福留 孝介
 1977年4月、鹿児島県生まれ。右投左打。外野手、内野手。背番号1(中日→カブス→インディアンス→ホワイトソックス)→8(阪神)。
 PL学園で1年秋から4番を打ち、2年春、3年の春、夏の甲子園に出場し、3年夏には2打席連続本塁打を放つ。1995年のドラフト会議では7球団から1位指名を受けて近鉄が交渉権を獲得したが、入団を拒否する。
 社会人野球の日本生命に進み、アトランタ五輪の日本代表として銀メダル獲得に貢献する。
 1998年のドラフト会議では中日を逆指名し、ドラフト1位で入団する。
 プロ1年目の1999年から遊撃手のレギュラーを獲得し、打率.284、16本塁打の成績を残した。
 2000年には三塁手に転向し、2001年には外野手に転向する。
 2002年に打率.343、19本塁打の好成績を残して首位打者を獲得し、ベストナインに選出される。
 2003年は、打率.313、34本塁打、96打点、出塁率.401の好成績を残し、最高出塁率とベストナインに輝く。6月にはサイクル安打を達成した。
 2004年、打率.277、23本塁打、81打点で中日のリーグ優勝に貢献する。アテネ五輪にも出場し、銅メダルを獲得する。
 2005年は、打率.328、28本塁打、103打点、出塁率.430の活躍を見せて最高出塁率に輝く。
 2006年には打率.351、31本塁打、104打点、出塁率.438の活躍で2度目の首位打者を獲得し、最高出塁率にも輝く。チームも、リーグ優勝を果たし、シーズンMVPに選出される。
 2007年は、故障離脱があって打率.294、13本塁打に終わるが、中日の日本一に貢献した。
 2008年には大リーグのカブスに移籍。開幕戦で同点3ラン本塁打を放つ活躍を見せて4月は打率.327を記録したが、後半戦に調子を落とし、シーズン打率.257、10本塁打にとどまった。
 2009年は、打率.259、11本塁打、2010年は打率.263、13本塁打を残す。
 2011年途中でインディアンスに移籍すると、2012年はホワイトソックスに在籍した。
 2013年に日本球界の阪神に入団。1年目は不調に苦しんだものの2年目に9本塁打を残すと、2015年には打率.281、20本塁打と復調する。
 2016年には打率.311、11本塁打を残し、日本球界復帰後初の打率3割を記録した。7月には史上4人目となる2度目のサイクル安打を達成した。

 鋭いスイングで広角に長打を放つ技術を持ち、打率も本塁打も高い数字を残せる。選球眼に定評があって出塁率が高い。外野の守備力にも定評があり、広い守備範囲と強肩を誇る。

通算成績(2016年末時点)(日本13年)打率.296、238本塁打、847打点。首位打者2回(2002、2006)最高出塁率3回(2003、2005〜2006)シーズンMVP1回(2006)ベストナイン4回(2002〜2003、2006、2015)
ゴールデングラブ賞5回(2002〜2003、2005〜2006、2015)
(大リーグ5年)打率.258、42本塁打、195打点。


数々の伝説


 @高校生歴代1位の7球団指名から近鉄入団拒否

 福留が世間に広く名を知られるようになったのは、PL学園で甲子園を沸かせてからである。
 福留は、3回甲子園に出場しており、特に3年夏は大阪府大会で8試合7本塁打という驚異的な打撃を見せて甲子園に出場し、1回戦の北海道工業戦で2打席連続本塁打を叩き込んだ。準々決勝で敗れたものの、15打数7安打、打率.467の成績でドラフトの目玉となった。
 ドラフト会議では、7球団から1位指名され、これは、清原和博の6球団を上回る高校生史上最多球団からの指名であった。
 福留の交渉権は、近鉄の佐々木恭介監督が引き当て、「よっしゃー」という叫び声とガッツポーズが話題になった。しかし、福留の希望は、中日か巨人であったため、福留は、近鉄入団を拒否して社会人野球の日本生命に進む。
 その後、中日に入団し、佐々木恭介とは2002年から選手と打撃コーチの師弟関係となり、指導を受けて首位打者を獲得した。


