藤井 康雄
 1962年7月、広島県生まれ。右投左打。外野手・内野手。背番号38→10→8。大阪府の泉州高校からプリンスホテルに進み、日本代表メンバーとして実績を残してドラフト4位で1987年、阪急(のちのオリックス)に入団する。
 1年目から即戦力として77試合に出場すると、打率.281、2本塁打を記録し、1988年には打率.286、20本塁打を記録してレギュラーを獲得。外野手も一塁手もこなせるスラッガーとなる。
 1989年にはブルーサンダー打線の一角として打率.292、30本塁打、90打点の活躍でリーグ優勝まであと1勝というところまで迫る。オールスターでも本塁打を放ち、初のベストナインにも選出されている。
 1990年は、打率.285、37本塁打、96打点という活躍を見せ、チームを2年連続2位に押し上げた。
 1992年こそ20試合出場で0本塁打に終わったものの、1993年には28本塁打で鮮やかに復活。2度目のベストナインにも選出される。
 1995年には14本塁打を放ってリーグ優勝に貢献し、1996年には打率.274、20本塁打を残し、オリックスのリーグ2連覇と日本一に貢献する。
 1998年には8年ぶりにシーズン30本塁打を放つ活躍を見せる。
 2001年には15本塁打を放って9年連続13回目の2桁本塁打を記録する。この年の9月には代打逆転満塁サヨナラ本塁打を放っている。
 2002年、1本塁打に終わり、現役を引退。

 満塁というチャンスに強く、鋭い腰の回転を生かしたスイングで高く美しい弾道の本塁打を量産したスラッガーである。ブルーサンダー打線が解体後もオリックス打線の中核に座り、晩年はチームの支柱として勝負強さを見せ続けた。

通算成績(実働16年)打率.252、282本塁打、861打点、1207安打。ベストナイン2回(1989・1993)
 
数々の伝説

 @ブルーサンダー打線の一角

 ブルーサンダー打線が史上最強打線の一つとして数え上げられるのには、6番打者だった藤井の存在が大きい。
 1988年に藤井がレギュラーとして台頭して土台を作り、翌1989年、門田博光がオリックスへ移籍してきたことによって、ブルーサンダー打線が誕生する。
 1番松永、2番福良、3番ブーマー、4番門田、5番石嶺、6番藤井と続く打線は、当時のプロ野球界の中で圧倒的な破壊力を誇った。
 投手陣が打たれても、それ以上に打って勝つチームカラーの中で、藤井は、1989年に打率.292、30本塁打、90打点、1990年には打率.285、37本塁打、96打点と四番並みの好成績を残し、チームは2年連続2位となった。特に1989年は、ブーマーが40本塁打、門田が33本塁打、石嶺が20本塁打、藤井が30本塁打を記録し、あと1勝していればリーグ優勝というところまで迫った驚異の打線だった。


 Aリーグ2連覇と日本一に貢献

 1995年、オリックスは、前年に台頭してきたイチローを中心に、阪神大震災で多大な被害を被った神戸を活気づけるように快進撃を続ける。この年、藤井は、決して本調子とは言えなかったものの、シーズン14本塁打を放ち、優勝決定試合では猛打賞を記録するなどして、オリックス初のリーグ優勝に貢献した。
 そして、1996年、藤井は、規定打席にこそ到達しなかったものの、打率.274、20本塁打を残し、オリックスのリーグ2連覇に大きく貢献する。続く日本シリーズでは、巨人を4勝1敗で破って、ついに自身初の日本一を達成したのである。


 B代打逆転満塁サヨナラ本塁打

 2001年9月30日、グリーンスタジアム神戸でオリックスは、ロッテと激しいシーソーゲームを展開する。1回表にロッテに2点の先制を許すが、5回裏にオリックスが3点を入れて逆転。しかし、8回表にロッテに4点を入れられて再逆転を許し、スコアは3−6という劣勢に立たされる。
 9回裏にはロッテのクローザー小林雅英に2死をとられ、絶体絶命のところまで追い込まれた。しかし、そこからオリックスは、粘りを見せて3連打で2死満塁のチャンスをつかむ。
 ここで代打として打席に立ったのが藤井だった。藤井が小林から放った打球は、まるで漫画のようにオリックスファンの待つライトスタンドに吸い込まれて行った。スコアは7−6。つり銭なしの代打逆転満塁サヨナラ本塁打である。
 3点差を逆転する代打逆転満塁サヨナラ本塁打は、樋笠一夫、北川博敏に次いで史上3人目の快挙だった。


