藤本 英雄
 1918年5月、韓国釜山生まれ(山口県育ち)。投手。右投右打。背番号主に17(巨人)。下関商業から明治大学を経て1942年に巨人入団。
 戦争により、大学の卒業が始まったため、9月からマウンドに立ち、1年目のシーズンは10勝0敗、防御率0.81という奇跡的な記録でデビューを飾った。巨人も2位に12.5ゲームの差をつけて優勝している。
 2年目の1943年には戦時中で試合数が減らされたにも関わらず、34勝11敗、防御率0.73の成績で最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得し、253奪三振で奪三振王にもなっている。チームも54勝で優勝しており、藤本は1人でほぼ3分の2の勝ち星を挙げて貢献した。5月22日にはノーヒットノーランも達成している。
 翌1944年も戦争が佳境に入り、試合数が大幅に減らされたとはいえ、114奪三振で奪三振王に輝いている。
 戦後は、巨人に復帰し、防御率2.11で2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得。1947年に中日に移籍したが、1年で巨人に戻っている。そして、1948年に肩を痛めたが、そのときにスライダーをマスターし、1949年に24勝9敗と鮮やかに復活。
 防御率は、1.94で3度目の最優秀防御率のタイトルを手にしている。チームも、2位に16ゲームの大差を付けて優勝した。
 1950年6月には日本初の完全試合を達成している。
 1954年に肩を痛めた藤本は、1955年のシーズン終了前に200勝目を挙げて、その年、1勝0敗の成績を残して現役引退。

 右のオーバーハンドから繰り出す直球で若い頃は押し、肩を痛めて以降はスライダーを駆使した打たせてとるピッチングで素晴らしい防御率を残し続けた。
 通算防御率・シーズン防御率ともに歴代1位の記録をもっている。

 通算成績(実働13年):200勝87敗、防御率1.90(歴代1位)、1177奪三振。63完封。最優秀防御率3回(1943・1946・1949)最多勝(1943)最多奪三振(1943・1944)沢村賞〈1949)

数々の伝説


 @日本記録のシーズン防御率0.73と投手5冠王

 1943年、藤本は、シーズン防御率0.73という不滅の大記録を達成している。
 1943年と言えば、第二次世界大戦末期で日本は深刻な貧困に陥っていた。そのため、物資不足の影響をもろに受け、球質も悪化。あまり飛ばないボールが生産されることになった。
 そのため、この頃は投手有利な状況になっており、リーグ平均打率が.196であった。
 藤本は、そんな状況を味方につけ、6試合連続完封を含む完封勝利19を達成した。
 また、この年達成した62回連続無失点は、金田正一の64回3分の1無失点に次いで歴代2位の記録となっている。
 そして、この年の成績、防御率0.73、勝率.756、34勝、19完封勝利、253奪三振はすべて1位であり、最も難しいと言われる投手5冠王に輝いている。
 これでも他に2試合が0−0で延長12回引き分けで完封勝利になっておらず、本来なら21完封勝利となっていたところである。


 A6試合連続完封

 1943年、藤本は、8月2日の大和戦を2−0で3安打完封すると、点を取られなくなり、8月8日の阪神戦は1−0で3安打完封、8月10日の南海戦では4−0で2安打完封、8月16日の阪神戦も2−0で3安打完封、翌日には朝日戦に4−0で5安打完封して5試合連続完封となった。
 そして、9月12日の朝日戦は投手戦となり、6安打を浴びたものの粘り強く投げ続け、1−0で完封勝利をあげて6試合連続完封という日本記録を打ち立てた。
 1962年に小山正明(阪神)が5試合連続完封し、6試合目の完封を目指したが、巨人の王貞治に2ラン本塁打を浴びてあえなく夢破れている。


 B日本人で初めてスライダーをマスター

 1948年、藤本は、肩を痛めて、多摩川の合宿所でリハビリを続けていた。
 リハビリ中、宇野光雄をキャッチボールをしていたとき、横に滑るように変化する球を生み出した、という。
 その後、大リーグで「火の玉投手」と呼ばれたボブ・フェラーの著書から、スライダーと呼ばれているのを知り、磨きをかけた。
 そのスライダーをマスターした藤本は、1949年には24勝9敗、防御率1.94という好成績を残している。
 このスライダーで打たせてとるピッチングが非常に安定した防御率を残す原因となったが、一方で奪三振数も減る結果を生んだ。通算1177奪三振というのは200勝以上を達成した投手の中では若林忠志に次いで2番目に少ない奪三振数である。


 C日本初の完全試合

 1950年6月28日、藤本は、青森で行われた西日本戦で先発した。当初、先発予定の多田文久三が腹痛のため、急遽先発することになったのだ。
 藤本は、9回を投げきり、1本の安打も許さず、その上1個の四死球も与えず、失策もなかった。
 これが日本プロ野球初の完全試合であった。
 しかし、この試合は北海道シリーズの帰り道であったため、カメラマンは全員先に帰京してしまい、記者が4人いただけ。最初の大記録であるにも関わらず、1枚の写真すら残っていないという。
 しかし、巨人は、藤本の功績をたたえて賞金3万円を出している。
 

 D最後の勝利が通算200勝目

 藤本は、晩年肩を壊し、1954年は1勝2敗に終わって、通算勝利は199勝で止まっていた。1955年は、シーズン当初からずっと戦列を離れており、再起が危ぶまれていた。
 しかし、シーズンも終了が近づいた10月11日、和歌山球場で行われた巨人×広島戦で藤本は先発。往年の球威は衰えていたが、変化球を駆使して、奪三振ゼロながら広島打線を5回無失点に抑え、勝利投手となった。
 これが、藤本にとっては通算200勝目であり、この登板を最後に現役を退いている。



 E通算防御率1位

 藤本は、シーズン防御率0.73の日本記録を持っているが、通算防御率でも2位の野口二郎の1.96をしのぎ、1.90で歴代1位となっている。
 戦前戦後の劣悪なボールやバットを使用していたという投手優位の時代背景も避けて通れないが、常に安定して好成績を残してきたことも確かである。
 おそらく、この通算防御率の記録は永遠に破られることがないだろう。
 



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