 A外野手転向で開花

 福留は、内野手として入団し、1年目から遊撃手のレギュラーとなって16本塁打を放ち、打撃では非凡さを見せつけたのに対し、守備では失策が多かった。
 2年目以降は、守備での不振が打撃にも影響し、2・3年目は1年目の成績を上回れず、伸び悩んだ。
 そのため、首脳陣は、守備位置の転向を検討し、2年目の途中には三塁手へ転向、3年目の途中には外野手に転向し、ライトを守るようになった。
 外野手転向で守備の負担が減った福留は、打撃でも進化を見せ始め、4年目の2002年には、ついに初の3割となる打率.343を記録して首位打者を獲得する。


 B松井秀喜の三冠王を阻止

 2002年の福留の活躍は、三冠王を狙っていた松井秀喜の脅威となった。この年が日本最後のシーズンとなった松井は、異次元の打撃を見せて高い打率を残しながら驚異的なペースで本塁打を量産していた。
 松井は、打率.334、50本塁打、107打点という成績で本塁打王と打点王の二冠を獲得したが、首位打者は、福留が打率.343を残したため、獲得できなかった。
 福留は、前年が打率.251であったものの、この年は、3番打者に定着してシーズンを通して好調を維持し、球団記録となる186安打を放ったほか、42二塁打でシーズン最多二塁打も記録した。松井との激しい首位打者争いも、9厘差をつけて制し、松井の三冠王を阻止した。


 Cリーグ優勝に貢献してシーズンMVP

 2006年の中日は、投攻守のバランスが完璧なまでに整ったチームとなり、6月から首位を走って阪神の追撃も振り切ってリーグ優勝を果たす。
 そんなチームで攻守の中心となっていたのが福留である。福留は、シーズンを通じて打ちまくり、自己最高の打率.351を残して首位打者に輝いたほか、31本塁打、104打点、11盗塁を記録する。
 特にオールスター直後の7月25日からの2位阪神3連戦では3試合連続で勝利に貢献する打撃を見せる。さらに続く巨人戦でも決勝打を放って4試合連続お立ち台の活躍を見せ、中日の独走体勢を作り上げた。
 リーグ優勝の立役者となった福留は、その年のシーズンMVPに選出されている。


 Dオールスター辞退で野球協約を改正させる

 野球協約ではオールスター出場辞退者は、後半戦開始後10試合に出場選手登録できない。
 しかし、2006年当時、「顕著な傷病等により出場できなかったものとコミッショナーが認めた時は、出場登録できるまでの期間を短縮することができる」という但し書きがあり、故障の診断書があれば登録停止期間が短縮できた。
 そのため、福留は、オールスターを故障で出場辞退しながら後半戦の1試合目から出場し、4試合連続お立ち台という大活躍を見せた。
 そして、その活躍がリーグ優勝の決め手にもなったため、社会問題に発展した。
 この事態を受けて、野球協約は改正を余儀なくされ、前記の但し書きは廃止となり、故障の診断書があっても登録停止期間は短縮できなくなった。


 E第1回WBCで起死回生の本塁打

 第1回WBCで最も印象に残る場面と言えば、準決勝の韓国戦である。この試合は、緊迫した投手戦となり、0−0のまま7回表に入り、日本は、先頭の松中信彦が二塁打でチャンスを作った。
 その後、1死2塁となった重苦しい雰囲気の中、日本は、不調によりこの日スタメンから外れていた福留を代打に送る。
 福留は、王貞治監督の期待に応えて、ライトスタンドへ大きな先制2ラン本塁打を叩き込んだ。これによって勢いに乗った日本は、その回5点を奪い、6−0で勝利する。
 決勝でも福留は、ダメ押しとなる2点タイムリー安打をレフトに放ち、日本は、10−6で勝って世界一となった。


