江藤 慎一
 1937年10月、熊本県生まれ。右投右打。外野手。背番号8(中日)→12(ロッテ)→8(大洋)→12(太平洋→ロッテ)。熊本商業高校から社会人の日鉄二瀬に進み、1959年に中日入り。
 アマチュア時代は捕手だったが、プロでは1年目から1塁手のレギュラーで全試合に出場し、打率.281、15本塁打、84打点を残す。1961年には外野手に転向。1962年には不在となった正捕手の変わりに、アマチュア時代の経験を生かして捕手として活躍。1964年に木俣達彦が入団してくるまで捕手を兼任した。
 6年目の1964年には打率.323で王貞治の三冠王を阻止する首位打者を獲得。翌年も打率.336で2年連続首位打者を獲得して、またも王の三冠王を阻止した。
 しかし、1969年に打率.280、25本塁打を残したにも関わらず、監督との確執から任意引退に追い込まれた。ところが、翌年6月にロッテへ移籍して活躍。
 ロッテ2年目の1971年には打率.337という自己最高打率を残して首位打者を獲得する。これが史上初の両リーグ首位打者誕生であった。
 ところが、首位打者をとったにもかかわらず、トレード通告を受けて、1972年にはセリーグの大洋に移籍した。
 1975年には太平洋に移籍し、選手兼監督としてプレーしている。この年の9月に史上9人目の通算2000本安打を達成した。
 1976年ロッテに移籍するが、その年限りで現役を引退。
 2010年、殿堂入り。

 顎をひいた威圧感ある構えからほとんどステップせずに重心を残して豪快に振り切るバッティングで、セパ両リーグにおいて超一流の成績を残した。また、一塁へのヘッドスライディングなど、常に闘志を前面に押し出す姿勢は「闘将」と呼ばれて他球団に恐れられた。

 通算成績:打率.287、367本塁打、1189打点。2057安打。首位打者3回(1964・1965・1971)最高出塁率1回(1971)ベストナイン6回(1961・1963〜1966・1968

数々の伝説


 @好成績なのに新人王を逃す

 社会人野球の日鉄二瀬から中日に入団した江藤は、1年目からレギュラーとして全試合に出場。打率.281、15本塁打、84打点という見事な成績を残す。
 しかし、新人王に選ばれることはなかった。
 なぜなら、その年は、大洋に入団した桑田武が31本塁打を放って本塁打王を獲得する活躍を見せたので、新人王は彼の手に渡ってしまったからである。


 A捕手から一塁手、そして外野手へ転向

 江藤は、高校・社会人を通じてアマチュア時代は、ずっと捕手をしていた。社会人の日鉄二瀬では捕手以外のポジションは全く守ったことがなかったという。
 しかし、中日に入団したとき、杉下茂監督に一塁手もやっていた、と嘘をついてしまう。中日は、一塁を守っていた西沢道夫が引退したため、後を引き継ぐ一塁手を探していたのだ。
 江藤は、自慢の打撃を生かし、一塁手に転向。1年目からレギュラーを獲得する。
 さらに江藤は、恩師の濃人渉が監督になったのを機に、1961年に外野のレフトに転向。その後は、外野手として活躍した。
 

 B雨で中断なのにベンチに戻らず

 1963年8月25日の巨人戦は、雨の中のシーソーゲームとなり、江藤が2本の本塁打を放って、5回が終わった時点では6−4で中日がリードしていた。
 しかし、6回表、王が同点本塁打を放って6−6となる。その直後、雨が激しくなったため、審判は一時中断を決める。守っていた中日ナインは、ベンチに戻り始めた。
 だが、江藤は、レフトの守備位置に立ったままである。仁王立ちした江藤は、何分たってもベンチに帰ってこない。その様子は、全国にテレビ中継されていたという。
 江藤は、自分がベンチへ戻ってきてしまうとそのまま試合が中止になってしまうと考え、ずっと守備位置から動かなかったのである。ただ、試合が中止になったとしても試合は成立し、江藤の本塁打が幻になることはない。
 それなのに中止になってほしくなかったのは、巨人にだけは何としても勝ちたい、という一心だという。試合は6−6のまま引き分けに終わっている。
 巨人戦になると、過剰なほど闘志を前面に出していた江藤らしいエピソードである。


 C王のシーズン55本塁打の年に三冠王を阻止

 1964年、王貞治は、伝説となっているシーズン55本塁打を放って日本記録を樹立した。だが、意外にも首位打者になっていない。もちろん、本塁打は2位のクレス(大洋)に19本差、打点は2位の桑田武(大洋)に23打点差と大きく水をあけていた。
 しかし、首位打者争いは熾烈だった。王、江藤、吉田義男、長嶋茂雄を巻き込んだ厘差の争いが最後まで続いたのだ。
 そこから抜け出したのは江藤だった。打率.323で首位打者を獲得。逆に王は、打率.320の2位に終わって三冠王を逃している。


