江本 孟紀
 1947年7月、高知県生まれ。右投右打。投手。背番号49(東映)→16(南海)→29(阪神)。高知商業高校から法政大学へ進学。その後、社会人野球の熊谷組を経て、1971年にドラフト外で東映フライヤーズに入団。その年は0勝に終わる。
 しかし、南海の野村克也の目にとまり、翌1972年、南海に移籍して16勝13敗、防御率3.04という見事な成績で一躍エース格となる。
 1973年には12勝を挙げて南海のリーグ優勝に大きく貢献した。この年、シーズン10ボーク、1試合3ボークという日本記録を樹立。日本シリーズでは第1戦で完投勝利を収めたものの、ONを擁する巨人に1勝4敗で敗れ、巨人に日本シリーズ9連覇を許した。
 1976年には江夏豊らとの超大型トレードで阪神に移籍。いきなり15勝9敗の成績を残して阪神でもエースとなる。
 1979年まで8年連続2桁勝利を記録した。
 しかし、まだ先発投手として活躍していた1981年8月、試合後に「ベンチがアホやから野球ができん」という首脳陣批判の名言を残して現役を引退。
 1992年、参議院議員の比例代表区で当選し、国会議員となる。
 2004年、大阪府知事選に出馬し、プロ野球選手出身として初の知事を目指したが、惜しくも現職に敗れ、次点だった。

 長身から投げ下ろすキレのいい直球とシュートの2種類を主体とする投球で南海・阪神のエースに登りつめた。その一方で型破りな言動で多くの話題を提供し、先発投手として活躍しているさなかにやめてしまったことは惜しまれる。

通算成績(実働11年):113勝126敗19セーブ、防御率3.52。1130奪三振。

数々の伝説


 @ドラフトの指名を拒否

 1965年、江本のいる高知商業高校は、春のセンバツ甲子園大会に出場することが決まっていた。しかし、その話は、思わぬところから流れる。
 高知商の野球部員の不祥事が発覚したのだ。そうなると、強行出場というのは不可能に近い。高知商は、甲子園出場を辞退した。
 それでも、江本の素質にプロは、目をつけた。西鉄が江本をドラフトで指名したのだ。しかし、順位は4位。同じ高知商の内野手浜村孝は、西鉄から1位指名を受けていた。
 江本は、西鉄への入団を拒否する。浜村が1位という高評価なのに、俺が4位なんて、という理由だったようだ。高知商では江本がエースで4番打者、浜村は3番打者だったという。
 ドラフト1位で入団した浜村は、プロ通算打率.218、13本塁打、203安打という成績しか残していない。
 江本がドラフト4位指名で怒るのも無理はなかったのもしれない。


 Aドラフト外で入団

 進学した法政大学では、同級生に山中正竹という好投手がいた。山中は、法政大のエースとして通算48勝を記録し、六大学野球新記録を打ち立てた。その山中のせいで江本は、2番手投手にしかなれなかった。しかも、大学4年のときには監督の厳しい選手管理に反抗して野球をやめた。そのため、プロから注目されることなく、江本は、卒業後、熊谷組に入社する。
 しかし、プロの江本に対する評価は、そこでも上がることはなかった。江本は、ドラフトで指名されることはなく、ドラフト外でひっそりと東映に入団する。
 プロ1年目は、60イニング以上投げたものの0勝4敗。目立たぬ投手だった。
 だが、そこに大きな転機が訪れる。


 B野村克也に見出される

 江本は、プロ入団後わずか1年にして、他球団へのトレードが決まる。南海の捕手兼監督だった野村克也が東映のルーキーだった江本を密かに観察していたのである。野村は、江本を獲るために、東映のエース格に成長してきた高橋直樹の獲得を希望し、それを拒否されるのを待っていたかのように江本獲得を切り出して成功させた、と言われている。
 野村の眼力は、確かだった。
 江本は、南海移籍1年目に16勝を挙げて、一気に南海のエースへ登りつめたのである。


 C長髪禁止令に反抗

 江本は、長髪に口髭という容貌を売り物にしていた。しかし、南海の野村克也監督は、1974年、チームに長髪禁止令を出した。監督をする度に「野球は頭の外を使ってやるんじゃなく、頭の中を使ってやるもんだ」と言っていた理論である。
 しかし、江本は、ただ1人その指令に反抗し、髪を切ろうとしなかった。
 困った球団側は、江本と交渉にあたった。導き出された妥協結果。それは、江本の年俸を50万円上げる代わりに髪を切る、というものだった。つまり、江本は、髪を切るだけで50万円を稼いだのである。


