江夏 豊
 1948年、大阪生まれ。投手。左投左打。背番号28(阪神)→17(南海)→26(広島・日本ハム)→18(西武)。大阪学院高から1967年、ドラフト1位で阪神に入団。1年目に奪三振王、入団2年目の1968年には401奪三振(1試合平均10・8個)の世界記録を樹立。25勝12敗で最多勝を獲得している。
 1969年には15勝10敗、防御率1.81で最優秀防御率のタイトルを獲得。
 1971年の球宴では9連続奪三振の離れ業を演じている。その後、南海、広島、日本ハム、西武と渡り歩いた。南海では野村監督の勧めでリリーフに転向。リリーフエース専任や全試合ベンチ入りは、野球革命といわれている。1977年に4勝2敗19セーブで初の最優秀救援投手に輝き、引退までに合計5度もこのタイトルを獲得している。
 広島で日本一2度(1979・1980)と日本ハムでリーグ優勝1度(1981)に大きく貢献し、優勝請負人と呼ばれた。
 さらに、最後は大リーグ挑戦を決意し、1985年に西武を辞めて渡米。しかし、最後の最後で大リーグ昇格は叶わず、そのまま引退。
 150キロを超える直球と落差のある二種類のカーブとフォーク、卓越した投球術で三振を奪い、ONと名勝負を繰り広げ、20世紀最高の投手との呼び声も高い。入団後6年連続奪三振王を始め、5球団18年間で積み上げた三振数は2987に上る。
 通算成績(実働18年):206勝158敗193セーブ210セーブポイント。防御率2.49。2987奪三振(歴代5位)。最多勝2回、最優秀防御率1回、最優秀救援投手5回、シーズンMVP2回、沢村賞1回。73年にはノーヒット・ノーランを達成。現在は野球評論家。

数々の伝説


@401奪三振

 入団2年目の1968年、江夏は、20歳でシーズン401奪三振の世界記録を樹立。
 この記録は、従来の稲尾和久が達成した353奪三振を48も上回る大記録である。
 江夏は、王貞治を最大のライバルと見たてており、日本タイ記録の353奪三振を狙って王から奪っている。
 これは、同年9月17日の阪神×巨人戦で達成したもので、王の第2打席に奪っている。
 しかも、その後、タイ記録だけでなく、新記録も王から奪うことを決めていた江夏は、わざと王以外の打者を打たせて取り、一回りして打順が回ってきた王の第3打席で、世界記録となる354奪三振目を奪っている。
 驚くべきことはそれだけでない。その試合は緊迫した投手戦だった。江夏が日本タイ記録・日本新記録を達成したときのスコアは0−0。普通なら敢えて打たせることなど、できる状況ではなかったのだ。
 さらに……。試合は、そのまま延長戦に入った。その延長の中でも江夏は、11回裏に自らサヨナラ打を放って勝ち星を手にしてしまったのである。


Aオールスターで9連続奪三振

 1971年、オールスター戦で先発した江夏は、全パの先頭打者有藤(ロッテ)から三振を奪うと、1回、2回を3者連続三振にきってとる。
 そして、2回表には江夏は自ら西宮球場の右翼席上段に3ランを叩きこんでいる。
 そして、3回には3者連続空振り三振で、連続9人から三振を奪った。9人のうち、8人が空振り三振している。
 9人目の打者の加藤がバックネット側に打ち上げたファールを追おうとした捕手の田淵に江夏は「追うな」と叫んだと言われている。
 オールスターでは、規定で投手は3回を上限とされているため、9連続奪三振は、永久に破られることはない快記録である。
 また、江夏はこの前年の1970年第2戦に先発したときも、2回一死から5連続三振を取って記録を継続しており、71年の9連続三振の後も、第3戦で6回から登板し、江藤(ロッテ)を三振にきってとっている。これを合計すると、オールスターで15連続奪三振を達成したことになる。この記録を止めたのは、野村克也(南海)で、初球をバットに当ててセカンドゴロにした。
 これに次ぐ記録が1984年の江川(巨人)の8連続奪三振であるが、大リーグでは5連続奪三振が最高である。 


B奇跡の21球

 1979年、11月4日、大阪球場で近鉄×広島の日本シリーズ第七戦。広島が1点リードのまま、九回裏の近鉄の攻撃になる。7回裏からマウンドに上がっていた広島のリリーフエースの江夏は、ヒットと盗塁、エラーで攻め立てられ、無死三塁ピンチを招く。そこから四球と敬遠で無死満塁という一打逆転サヨナラ日本一のピンチを招く。
 ここから江夏は代打佐々木を三振に取り、一死。
 次の打者の石渡のところで、江夏は石渡の1球目の見逃し方と一塁走者の眼の動きからスクイズを見抜き、2球目にカーブの握りでわざと投球動作を遅らせ、打者の動きを見ながらカーブを外角高めに大きく外す。これにより、石渡はスクイズを空振り、三塁走者は三本間でタッチアウトとなった。
 その後、石渡は三振に倒れ、広島の日本一が決定。9回だけで21球を投げた江夏は、胴上げ投手となった。