 F誠意は言葉ではなく金額

 中日の黄金時代を築き上げた福留は、選手の地位向上にも尽力し、契約更改では粘り強く交渉した。そして、2007年には、福留への誠意を強調する球団に対し、「誠意は言葉ではなく金額」という名言を残した。
 この言葉は、「金にうるさい福留」という悪いイメージを世間に植え付けてしまったが、2011年に東日本大震災が起きた際には、100万ドルを寄付して誠意を示し、「有言実行の福留」という良いイメージに世間の評価を大きく好転させた。


 G大リーグ挑戦

 中日の黄金時代を築き上げた福留は、2008年、大リーグのカブスと契約する。走好守が揃った福留の評価は高く、4年総額4800万ドル(53億円)という破格の契約となった。
 2008年の開幕戦では同点3ラン本塁打を含む3打数3安打と大活躍を見せ、シーズン前半は素晴らしい活躍を見せたが、後半に失速し、打率.257、10本塁打に終わった。
 その後も、シーズン序盤には好成績を残すものの、過酷な日程や慣れない中堅守備によって好調を維持できず、2010年の打率.263、13本塁打が大リーグでの最高成績となった。


 H阪神で復活

 2013年、日本球界に復帰し、阪神に入団した福留だが、大リーグ時代の不振から抜け出せず、2013年は打率.198に低迷した。
 しかし、翌年から徐々に復調し、2014年に9本塁打を放つと、2015年には打率.281、20本塁打を放ってシーズン終盤には四番に入るほどとなった。
 2016年には主に四番打者としてシーズンを通して高打率を残し、打率.311を記録して日本復帰後初の打率3割を達成した。


 I日米通算2000本安打

 2016年6月25日、福留は、マツダスタジアムでの広島戦に先発出場し、4回表に岡田明丈からライト線への二塁打を放って日米通算安打を1999本とする。
 そして、6回表にも岡田から二塁への内野安打を放って日米通算2000本安打を達成した。
 福留は、大リーグで498本を放っており、日本での1502安打と合わせての2000本安打となった。日米通算で2000本安打を達成したのは、通算6人目の快挙だった。


 J史上4人目となる2度のサイクル安打

 中日時代の2003年6月8日、福留は、ナゴヤドームの広島戦に3番打者として先発出場し、サイクル安打を達成する。
 1回第の1打席にセンターオーバーの二塁打を放った福留は、2回第2打席では右中間スタンドへ満塁本塁打、4回の第3打席で右中間への二塁打を放って第4打席では左中間への三塁打を放つ。
 単打だけを残した第5打席ではセンター前安打を放って、見事にサイクル安打を達成する。

 そして、2016年7月30日、福留は、阪神の4番打者として甲子園での中日戦に先発出場すると、2回の第1打席でライトスタンドにソロ本塁打を放つ。そして、4回にはセンター前安打、5回にはライトオーバーのタイムリー三塁打を放つ。
 さらに、6回にはレフトオーバーの二塁打を放ち、2度目のサイクル安打を達成した。
 サイクル安打を2度達成したのは藤村富美男、ロバート・ローズ、松永浩美に続いて史上4人目の快挙であった。


 K日米4球団で背番号1

 福留が中日に入団したとき、背番号1は空番号となっていた。逆指名の1位で入団した福留は、当然のように背番号1が与えられた。
 そして、2008年にカブスに移籍したときも、カブスは、福留に背番号1を与えた。その後、2011年のインディアンスでも背番号1が与えられ、さらにホワイトソックスでも背番号1を着けることになり、日米4球団で背番号1を背負った選手となった。
 その後、日本の阪神に入団するが、阪神には長年背番号1を背負って活躍する鳥谷敬がいたため、背番号は8となった。




(2016年12月作成)

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