数々の伝説
@一軍デビューは盗塁死
高校・社会人時代も、福本は、よく盗塁を試みており、成功率もかなり高かったという。
プロ1年目、福本は、代走で初出場を果たす。しかし、盗塁を試みたものの失敗に終わっている。
プロ入り当時、打球はなかなか内野さえ超えなかったと言われ、それが盗塁のスペシャリストを目指すきっかけとなったと言われている。
A足の速さ
福本は、13回もの盗塁王に輝いているが、飛びぬけて足が速かったわけではなかった。
50メートル走では6秒台前半程度で、同じチームの足の速い選手との競争でも負けていたと言われている。
B足に保険
阪急は、1972年7月14日、球団のPRのために福本の足へ1億円の保険をかけている。
その年の9月26日、福本は、西宮球場の対南海戦で当時の世界記録更新となる105個目の盗塁を決め、最終的に盗塁106という記録を残している。
また、9月19日には阪急の米田投手が二塁ランナー、福本が一塁ランナーとなり、福本に盗塁をさせるため、米田が故意に牽制死するチームプレーも見せている。
足への保険は次第にはね上がり、最終的には3億程度まで上がったと言われている。しかし、この保険が支払われることはなかった。鍛え上げられた頑丈な足は現役を通じて故障することがなかったからである。
C世界記録の939個目
1983年6月、西武戦で福本は2盗を決めて、ルー・ブロックが持つ盗塁938の世界記録に並んだ。
福本は、世界新記録は勝ち試合でと決めていたため、負けているこの試合ではもう盗塁はしないつもりだった。だが、あまりにも執拗なけん制が来るため、怒った福本は3盗を試みる。もちろん成功である。
ただ、世界記録を樹立したものの、試合は7-11で負けに終わっている。
福本は2盗は多かったが、意外にも3盗は少ない。福本によると、3盗をやるのは簡単だが、ヒットが出れば自分なら楽に本塁へかえって来られるので、する必要がなかったからだそうである。
D超ファインプレー
1974年7月22日、西宮球場で行われたオールスター第2戦で五回表、セリーグは二人走者を置いて阪神の田淵幸一がバッターボックスに入った。この時点でセリーグが3−2でリード。
田淵は、近鉄の神部年男投手から左中間へ大きな当たりを放った。
福本は、背走して外野フェンスに登り、さらにそこからジャンプして観客席に吸い込まれようとする球をキャッチ。
田淵のスリーランホームランになる当たりを捕球したこのファインプレーには、この試合に出場していた長嶋茂雄が「人間業じゃなく、猿技」と絶賛したと言われている。
E試されなかった福本対策
1972年、日本シリーズは巨人×阪急となった。
巨人の牧野茂コーチは、福本に足でかき回されることを恐れ、奇抜な対策を考え出した。
それは、投手が故意に牽制悪送球をして一塁側フェンスにボールをぶつけ、跳ね返ってきた球をあらかじめ待ち構えていた二塁手が捕球して、二塁ベース上の遊撃手に送り、誘い出された福本を二塁で刺す、という策である。
しかし、これは、練習では何度も試されたが、実際に使われることはなく終わっている。
F研究家
福本は、投手の癖さえ見抜けば、盗塁は成功すると考え、2年目のオフから8ミリカメラで様々な投手を撮影して研究。これは、夫人の父が盗塁王のお祝いをやる、と言ってくれたので、福本は、さらに走塁を研究するために8ミリカメラを買ってもらったのである。このカメラは、福本の走塁をさらに進化させた。そして、「盗塁は目でするもの」という極意の言葉にたどり着いたのである。
フィルムを導入した研究の成果で福本は、投手陣の癖を読むのがうまかったが、近鉄の神部投手の癖がなかなか見つけられず、苦労した。その癖を発見したのが、研究に使っていた8ミリビデオからだという。神部投手の踵の上げ方が打者への投球と牽制球のときでは微妙に違うことが分かったのである。
また、リーグは違うが、巨人の堀内恒夫投手の癖は見抜けなかったという。
G豪快に引退
世界の盗塁王となった福本に、政府は国民栄誉賞を与えようとした。しかし、福本は、それを辞退している。その理由を聞かれた福本は、こう答えたという。
「あんなもん、もらったら立ちションもできんようになる」
巨人の王貞治や広島の衣笠祥雄が厳粛にもらい受けた賞を豪快に断るところがいかにもパリーグのプレーヤーらしい。
そんな豪快さは引退するときにも発揮されている。1988年、山田久志投手の引退式で上田利治監督は挨拶をした。
その中で「去る山田、そして残る福本」と言うべきところを上田監督は間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまう。
「福本の引退」など、誰もが寝耳に水である。関係者はおろか、聞いていた本人さえも驚いたという。観客は騒然とし、さらにマスコミが騒ぎ立てたため、福本の周りは急に慌しくなった。
マスコミに激しく問い詰められた福本は、「言ってしまったものは、仕方ない」と自ら現役引退を表明する。考える暇もないほど、あっさりした引退劇だった。
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