1970年4月、東京都生まれ。内野手・外野手・捕手。関東高校では強打の捕手として高校通算61本塁打を放つ。1989年、ドラフト5位で広島へ入団する。
プロ2年目の1990年に1軍デビューを果たし、5本塁打を放つ。3年目の1991年には11本塁打を放って広島のリーグ優勝に貢献する。
4年目には16本塁打と年々成績を伸ばして、レギュラーに定着した5年目の1993年には34本塁打、82打点の活躍で23歳にして初の本塁打王に輝く。
1994年には打率.321、28本塁打で打率リーグ3位の好成績を残す。この年の8月には月間16本塁打の日本タイ記録を達成する。
1995年には39本塁打、106打点の活躍で本塁打王と打点王の二冠に輝く。
1996年には打率.314、32本塁打で初の3割30本塁打を達成する。しかし、本塁打王争い渦中の8月に守備で眼窩底骨折の重傷を負って戦線離脱する。
その後も、広島の主砲として安定した本塁打数を誇り、1999年にも打率.291、27本塁打を残して、その年のオフ、FA宣言にて巨人に入団する。
巨人1年目の2000年は、いきなり32本塁打を放って4年ぶりに30本塁打の大台に乗せるとともに、巨人を日本一に導く。
2001年も30本塁打を放つ活躍を見せ、2002年には18本塁打と本塁打数を減らしたものの、巨人の日本一に貢献する。
2003年にも17本塁打を放ったが、翌年から低迷し、2005年に0本塁打に終わると、オフに豊田清のFA人的補償で西武へ移籍する。
西武では主に代打の切り札として活躍し、2008年には42試合出場ながら7本塁打を放つ。
しかし、2009年は0本塁打に終わり、現役を引退する。
広島では野村、前田、金本とともに強力な赤ヘル打線を形成し、引っ張る主砲としてレフトスタンドへ豪快な本塁打を量産したスラッガーである。巨人でも2度の優勝に貢献した優勝請負人としても名を残した。
通算成績(実働20年):打率.268、364本塁打、1020打点、1559安打。本塁打王2回(1993・1995)打点王1回(1995)ベストナイン7回(1993〜1996、1998、2000〜2001)最多勝利打点1回(2000)最高出塁率1回(1996)ゴールデングラブ賞1回(1996) |