オレステス・デストラーデ
 1962年5月、キューバ生まれ。一塁手。指名打者。右投左右打。背番号39(西武)。5歳のときにアメリカに移住し、フロリダ大学在学中の1981年に大リーグの名門ヤンキースと契約し、入団。1987年には大リーグ昇格を果たすが、翌年はパイレーツに移籍。
 しかし、大リーグでは出場の機会にあまり恵まれず、1989年の途中に西武と契約し、来日した。
 1989年に83試合出場ながら32本塁打、81打点という活躍を見せた。
 1990年には42本塁打、106打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得。西武は2位に12ゲームを付ける大差でリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも巨人に4連勝して日本一となった。シリーズで4戦とも勝ちにつながるバッティングを見せたデストラーデはMVPに選出された。
 以後、清原和博、秋山幸二と強力なクリーンアップを形成し、桁違いの破壊力で西武は連覇を続けることになる。
 1991年も39本塁打、92打点で2年連続二冠王となった。そして1992年も41本塁打で3年連続本塁打王となったものの、翌1993年は大リーグに新設されたマーリンズへ移籍。
 マーリンズの主砲として20本塁打、87打点を残した。
 しかし、翌年は打率2割ちょっとのところで低迷し、解雇される。
 そして、1995年からは再び西武に復帰したものの不調にあえぎ、6月に現役を引退した。
 彼の在籍中、西武は1990年から1992年までシリーズ3連覇を果たしている。

 眼鏡をかけた巨漢ながら振りはシャープで、左右どちらの打席でも本塁打が打てるパワーを備え、「カリブの怪人」と恐れられたスラッガーであった。選球眼も良く、日本野球をうまく吸収して西武の黄金時代をより強固なものとした。

 通算成績(実働5年):打率.262、160本塁打、389打点。本塁打王3回(1990〜1992)打点王2回(1990・1991)ベストナイン3回(1990〜1992)日本シリーズMVP(1990)


数々の伝説


 @キューバ出身の大リーガー

 デストラーデは、キューバが、8歳のときにアメリカに移住し、フロリダ大学で頭角を現している。そして、大リーグのヤンキースに入団し、3Aで好成績を残した1987年には大リーグ昇格を果たした。翌年、パイレーツに移籍して大リーグで本塁打を放ったものの出場機会が少なく、芽が出なかった。
 大リーグでの成績は45試合で打率.182、1本塁打、4打点であった。
 1989年に西武と契約したことで27歳にしてようやく最高の働き場所を見つけることになる。


 A来日

 1989年、既に常勝の名を欲しいままにしていた西武ライオンズは危機に瀕していた。他チームとの実力差が縮まり、1985年から続いてきたパリーグ連覇に暗雲が立ち込めていたのである。
 しかも、外国人選手で前年に38本塁打と活躍したバークレオが極度の不振に陥っていった。 
 西武は、慌てて外国人選手の補強を考えた。白羽の矢が立ったのがアメリカの3Aでくすぶっていたデストラーデである。
 6月に来日したデストラーデは、アメリカでの不遇を晴らすかのような活躍を見せる。
 登録後1試合目でいきなり本塁打を放つと、出場は83試合ながら32本塁打も放ったのである。これは、当時の全130試合出場に換算すると50本塁打のペースだった。
 それでも西武は、最後まで優勝争いはしたものの近鉄に優勝をさらわれ、リーグ優勝は4連覇で止まっている。もしデストラーデが開幕時からいれば、間違いなく優勝していただろう。そうすれば、夢のリーグ10連覇が実現していたのである。


 Bスイッチヒッターのスラッガー

 デストラーデは、ホームランバッターには珍しいスイッチヒッターだった。そのため、1試合で左右両打席本塁打を3度も記録している。
 1回目は、1990年の9月9日のオリックス戦。2回目は1991年の6月18日のオリックス戦。3回目は1991年10月3日の日本ハム戦である。
 3度の1試合左右打席本塁打は、歴代3位の記録となっている。


 Cガッツポーズ

 「カリブの怪人」の愛称を持っていたデストラーデだが、ファンに人気があったのは彼のパフォーマンスである。
 本塁打を放って手を突き上げてガッツポーズする選手は多いが、デストラーデは、立ち止まって前に突き出す形のガッツポーズを見せた。これは、空手の突きの形を真似たものと言われ、デストラーデは、重要な局面で本塁打を放つと必ず本塁・一塁間でこのガッツポーズをしてファンを沸かせていた。


 D西武の日本シリーズ4連勝の立役者

 1990年の西武は、強かった。81勝45敗で貯金は36。2位に12ゲームもの大差を付けている。
 その西武と日本シリーズで対戦したのが圧倒的な強さでセリーグを制した巨人である。巨人は、88勝42敗で貯金は46。2位には何と22ゲーム差を付けていた。
 最強同士の日本シリーズと言っても過言ではない。
 第1戦は西武が1回2死1・3塁のチャンスをつかむ。そして、デストラーデが槙原寛己から先制の3ランホームランをライトスタンド奥深くに叩き込み、そのまま5−0で圧勝した。
 第2戦も、第1戦と同じようにランナーを1回2死1・3塁にランナーを置いたチャンスで打席にはデストラーデ。巨人先発の斉藤雅樹は、デストラーデの初球にワイルドピッチをしてしまい、1失点。追い討ちをかけるようにデストラーデはライトオーバー2塁打を放ってもう1点を奪った。デストラーデは3回にも本塁打も放って試合は9−5でまたも西武の圧勝。
 そして第3戦も、1死満塁で打席に立ったデストラーデは、巨人の桑田真澄からレフトオーバーの2塁打を放って先制し、7−0で圧勝。
 こうなると西武の勢いは止まらず、第4戦も5回にデストラーデが逆転のタイムリーを放つと7−3で圧勝し、西武は強いと言われた巨人に4戦連続大勝で日本一をもぎとったのである。
 デストラーデは、打率.375、2本塁打、8打点の活躍で文句なしのMVPであった。


 E3年連続本塁打王

 実質フルシーズンをプレーする最初の年となった1990年にデストラーデはいきなり42本塁打を記録し、本塁打王に輝いている。
 翌1991年も39本塁打を放ち、2年連続本塁打王。1992年も41本塁打と3年連続で本塁打王となった。
 意外なことに外国人の3年連続本塁打王というのは日本初であった。
 大リーグ復帰を考えなければ、さらに記録は伸びていたのではないかと思われるほどの活躍ぶりである。

 
 F大リーグ復帰

 1993年にデストラーデは、大リーグに新設されたマーリンズからスカウトされ、西武を退団し、マーリンズと契約する。日本での実績を買われたデストラーデは、マーリンズの四番打者に抜擢される。
 デストラーデは、その年20本塁打を放ち、まずまずの成績を残す。
 しかし、翌年は、不振に陥り、打率.208、5本塁打と精彩を欠いて5月末に自由契約となった。


 G再来日するもその年引退

 マーリンズを自由契約となったデストラーデに対して、外国人選手の補強に苦しんでいた西武が再び目を着けることになる。
 デストラーデは、再来日し、西武でプレーする。しかし、デストラーデは、以前のような打棒を見せることはなかった。前年の不振をそのまま引きずっており、夫婦間にも問題を抱えていたためである。46試合で6本塁打、打率.245。
 6月、デストラーデはついに家庭内事情から引退を決断。最後は最も活躍した西武で野球人生を終えることになった。



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