 D王の三冠王を2年連続阻止

 王は、シーズン55本塁打を達成した翌年も好調を維持し、42本塁打で2位の江藤に13本差をつけ、104打点で2位の長嶋に24打点差という圧倒的な爆発力で本塁打王と打点王を獲得している。
 それでも打率の面では江藤と激しい争いを繰り広げる。毎晩、日本酒の一升瓶やウイスキーを飲み干した豪放な江藤は、打率.336で2年連続首位打者を獲得する。一方、特打ちを重ね、寝つけないほど悩んだ王は、打率.322でまたしても江藤に敗れ、2年連続で打率2位となり、三冠王を逃したのである。


 Eしかし、本塁打王はなし

 江藤は、通算367本塁打を放っているものの、本塁打王にはなったことがない。2位が3回。しかも、3年連続である。1965年には29本塁打を放ちながら王が42本塁打、1966年には26本塁打を放ちながら王が48本塁打、1967年には34本塁打を放ちながら王が47本塁打。常に王が上にいたわけである。
 しかも3年とも10本以上の差をつけられている。とはいえ、王がいなければ、江藤は、3年連続3度の本塁打王をとっていただけに、王の存在はやはり大きかったと言えるだろう。


 F両リーグ首位打者

 江藤は、1964・1965年とセリーグの中日で首位打者となっている。しかも、2年とも王・長嶋を抑えての首位打者だけに価値が高い。
 江藤は、1970年にパリーグのロッテに移るが、ロッテでも1971年に打率.337を残して首位打者を獲得した。これも加藤秀司や張本勲ら、強力なメンバーを抑えての首位打者である。
 ロッテでの首位打者獲得は、史上初の両リーグ首位打者という日本記録でもあった。その後、張本勲や落合博満など、両リーグ首位打者まであと一歩の成績を残す選手は現れたものの、ついに20世紀中には江藤が唯一の達成者となった。


 G任意引退から移籍

 1969年、江藤は、打率.280、25本塁打、84打点というまずまずの成績でシーズンを終える。しかし、この年から指揮をとる水原監督と江藤の間では、確執が生まれていた。選手のプレーに対する監督の叱責、私生活や門限破りに対する監督の介入をめぐってである。選手の代表として監督に意見した江藤は、水原監督の怒りを買い、翌年のレギュラーメンバー構想から外されてしまう。
 12月26日、江藤は、任意引退に追い込まれる。
 しかし、江藤は、そのまま野球をやめてしまうことはなかった。日鉄二瀬、中日時代からの師である濃人渉監督が奔走し、1970年6月4日にロッテの川畑和人投手との交換トレードが成立して、江藤はロッテへ入団する。
 ロッテに入った江藤は、まるで中日を見返すかのように活躍を見せる。そして、ロッテ2年目の1971年、江藤は、パリーグでも首位打者を獲得するのである。


 Hそしてトレード

 1971年10月6日、南海とのシーズン最終戦で両リーグ首位打者という快挙が確定した江藤は、その日が誕生日であった。
 江藤は、帰る前にオーナー室へ呼ばれた。
 中村長芳オーナーは、江藤を前にして衝撃的な言葉を発した。「大洋の野村収投手とのトレード成立」である。
 このトレード成立の背景には、その年の7月13日にあった阪急戦での放棄試合事件があったと言われている。江藤のハーフスイングをめぐって、審判は一度ボールを宣告しておきながら、捕手の抗議でストライクに変更。それに対して、江藤や濃人監督が執拗に抗議した。濃人監督は、選手を35分間にわたって引き上げさせたため、ロッテには放棄試合が宣告されたのである。ロッテは、その年限りで濃人監督を解任しており、江藤もその放棄試合事件がきっかけでトレードに出されたようである。


 I闘将

 江藤は、闘志溢れる構えや、豪快なスイング、一塁へのヘッドスライディングなど、常に全力を出し切るプレースタイルで「闘将」とまで呼ばれた。それは、巨人戦に対する闘争心からも充分見てとれた。
 それは、審判にも向けられた。1962年7月10日の巨人戦ではタイムを認めない、守備妨害をとらない、という2つのミスを犯した、として審判を殴打し、退場になっている。
 さらに1971年には放棄試合事件、1972年8月6日のヤクルト戦では低すぎるボールをストライクと判定した審判に対して蹴りを何度も入れて退場になった。
 江藤の「闘将」としての豪快なプレーは、4度に渡る移籍という弊害を生んでしまったものの、それに負けぬ研究と努力で、安定した成績を残し続け、ついには2000本安打を達成したのである。




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