1947年10月、和歌山県生まれ。右投左打。内野手。背番号6。市立和歌山商業で3季連続甲子園に出場。1965年春には準優勝を果たした。創設になったばかりのドラフトで阪神から2位指名を受けて1966年、入団する。
2年目からレギュラーとして打率.291を残し、154安打でリーグ最多安打を記録する。30二塁打、10三塁打もリーグ最多だった。ベストナインにも選出されている。
1969年には打率.293、19本塁打を残し、2度目のベストナインを受賞する。この年は、リーグ最多打数ながら併殺打ゼロだった。
1971年には自己最多の28本塁打を記録し、1972年には27二塁打で3度目の最多二塁打に輝く。
1974年には打率.302を残して初の3割台に乗せた。
その後も打撃に円熟さが加わって1977年、1978年と3割以上を記録。1978年には最多連続打席無三振208の日本新記録を樹立した。
1979年、アキレス腱を痛めたが、翌年には復帰し、規定打席には満たないものの.304を残す。
そして、1981年には打率.358でついに念願の首位打者を獲得し、カムバック賞にも輝く。この年から打撃コーチも兼任している。
1983年には通算2000本安打を達成。
1984年は打率1割台に終わり、現役を引退した。
1995年には阪神の監督代行となり、1996年には監督を務めた。
現役中、巨人のV9と重なったこともあって2位を6回経験するものの、リーグ優勝とは無縁に終わった。
遊撃手というハードなポジションながら滑らかで美しいスイングと柔らかいリストで毎年安定した成績を残したアベレージヒッターである。ミートの技術に優れ、三振数が非常に少ない打者で、ベストナインの常連だった。
通算成績(実働19年):打率.286、207本塁打、802打点、2064安打。首位打者1回(1981)最多安打1回(1967)ベストナイン7回(1967・1969〜1971・1973・1974・1981)ゴールデングラブ賞3回(1973・1975・1981)
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