藤原 満
 1946年9月、愛媛県生まれ。右投右打。内野手。背番号7。松山商業高校から近畿大学へ進んで全日本大学選手権で準優勝を飾って注目を集め、ドラフト4位で1969年南海に入団する。
 入団1年目から55試合に出場し、打率.193ながら2本塁打を放つ。
 1971年には81試合出場で打率.267、9本塁打を残して頭角を現す。
 1973年にはレギュラーを獲得し、113安打、10本塁打で初のシーズン100安打以上、2桁本塁打を記録してチームのリーグ優勝に貢献する。
 1975年には足にも磨きをかけて29盗塁を成功させる。
 1976年には打率.302、8本塁打、48打点、50盗塁、159安打という見事な成績を残してリーグ最多安打に輝く。打率もリーグ2位であり、初のベストナインとゴールデングラブ賞も受賞した。前期、後期ともチームを2位に押し上げた。
 1977年には打率.300で2年連続3割を達成する。
 1979年に打率、295、7本塁打、62打点、20盗塁の成績を残すと、1980年には打率.300を残し、3年ぶりの打率3割を記録する。1981年にも打率.300、24盗塁、154安打という安定した成績を残し、2度目のリーグ最多安打に輝くとともに、2度目のゴールデングラブ賞も受賞する。
 しかし、1982年、シーズン122安打を放ちながらも、打率.262に終わると、チーム事情と自らの納得できる安打が放てなくなったことを理由に突如として現役を引退した。

 太く重いツチノコバットを使いこなして球にバットをぶつけるようなコンパクトなスイングで安打を製造し、南海の看板選手としてリーグ優勝にも貢献した。また、守備や走塁の技術も卓越していた万能選手だった。

通算成績(実動14年)打率.278、65本塁打、413打点、1334安打、195盗塁。最多安打2回(1976・1981)ベストナイン1回(1976)ゴールデングラブ賞2回(1976・1981)

数々の伝説


 @近畿大学を全国区のチームにする

 松山商業高校から近畿大学へ進んだ藤原は、遊撃手としてのちにロッテで活躍する有藤道世と三遊間を組み、エース山下律夫を擁して最強のチームを作り上げる。
 その強さは、社会人野球のチームと試合をしても負けることがないほど圧倒的で、1966年関西六大学野球春のリーグ戦では見事に優勝を飾り、全日本大学選手権に進む。
 全日本大学選手権でも、順調に勝ち続けて決勝戦に駒を進める。決勝の日本大学戦でもリードを奪うが、豪雨の影響で40分間の中断やぬかるんだグラウンドに足をとられた守備の乱れなどで逆転負けを喫した。
 それでも、藤原がいた当時のチームは、現在でも近畿大学史上最強との呼び声が高い。


 Aツチノコバット

 藤原は、大学時代までは主にクリーンアップを任されるバッターで、ランナーを還す長打を狙えるバッターだった。
 しかし、1970年から南海の監督に就任した野村克也は、藤原のアベレージヒッターとしての素質を見抜き、ツチノコバットに変えるよう指示を出す。
 この太く重いツチノコバットは、かつて大リーグで通算4191安打を放ったタイ・カッブが愛用していた型のバットで、藤原は、カッブのように本塁打よりも単打を放つことに長けたバッターへの成長を遂げることになる。
 そして、藤原は、1973年にはレギュラーに定着し、野村監督の下で南海のリーグ優勝に貢献する。ツチノコバットは、その後、福本豊や大石大二郎が使用したことで有名になったが、そのはしりは、藤原なのである。


 B伝説のコーチ最初の教え子

 藤原を語る上で忘れてはならないのが、1973年に打撃コーチとなった高畠導宏である。
 高畠は、伸び悩んでいた藤原を熱心に指導し、ツチノコバットを使いこなす技術を叩きこんだ。
 これにより、藤原は、コンパクトなスイングで球を確実にとらえる技術を身につけ、この年113安打を放って素質を開花させる。
 その後、藤原は、1976年には打率.302、159安打を残して3割打者になるとともに、リーグ最多安打を記録する安打製造機となる。
 一方、高畠は、その後もロッテ、ダイエー、中日など7球団でコーチを務め、その後、58歳にして高校教師に転身する。その半生は、のちに『フルスイング』というタイトルでテレビドラマ化され、大きな反響を呼んだ。


