を発表したからである。それを契機に経営者側は、12球団から11球団、さらに10球団での1リーグ制への移行という流れを作ろうと動き始めた。
 しかし、それは、全くと言っていいほど、ファンや選手の気持ちを無視した暴挙でもあった。古田は、選手会長として、近鉄の買収に名乗りを挙げたライブドアとともに合併の阻止に奔走する。
 古田の熱意は、世論を大きく動かして国民から圧倒的な支持を得る。逆に経営者側は、相次ぐ不祥事発覚により、4球団のオーナーが辞任する事態に陥ったのである。
 それでも、経営者側は、2企業が新規参入に手を挙げているにもかからわず、新規参入の先延ばしを図ろうとする。9月18日、古田は、ついに最終手段であった日本プロ野球史上初のストライキを決行する。翌19日までの2日間に渡るプロ野球全12試合という犠牲を払ってまでして選手、プロ野球界の将来を考えた勇気ある行動は、混乱を招くことなく、国民から温かく見守られた。
 その結果、近鉄とオリックスの合併こそ止められなかったものの、新規参入球団「楽天」の誕生が実現し、古田は、プロ野球縮小化を食い止めたのである。


 K捕手として史上2人目の通算2000本安打

 2005年4月24日、古田は、広島戦の6回に大竹寛投手からサード強襲する二塁打を放ち、通算2000本安打を達成する。
 プロ入りが24歳と遅く、守備の負担が大きい捕手でありながら、古田は、プロ2年目から常にチームの主力打者としての働きを見せ続けた。捕手としての2000本安打達成は、入団当時の監督で強い師弟関係を築いた野村克也に次いで史上2人目の快挙で、田淵幸一や木俣達彦、伊東勤らですら成し得なかった記録だけにその価値は計り知れないほど大きい。
 1991年の首位打者や1993年のシーズン最多安打に象徴されるように腕を柔らかく使って広角に打てる技術には定評があり、2004年までにシーズン3割以上が8回、シーズン130安打以上が実に11回もある。古田のリードには手厳しかった野村克也ですら、古田の打撃技術については手放しで褒めていたほどである。




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