 C代打満塁本塁打年間3本、通算4本の日本新記録樹立

 藤井の代打満塁本塁打は、2001年9月30日の代打逆転満塁サヨナラ本塁打があまりにも有名だが、実はこの年、藤井は、代打満塁本塁打を3本も放っている。
 1本目は、6月1日の日本ハム戦で7−4とリードした7回裏に高橋憲幸投手から。そして、2本目は、8月1日の日本ハム戦でも6−4とリードした8回表に井場友和投手から放っているのである。
 年間3本の代打満塁本塁打は、それまでの2本という日本記録を塗り替える快挙であり、前年に放った1本の代打満塁本塁打を合わせて通算4本の代打満塁本塁打も、それまでの3本という日本記録を塗り替える快挙だった。


 D通算満塁本塁打数歴代2位

 藤井の通算本塁打数は282本で、歴代30位までにも入っていないが、通算満塁本塁打数は14本で、王貞治の15本に次いで歴代2位である。
 2001年の9月30日に放った劇的な代打逆転満塁サヨナラ本塁打が通算14本目の満塁本塁打だった。翌2002年には不振に陥ってシーズン1本塁打しか放てず引退をすることになり、日本記録に並ぶことはできなかったが、通算657本塁打放った野村克也や通算567本塁打放った門田博光をもしのぐ満塁本塁打数である。
 それは、単打で充分な場面であっても本塁打を狙うこだわりと、ここぞという場面でファンの期待に応えて本塁打を放てたという勝負強さの表れでもある。通算サヨナラ本塁打も7本放っており、日本記録となっている清原和博の12本には及ばないものの、王貞治の8本、長嶋茂雄の7本に匹敵する記録である。


 E美しい弾道の本塁打

 藤井の最大の魅力は、田淵幸一と比較されることもあるほど、高く美しい放物線を描く本塁打である。それを可能にしたのが、回転の速いスイングと豪快で美しい打撃フォームである。
 藤井のバッティングのすさまじさは、全盛期、試合でバスターを試みたら、打球がフェンスオーバーして本塁打になってしまったという伝説や、1993年5月18日に、千葉マリンスタジアム初の1試合3本塁打を達成した記録からも感じ取れる。
 現役を通じて打率は、それほど高いとは言えず、本塁打王のタイトルこそなかったものの、藤井は、引退するまで一貫してヒットではなく、本塁打にこだわり続けた。それは、2001年、シーズン37安打にもかかわらず、15本塁打を放ち、安打の4割以上が本塁打だったという快記録からもうかがえる。
 藤井は、チームからもファンからも常に本塁打を期待され、その期待に応える本塁打によって野球の魅力を伝え続けた天性のアーティストだった。


 Fミスターブルーウェーブ

 藤井は、阪急ブレーブス、オリックスブレーブス、オリックスブルーウェーブと名前が変わり続ける球団の中で生え抜きの主力打者としてチームを牽引してきた。しかし、その活躍以上に藤井は、ファンから愛された選手である。それは、藤井が一貫して守り続けた美しきホームランアーティストとしてのこだわりと、ファンに接するときに見せる優しい人柄と礼儀正しい振る舞いによるものだろう。
 そのため、ブルーウェーブファンの多くは、イチローや長谷川、田口をさしおいて藤井を「ミスターブルーウェーブ」と呼ぶのである。
 また、同時に藤井は、1989年から2年間しか続かなかった「ブルーサンダー打線」最後の生き残りでもあった。現役晩年、下位に沈むチームに活を入れるようにサヨナラ本塁打を放ったお立ち台で「オリックスは、弱いチームじゃないんです」と涙ながらに訴えた言葉は、脅威のブルーサンダー打線を作り上げた者として譲れない誇りだったにちがいない。




(2007年1月作成)

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