 D江夏豊らとの超大型トレードで阪神に移籍

 1976年、超大型トレードが成立した。阪神のエース江夏豊と南海のエース江本の交換である。阪神では江夏の他に望月充外野手、南海では江本に長谷川勉投手・池内豊投手・島野育夫外野手を加えた2対4の大掛かりなトレードだった。
 江夏がこのトレード後、先発投手からリリーフ投手に転向し、優勝請負人として守護神のはしりになっていったのは有名だが、江本もまた阪神で成功を収める。
 移籍した1976年に15勝9敗の成績を残し、阪神でもエースの座をがっちりと射止めたのである。その後、江本は4年連続2桁勝利を挙げ、南海時代から合わせて8年連続2桁勝利を達成する。


 Eベンチがアホやから野球ができん

 1981年8月26日、江本は、ヤクルト戦に先発する。この時点で江本は、4勝6敗と苦しんでいた。防御率は悪くないのだが、勝ち星に恵まれなかった。
 しかも、江本は、この年、投手陣の柱としての起用をされておらず、この日の先発も前日に急遽言い渡されるというものだった。これじゃ、機嫌がいいはずがない。
 とはいえ、この日の江本は、好調だった。7回まで1失点に抑え、4−1でリードを奪っている。だが、球数は既に127球に達していた。
 8回、江本は、息切れして3連打を浴び、4−2とされる。
 ここで、限界を感じていた江本は、ベンチへしきりに視線を送り、交代を待った。しかし、中西太監督は代える気配を見せず、ベンチは誰も動かない。続投だった。
 江本は、その後、2点を失い、4−4の同点にされて8回を投げ切った。
 戻ってきたベンチで江本は、グラブを投げつけ、ロッカールームへ向かった。ロッカールームの入り口で江本は、たまりにたまった鬱憤を記者たちにぶつけた。
「ベンチがアホやから野球ができん」
 そう言い残して江本は、ロッカールームの中へ消えた。
 翌日、新聞各紙にはこの「ベンチがアホやから野球ができん」という言葉が踊った。
 上の命令は絶対、という縦割りの日本。学校で教師の指導が間違っていても、会社で上司の判断が誤っていても、なかなか下から上にもの申すってことは容易じゃない。マスコミは、それを代弁した江本の刺激的な発言に飛びついたのだ。
 江本のこの発言は、全国民に知れ渡ることになり、大騒ぎになった。結局、江本は、阪神から発言の責任をとらされて退団し、そのまま引退することになる。今だったらこの程度の発言で退団に追い込まれるようなことはないだろうけど、当時の世情はそれを許さない古い体質だったのだ。
 本人は「アホ」くらいとしか言ってない、とずっと言い訳をしているが、普遍の名言として永遠に残るに違いない。


 F通算24ボーク

 江本は、野球をするなら坊主か短髪という時代にもかかわらず、長髪をなびかせ、口には黒々としたひげをたくわえていた。スポーツをしているとは思えないその豪胆な風貌に加えて、歯に衣着せぬ激しい言動も江本の持ち味だった。そんな短気で激しい性格そのままの記録を江本は作っている。
 それが通算24ボークである。頭に血がのぼれば、投球のたびに完全静止なんてやってられないのだ。その記録は、日本記録を塗り替えるものだった。
 1973年には年間10ボークという日本記録を樹立した。ちなみにこの年の10月3日には1試合3ボークという日本タイ記録も樹立している。この大量ボークには裏話があって、この年からパリーグ審判部がセットポジションからの完全静止ルールを遵守するため、ボーク宣告の強化に踏み切ったのがそもそもの原因だった。
 とはいえ、江本がトップとなるボーク数を記録したことは事実であり、ルールに構わず、自らの投球スタイルを貫いた結果とも言えよう。


 G大阪府知事選挙に出馬

 1992年10月、江本は、参議院議員選挙に比例代表区で出馬し、見事に当選する。江本は、1998年にも再選を果たし、10年以上に渡って政界で活躍した。
 しかし、まだ任期が残る2003年の末、江本は、参議院議員の職を辞した。2004年2月に行われる大阪府知事選挙に出馬するためだった。
 2003年は、18年ぶりに阪神タイガースがリーグ優勝を果たし、5000人以上のファンが道頓堀川に飛び込んだり、その年を表す1文字に「虎」が選ばれたり、と大阪は、阪神フィーバーに包まれていた。
 阪神出身の江本には追い風が吹いていたわけである。
 江本の出馬により、初のプロ野球選手出身知事が出るのでは、と大阪の期待は高まった。江本も、阪神ファンの後押しを受けて選挙戦を引っ張った。
 しかし、現職太田房江知事の圧倒的な組織力の前にはなすすべがなかった。江本は健闘むなしく敗れて次点に終わり、プロ野球選手出身知事誕生はならなかった。





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