榎本 喜八
 1936年12月、東京生まれ。内野手。左投左打。背番号3(毎日・大毎・東京・ロッテ)→3(西鉄)。早稲田実業で3度出場するが、プロからは誘いがなく、毎日オリオンズ(現ロッテ)のテストを受けて1955年入団。
 1年目からレギュラーで打率.298、16本塁打で堂々の新人王を獲得。
 6年目の1960年に打率.344、170安打で首位打者と最多安打のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝の原動力となった。
 1961年も打率.331を残し、自己最多の180安打で連続して最多安打、翌1962年も打率.331、160安打で最多安打を記録している。
 1966年には打率.351で2度目の首位打者になるとともに、167安打で4度目の最多安打を達成した。
 1968年には年間1失策しかせず、守備率.9992の日本記録を樹立している。
 1970年は、規定打席不足ながら打率.284、15本塁打でロッテのリーグ優勝に貢献した。
 1972年に西鉄に移籍し、同年限りで現役を引退している。

 荒川博の合気道を取り入れたフォームは、軸がぶれない理想的な打法と言われ、榎本は「安打製造機」と呼ばれた。大毎のミサイル打線の中核として活躍し、生活のすべてを費やして打撃を極めようとする孤高の求道者であった。

 通算成績(実働18年):打率.298、246本塁打、979打点、2314安打。首位打者2回(1960・1966)最多安打4回(1960〜62・1966)新人王(1955)最高出塁率1回(1966)ベストナイン9回(1956・1959〜64・1966・1968)

数々の伝説


@高卒で新人王

 1955年、榎本は、早稲田実業高校から毎日オリオンズのテストを受ける。別当薫監督は、榎本の豪打を目の当たりにして入団させることを決めた。
 別当監督は当時「高校を出たばかりの打者で、はじめて何も手を加える必要のないバッティング・フォームを持つ者が現れた」(『さらば 宝石』沢木耕太郎著1979)と絶賛している。
 オープン戦で大活躍を見せた榎本は、開幕から5番打者として起用され、いきなり打率.298、16本塁打、67打点、146安打という成績を残す。そして、文句なしの新人王に選ばれる。
 1年目から見せた高度なバッティング技術で、榎本は「安打製造機」という愛称を付けられることになる。


 A王貞治より先に荒川博の下で合気打法

 榎本が毎日オリオンズのテストを受けることを決めたのは、同じ早稲田実業の先輩荒川博が既に毎日で活躍していたからだと言われている。
 荒川は、植芝盛平の合気道に師事し、合気打法を完成させていた。毎日に入団した榎本は、荒川に師事し、この合気打法に取り組んで猛練習を積み重ねる。
 それが大きく実を結んだの6年目の1965年。榎本は、打率.344を残し、2位に2分7厘もの大差を付けて首位打者のタイトルを獲得したのである。
 荒川は、後に王貞治を指導し、合気道を叩き込んで一本足打法を生み出している。


 B神になった2週間

 1963年7月、榎本は、生涯で最高の好調状態になったという。7月14日から7月31日までの2週間。
 この期間に榎本は11試合で43打数24安打、打率.558を残している。
 榎本によると、この期間だけが理想と現実が一致したのだという。「神の域」に辿り着いたのだともいう。自分の脳裏にバッティングをする姿が映り、まるで夢を見ているように打てたようである。
 しかし、残念ながらその期間は長く続かなかった。8月1日の東映戦で左足首を痛めて欠場に追い込まれるのだ。10日間欠場して戻ってきた榎本からは、神になったときの感覚は既になくなっていた。
 その年の打率は.318で2位。壊れてしまった感覚は2度と戻ることはなかったという。
 

 C極意

 セリーグの王・長嶋にも劣らぬ活躍を見せた榎本は、しばしば打撃の極意について尋ねられている。
 そういうとき、榎本の答えは「臍下丹田(せいかたんでん)でボールをとらえる」というものである。臍下丹田とはヘソの下約10センチのところで、気が集まるところとされている。
 完璧主義者であったという榎本は、長年の打撃研究の結果、そのような極意に達したのである。このような極意を語る打者は榎本以外におらず、並みの打者には行き着けない境地であると思われる。


 D座禅を組んで精神統一

 1966年、オールスターに選ばれた榎本は、試合前の練習に1人だけ参加せず、ベンチで座禅を組んだまま全く動かず、瞑想にふけって精神統一していたという。
 その年に行われたドジャースとの日米野球でも試合が始まるまでベンチで座禅を組んだまま黙考していたため、川上哲治監督が心配して試合に出場できるかどうか、尋ねたという伝説も残っている。
 この行為は、話題を呼び、榎本は後に奇行の人として語られることになる。


 E練習

 榎本の練習方法もまた、他の選手とは一風変わっていた。ベンチ裏にあるフォームをチェックする大鏡の前に立った榎本は、鏡に向かって構えたまま、全く動かないのである。
 普通ならタイミングの取り方をチェックしたり、素振りをして自らのフォームに狂いがないかチェックする。
 しかし、榎本は、構えたまま動かない。時には30分ほど動かずにそのままの構えで立っていることもあったという。
 榎本によれば、構えたとき、右目にバットの先端が少し入ってくる状態がベストなので、その状態にもっていくために調整をしていたのだという。
 完璧なフォームを求めるあまり、納得する構えができるまでに30分を必要としてしまっていたのである。
 また、求道者のように野球だけに打ち込む榎本は、自宅に60万円をかけて専用練習場を作っている。


 F4の4なのに

 榎本は、打撃に対して常に探究心を失わず、神髄を突き詰めていこうとした。榎本にとってボテボテの内野安打や外野の間にうまく飛んだだけのポテンヒットは何の意味もないものだった。
 ある試合で榎本は4打数4安打と打ちまくったのだが、鮮やかな当たりのヒットは1本もなかった。それでも10割という完璧な結果なのだから喜ぶべきところなのに、榎本は「今日は4の0か」とつぶやいて落ち込んでいたという。
 逆に榎本は、4打数無安打の日に「4の4だ」と喜んでいることもあったという。たまたま、アウトになっただけで、球をバットがきっちり考えた通りにとらえられていたというわけだ。打撃を究めようとする榎本にとっては、目先の結果よりも、理想のスイングやミートができたかが重要だったのである。


 G安打製造機

 榎本は、首位打者を獲った1960年に170安打を放って最多安打を記録すると、1961年・1962年にも180安打・160安打で3年連続の最多安打に輝いている。
 そして1960年から1964年まで5年連続160安打以上という安定した成績を残した。
 1966年にも首位打者を獲得するとともに167安打で4度目の最多安打を達成している。
 榎本の安定した打撃を支えていたのは選球眼の良さで、榎本はボール球にはバットをピクリとも動かすことはなかったという。シーズン最多四球5回がそれを証明している。
 榎本が現役時代に放った安打は2314本にのぼっており、「安打製造機」と呼ばれた最初の打者となっている。


 H引退後は仙人

 榎本は、引退後、野球界との付き合いを一切絶っている。2314安打という名球会入りの条件を軽く満たしながら、まだ1回たりとも会に参加したことはないという。
 もちろん、コーチ・監督といった指導者としての活動もやってはいない。
 そういう榎本の姿を世間は「仙人」と呼ぶこともあるが、実際はごく普通に生活しているようである。 




Copyright (C) 2001-2002 Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.

inserted by FC2 system