 C野村南海の初優勝に貢献

 1972年までは主に遊撃手として出場していた藤原だったが、1973年には三塁手に転向してレギュラーを獲得し、128試合に出場する。打率こそ.263だったものの、113安打、10本塁打を放って南海の前期優勝、及びリーグ優勝に貢献する。この年の優勝は、野村克也監督が監督としての初優勝であり、藤原にとっても初の優勝だった。

 巨人との対戦となった日本シリーズでは第1戦で2−3の8回裏に2死満塁で藤原に打席が回る。藤原は、巨人のエース高橋一三からセンター前へ逆転2点タイムリーを放つ。試合は、そのまま4−3で勝利し、藤原は、ヒーローになったが、南海は、その後4連敗を喫して日本一を逃している。


 D最多安打と打率2位

 1976年の藤原は、全130試合に出場し、年間通して走攻守にわたって安定した活躍を見せる。そして、シーズン打率.302、8本塁打、159安打、50盗塁という自己最高の成績を残す。
 159安打は、リーグ最多安打であり、打率も最後まで激しい首位打者争いを繰り広げ、吉岡悟の打率.309に次いで2位に入る。この年は、かなりの投高打低であり、チーム打率が.260を超えた球団は1つもない。それだけに藤原の成績は、打率以上に価値があると言っても過言ではない。藤原の活躍により、チームは、前期、後期ともに2位に食い込み、藤原もベストナインに輝く。
 また、盗塁数も、福本豊の62盗塁に次いで2位の記録であり、守備も評価されてゴールデングラブ賞を受賞している。


 Eオールスター新記録の1試合二塁打3本

 1976年のオールスターゲームに藤原は、7番三塁手として出場する。この日の藤原は、2回表の第1打席でライトへ二塁打を放つと、第3打席となった6回にもライトへ二塁打を放つ。
 そして、7回の第4打席ではレフトへ二塁打を放ち、1試合3本の二塁打を記録する。これは、従来の2本を超えるオールスターゲーム新記録だった。
 藤原は、これほどの活躍をしたものの、MVPは、本塁打を含む4安打を放った門田博光だった。
 藤原は、3年後の1979年にも第1戦から第3戦まで3試合連続二塁打を放ち、オールスター新記録を樹立している。また、第1戦では2本の二塁打を記録しており、オールスターゲームで年間4本の二塁打は、1位タイ記録となった。


 FオールスターMVP

 1981年のオールスターゲーム第1戦で6番打者として出場した藤原は、2回の第1打席でセンター前ヒットを放つ。
 そして、パリーグが1−3で迎えた6回表に落合博満が2点二塁打を放って同点にしたところで、藤原が打席に入る。そして、藤原は、大洋の斉藤明夫投手からセンター前にタイムリーを放ち、4−3と逆転に成功する。
 試合は、5−3でパリーグが勝ち、決勝打を放った藤原は、MVPに選出された。
 藤原は、オールスターゲームにめっぽう強く、通算成績は、5年間で15試合に出場して、通算打率.400である。


 G8年連続100安打以上

 藤原は、1975年に134安打を放って以降、8年連続100安打以上を記録する安打製造機として恐れられることとなる。その8年間のうち打率3割以上が4回、最多安打も1976年の159安打と1981年の154安打の2回記録している。
 藤原は、ツチノコバットで球へ食らいつくように叩く打撃スタイルを持ち、積極的に打って行ったため、毎年三振数も四球数も少ない打者だった。そして、盗塁も8年間で20盗塁以上を5回記録する俊足であり、それらが安打の製造を助けた。
 しかし、藤原が8年連続で100安打以上してきたのが途切れたのは、意外にも突然の引退によってだった。
 

 H122安打放ちながら突然の引退

 1982年にブレイザー監督が辞任すると、後任の監督は、2軍監督だった穴吹義雄が務めることになる。
 穴吹は、チーム再建のため、看板選手だった藤原に引退してコーチになるよう勧める。藤原は、その年、打率こそ.262だったものの122安打を放っており、前年には打率3割を残した南海の中心打者である。年齢は、36歳になっており、若手も成長してきてはいたが、藤原の引退を惜しむ声は多かった。
 しかし、藤原は、チーム事情を考慮し、さらに飛ぶボールの影響で内野と外野の間に落ちる藤原らしいヒットが減少してきたこともあって、引退を決断する。
 藤原が引退する年に放った122安打は、余力を残して引退した山本浩二や王貞治、長嶋茂雄らの引退年の安打数をもしのぐ快記録である。




(2009年3月作成)

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