土井 正博
 1943年12月、大阪府生まれ。外野手。一塁手。右投右打。旧名:雅博。背番号51(近鉄)→3(近鉄→太平洋・クラウン・西武)。大阪の大鉄高校を中退して17歳で1961年に近鉄へ入団。
 1年目の1軍出場はなかったが、2年目の1962年に別当薫監督に見出されて18歳で四番打者に抜擢された。
 その後、レギュラーで活躍し、1964年には打率.296、28本塁打、98打点を残してリーグを代表する四番打者に成長した。この年、168安打を放ち、パリーグのシーズン最多安打に輝く。
 1967年には打率.323、28本塁打、93打点で打率リーグ2位になるとともに、147安打で2度目のシーズン最多安打を記録した。9月から10月にかけては25試合連続安打を放っている。この年、初のベストナインにも選出された。
 1968年にもリーグ3位となる打率.309を残し、2年連続ベストナインに選出された。土井の安定した活躍で力をつけた近鉄は、土井が打率.300、27本塁打を残した1969年に球団史上初の2位となった。
 1971年には打率.309、40本塁打、113打点という素晴らしい活躍で、初めて本塁打を40本の大台、打点も100の大台に乗せた。
 1973年には5試合連続本塁打を放ち、打率.316、29本塁打、76打点と好成績を残した。
 1975年には太平洋(のちのクラウン→西武)へ移籍。その1年目に34本塁打を放って、本塁打王のタイトルを獲得する。チームを前期2位に導いた原動力でもあった。
 1978年には6試合連続本塁打を放ってパリーグ記録を樹立し、打率.303、26本塁打でベストナインにも選ばれた。
 1981年限りで現役を引退。
 現役を通じて、シーズン本塁打20本以上16回、打率3割以上7回という超一流の成績を残した。

 近鉄、太平洋といった弱小チームに在籍しながら豪快なスイングで安定して本塁打やヒットを量産し続けたプルヒッターである。パリーグ一筋で、しかも優勝とは無縁だったため、目立たない存在であったが、465本塁打、2452安打を残して実力のパを築き上げた功績は大きい。

通算成績(実働20年):打率.282、465本塁打、1400打点、2452安打。本塁打王1回(1975)最多安打2回(1964・1967)ベストナイン3回(1967・1968・1978)

数々の伝説

 @18歳で4番

 土井がいた大鉄高校は、野球部で起こった内紛により、選手の多くが退部するという騒動が起きた。退部していた土井は、そんなとき、近鉄から誘いを受ける。土井の素質に目をつけたのは、当時近鉄にいた根本陸夫だった。土井は、高校を中退しての近鉄入団を決める。
 しかし、もらった背番号は、大きな51。17歳という若さでプロ入りした土井に1軍での出場機会は全くなかった。それどころか、早くも整理要員に名が挙がっていた。
 そんなとき、土井の打撃センスに気づいたのが、1961年10月に新監督となった別当薫だった。かつて入団早々に強打者として一世を風靡したことがある別当は、土井を2年目から1軍でレギュラーとして起用する。ときには四番打者として起用することもあった。そのため、土井は「18歳の四番打者」として注目を集めるが、打率は.231、5本塁打。周囲から冷たい視線を浴びながらのプロ生活開始だった。


 A真の四番打者に成長

 将来の主力打者として起用され続けた土井は、自らの努力によって、徐々に成績を上げていく。3年目の1963年にはオールスターゲームにも出場するとともに、シーズン33二塁打を放って、パリーグのシーズン最多二塁打を記録し、長打力の片鱗を見せる。そしてプロ4年目の1964年には打率.296、28本塁打、98打点という好成績を残してついに真の四番打者となった。チームは、相変わらず下位に低迷し、この年も最下位ではあったが、土井は、孤軍奮闘してシーズン最多安打となる147安打を放つ。
 土井の成長は、その後も順調に続き、1967年には初の3割以上達成、1971年には初の本塁打40本以上達成と進化を続けるのである。