C延長11回で自ら決勝ホーマーのノーヒットノーラン

 1973年8月30日、阪神×中日戦。9回を終わったところで阪神の江夏は中日打線をノーヒットに抑えていた。
 しかし、味方打線の援護もなく、試合は0×0のまま延長戦へ突入。10回表、11回表も江夏は、中日打線をノーヒットに抑える。
 そして、11回裏、なんと江夏自らがサヨナラホームランを放ち、サヨナラ勝ちで江夏もノーヒットノーラン達成。
 


Dトレードから日本の野球革命

 1976年1月、阪神のエースとして9年間で159勝を積み上げてきた江夏は、突如トレードを言い渡され、南海に移籍する。
 そこで、南海の野村監督から「抑えの切り札として野球の革命児になってもらいたい」と言われ、リリーフエースに転向。そこから、江夏は優勝請負人として球団を渡り歩くことになる。
 当時、リリーフエースという概念がなかった日本野球界では、江夏の8連投や全試合ベンチ入りなどは大きな革命であった。
 しかし、現在では、江夏の残した功績がそのまま引き継がれ、抑えの切り札がしっかりしたチームが優勝する、という図式が定着している。
 もちろん、通算200セーブポイントを達成したのも江夏が初めてであり、200勝200セーブポイントの記録は不滅と思われる。


Eセ・パでMVP

 江夏は、1979年、広島で9勝5敗22セーブ、防御率2.66の成績を残し、広島のリーグ優勝・日本一に貢献。
 ここで初めて、MVPに選出される。
 そして、日本ハムへ移籍後の1981年、3勝6敗25セーブの成績を残して日本ハムの優勝に貢献し、またもやMVPに選出。
 セ・パの両リーグでMVPに選出されたのは江夏が初めてであり、現在のところ、まだ続く者は出てきていない。


F隠れた大記録76引き分け

 江夏は、最優秀救援投手5回という記録を持っているが、その記録の陰に隠れてはいるが、76引き分けという日本記録も持っている。
 現在ではリリーフエースは、大抵最後の1回、しかも勝っている場面での登板に限定されて使われることが多いが、江夏の場合は同点の場面はおろか、負けている試合でも投げていた。しかも、3イニングくらいは日常茶飯事であった。
 そんな中で、負け試合に登板して抑えているうちに味方が追いつき、そのまま同点で延長の試合終了まで投げきる、もしくは同点で出てきて最後まで抑えきる、という引き分け試合に持ち込んだ試合が多かったのだ。確かに勝ち試合を引き分けにされたこともあっただろうが、長年かけて積み上げた引き分けは76。
 これは、歴代2位の斎藤明夫の48試合をはるかにしのぐ偉大な記録なのである。


G幻の310セーブポイント

 江夏は、通算210セーブポイントだが、このセーブポイント制が採用されたのは江夏が当時在籍した南海では1977年からのため、それ以前のセーブポイント100を換算してみると、何と通算310セーブポイントという大記録になるという。
 310セーブポイントとなると、これは現在のところ、断トツで歴代1位となる。


H36歳の大リーグ挑戦

 1984年暮れ、管理野球を進める広岡達朗監督との確執から西武を自由契約になった江夏は、他の日本球団からの誘いをすべて断り、大リーグ挑戦を決意する。1985年1月19日に日本球界引退を惜しんで行われた「たった一人の引退式」には山本浩二・落合博満・福本豊・大杉勝男・江藤慎一といったそうそうたるメンバーが駆けつけた。
 日本を離れた江夏は、2月には大リーグのブリュワーズのキャンプに合流した。メジャー枠10人に入ることを目指して江夏は、力投した。それでも7人は既にメジャー枠当確であり、実質上19人で3つの枠を争うことになっていた。3月18日のオープン戦ではマリナーズを抑え、勝利投手となった。メジャー相手に好投を続けて実力を見せつけ、メジャー入りは確実かと思われた。
 しかし、オープン戦後半でまさかの3試合連続救援失敗。メジャー入りの最後の枠を若いヒゲラ投手と争うことになったが、4月2日のエンゼルス戦で2回2失点により、その夢は絶たれた。江夏はマイナーでの再スタートを断り、引退の道を選んだ。
 そして、最後まで江夏と10人目の枠を激しく争ったヒゲラ投手は、その年、メジャーで16勝を挙げた。



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