土井垣 武
 1921年7月、鳥取県生まれ。右投右打。捕手。背番号19(阪神・毎日)→23(東映)→25(阪急)。
 1939年夏の甲子園に出場し、ベスト8の成績を残す。1940年、大阪タイガース(現阪神)に入団する。
 1年目は、22試合出場に終わるが、2年目には71試合に出場する。
 その後、第二次世界大戦が起こり、復帰したプロ4年得の1946年に打率.325、4本塁打、70打点の好成績を残す。
 1947年には打率.259、16盗塁の活躍で大阪タイガースの優勝に貢献し、ベストナインにも選出される。
 1949年には打率.328、16本塁打、86打点の好成績を残す。そのシーズンオフに毎日へ移籍。
 1950年には打率.322、15本塁打、72打点の好成績を残して毎日のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも松竹を4勝2敗で破って日本一に導く。
 1952年にも打率.296、13本塁打、72打点を残し、6年連続ベストナインに選ばれる。
 1954年には東映へ移籍し、打率.289、7本塁打、56打点を残す。
 1956年には4球団目となる阪急へ移籍する。1958年に1軍出場なしに終わり、その年限りで現役を引退した。

 強打の捕手としてタイガースでダイナマイト打線の一角を担って優勝に貢献し、毎日移籍後は日本一に導いた。ミートが上手い打者であるとともに、強肩で数多くの盗塁を阻止するなど、攻守にわたって活躍した名捕手である。

通算成績(実働15年):打率.282、79本塁打、654打点、1351安打。ベストナイン6回(1947〜1952)シーズン最多補殺119(日本記録)


数々の伝説


 @夏の甲子園でベスト8

 米子中で正捕手となった土井垣は、のちにプロでも活躍する長谷川善三とバッテリーを組み、主将として1939年夏の甲子園に出場する。
 2回戦から登場した米子中は、高岡商業に12−7で打ち勝ち、ベスト8に進出する。
 しかし、準々決勝では嶋清一がいた海草中に0−3で敗れ、ベスト4を逃している。


 A応召により3年間のブランク

 土井垣は、1940年にプロ入りしたものの、戦前は、不動の正捕手として田中義男(カイザー田中)がいたため、捕手と一塁手、三塁手を兼任して出場することになる。それでも、1942年には105試合中72試合に出場して打率.249を残すなど、順調に成長していた。
 しかし、第二次世界大戦の応召により、土井垣は、1943年から1945年まで3年間を戦地で過ごすことになる。
 そして、1946年、プロ野球再開とともに土井垣も開花する。打率.325、70打点を記録して阪神の主力選手となったのである。


 B和製ヨギ・ベラ

 阪神の個性豊かな投手を巧みにリードし、打っては安打を量産してパンチ力もある土井垣を、人々は、「和製ヨギ・ベラ」と呼んだ。
 ヨギ・ベラは、ヤンキースの捕手として打率3割を3回記録し、プロ通算2150安打、385本塁打を記録した名選手である。ワールドシリーズに13回出場して世界一に10回輝くなど、素晴らしい実績を残している。
 土井垣も、打率3割を3回記録し、阪神や毎日、東映で長年にわたって正捕手を務め上げ、そのリード技術にも定評があった。日本の球史に残る名捕手だったのである。


 Cダイナマイト打線の中核

 戦後の1946年、阪神の打線は好調で7月には14連勝をしてチーム打率が3割を超える強力打線だった。そのため、スポーツ紙の記者は、この打線をダイナマイト打線と名付ける。
 土井垣は、1946年に打率.325を残してダイナマイト打線の中核に座り、超強力打線の一角を担った。
 そして、1947年には圧倒的な502得点で79勝37敗3分で2位中日に12.5ゲーム差をつける圧倒的な優勝を果たす。
 1948年には、別当薫が加わったことでさらに力を増し、1番呉、2番金田、3番別当、4番藤村、5番土井垣、6番玉置、7番後藤という伝説の打線が完成した。


 D毎日移籍で日本一

 1949年、投手力の崩壊で7位に終わった阪神に激震が起きる。2リーグ分裂に伴い、パリーグ新球団の毎日が阪神の選手たちを引き抜き始めたのである。
 若林忠志、別当薫、呉昌征、本堂保次らとともに、土井垣も、毎日に移籍することになり、1950年は、毎日が強力打線を形成することになる。毎日は、チーム打率.286の圧倒的な打線で2位何回に15ゲーム差をつける圧倒的なリーグ優勝を果たし、土井垣も、打率.259、16盗塁の活躍でベストナインに選出される。

 松竹との日本シリーズでは、土井垣は、正捕手で全試合に出場する。第2戦の3回に中押しのタイムリー3塁内野安打を放ち、第5戦では1回に先制のセンター前タイムリーを放つなど、攻守にわたる活躍を見せて毎日を4勝2敗で日本一に導いた。


 Eシーズン最多補殺119の日本新記録樹立

 1954年、東映に移籍した土井垣は、正捕手として打率.289を残す一方、守備でも圧倒的な力を見せつけ、139試合出場で補殺119を記録し、シーズン最多補殺日本記録を更新する。
 補殺は、基本的に送球でアウトを奪ったときに記録されるものであり、土井垣のフィールディングや肩がいかに優れていたかを示している。






(2013年1月作成)

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