 B悔やまれる過失の1年

 1970年6月25日から土井は、近鉄の処分によって、試合に出場できなくなる。麻雀による賭博に関わったことが明るみになったからである。
 さらに7月17日には、さらに1ヶ月間の出場停止処分を受けた。そのため、土井は、この年、73試合にしか出場していない。選手生命に関わる大きなダメージを受けた土井の打撃は低迷し、シーズン成績は、打率.280、11本塁打に終わる。
 もし、この長期にわたる出場停止がなければ、土井は、この年も20本塁打以上を記録していた可能性が高い。土井は、1964年から1969年まで6年連続20本塁打以上、1971年から引退前年の1980年まで10年連続20本塁打以上を残している。1970年に年間通して出場して20本塁打以上を記録していれば、実に17年連続20本塁打以上という大記録になっただけに、惜しまれる出場停止である。


 C6試合連続本塁打

 土井は、1978年5月14日から5月22日まで6試合連続本塁打を記録してパリーグタイ記録を樹立した。この記録は、王貞治が1972年に達成した7試合連続本塁打には及ばないものの、パリーグでは大杉勝男、アルトマンに次ぐ史上3人目の6試合連続本塁打だった。
 また、土井は1973年にも7月29日から8月3日まで5試合連続本塁打を記録しており、固め打ちを得意としていた。この他にも1967年9月7日から10月17日にかけて作った25試合連続安打があり、土井は、一旦波に乗ると手のつけられないほど打ちまくったことがうかがえる。


 Dプロ14年目で念願の本塁打王獲得

 土井は、近鉄の四番打者として長きにわたって活躍したものの、打撃主要三部門のタイトルには無縁だった。1967年には打率.323を残したものの、張本勲が打率.336だったため、2位に終わっている。
 打点も1964年に98打点を挙げたが、野村克也が115打点を挙げたため、2位だった。1967年も、野村に次いで2位。
 1971年には自己最高の40本塁打を放ったものの、大杉勝男が41本塁打を放っていたため、2位に終わる。また、1974年にもチームメイトのジョーンズに敗れて2位に終わっている。
 そんな土井がついにタイトルを獲得したのは、太平洋に移籍した1975年だった。32本の加藤秀司、29本のジョーンズ、28本の野村克也らを振りきり、34本塁打を放って念願の本塁打王に輝いたのである。


 E465分の3

 土井は、通算465本もの本塁打を放った。本塁打王こそ1度だけだが、コンスタントに20本塁打以上放てる打者は、そういないだけに20世紀を代表するスラッガーの1人ということに異論はない。
 だが、土井は、広角に本塁打を放つバッターではなかった。広角に打てないというよりは、敢えて打たなかったと言った方が正しいだろう。どんな球でも引っ張ってレフトへ豪快に打つ。それが土井の一貫したスタイルだった。
 それでいて、大きなフォロースルーから振り出しを遅くして球を引き付け、バットを折らずに引っ張る確かな技術があった。土井は、通算465本の本塁打を放っているが、そのうちライトスタンドへ飛んで行ったのはわずか3本しかないという。究極のプルヒッターと呼んでもいいだろう。


 F功績は長嶋級

 土井の通算成績は、打率.282、465本塁打、1400打点、2452安打とどれをとっても超一流である。同じ頃、セリーグで活躍した長嶋茂雄は、打率.305、444本塁打、1522打点、2471安打である。打率こそ長嶋に劣るものの、それ以外はほぼ遜色ないと言っていいだろう。土井は、長嶋と同じ背番号3の右打者だったため、「パの長嶋」という異名さえあったという。
 だが、その実力とは裏腹に、土井が長嶋級の評価を世間から受けたかと言えば、そうではない。現役時代の長嶋茂雄を雄弁に語れる人は多くいても、現役時代の土井を語れる人は少ない。それは、メディアに露出度の高いセリーグと低いパリーグの差であり、常勝チームと弱小チームの差でもある。それゆえに、土井は、残した実績の高さに比べ、世間の評価は低く、今でもメディアに取り上げられることもほとんどない。しかし、土井が残した記録は、彼がプロ野球史上に残る大打者であったことを雄弁に物語っている。





(2005年5月作成)

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