ラルフ・ブライアント 
 1961年アメリカ・ジョージア州生まれ。外野手。指名打者。右投左打。背番号49(中日)→16(近鉄)。1981年ドラフト1位で大リーグのドジャースに入団。1985年にメジャー昇格を果たし、1987年までの間に79試合に出場し、8本塁打を記録。
 1988年に中日へ入団。既に2人の外国人選手がいたため、2軍にくすぶっていたが、主砲を逮捕で失った近鉄が急遽獲得。
 74試合出場ながら34本塁打という奇跡的な数字を残し、近鉄の主砲に登り詰めた。
 1989年には49本塁打を放って本塁打王になり、近鉄のリーグ優勝に貢献するとともにシーズンMVPにも輝いた。この年のダブルヘッダー4連発は、今でも語り草になっている。
 1993年には42本塁打、107打点で2冠王になり、シーズン204三振という不滅の記録まで打ちたてている。
 翌1994年にも本塁打王となったが、1995年に打率1割台の不振に陥り、シーズン途中で退団した。
 日本史上初めてドームの天井にぶち当てた認定本塁打に象徴されるように、強くすくいあげて高々と舞い上がる本塁打を打つ典型的なアーチストだった。
 
 通算記録:打率.261、259本塁打、641打点。778安打。本塁打王3回(1989・1993・1994)打点王1回(1993)三振王5回(1989・1990・1992〜1994)ベストナイン3回(1989・1993・1994)


数々の伝説


 @ドジャースのドラフト1位

 ブライアントは、1981年にドジャースからドラフト1位指名されて入団している。素質は、申し分なかったわけである。
 しかし、なかなか芽が出ず、1985年に初めてメジャーに昇格。
 その後もレギュラーを獲得するまでには至らず、1987年までの3年間で78試合出場、打率.253、8本塁打、24打点という並の成績を残して、1988年に来日している。しかし、8本塁打しているところに可能性の一端を探ることができる。


 A中日の第3の外国人から

 1988年6月、近鉄は、主砲として安定した成績を残してきたデービスが突如、麻薬所持で逮捕され、退団を余儀なくされた。
 近鉄にとっては主砲が抜けたとなると大打撃である。だが、その年の新外国人獲得期限が迫っており、もはやアメリカで選手を探してくる時間はなかった。
 近鉄は、そこで国内の2軍にいる外国人に目をつけ、とりあえずの一時的な補強として中日の2軍で第3の外国人としてくすぶっていたブライアントを譲り受ける交渉を進めた。
 中日も、年俸わずか700万円のブライアントの引渡しに快く応じ、獲得期限直前で近鉄に移籍した。
 すると、その初戦の6月29日日本ハム戦で決勝ニ塁打を放つと、7月3日の西武戦で初本塁打を放って、近鉄の主砲としての活躍を見せ始めた。
 シーズン終了時には何と74試合出場で34本塁打。もし130試合出場していたと換算すれば60本塁打になる。予想をはるかに超える活躍をしたことは疑いようのない事実である。


 B認定本塁打第1号

 1990年6月6日の日本ハム戦でブライアントが放った打球は、すさまじい勢いでセンター方向へ舞いあがり、東京ドームのセンター後方の天井に付いている高さ44.5メートルのスピーカーに当たってニ遊間に落ちた。これが判定の結果、本塁打とされ、認定本塁打第1号となった。
 これは、ドーム球場が日本にできて以来、初めてのことであった。推定飛距離についてはおそらく170メートル超であっただろうとまで言われている。
 ブライアントの爆発力は、他の外国人と比較しても抜きん出ており、飛距離もすばらしかった。このときの認定本塁打が日本のプロ野球史上最長飛距離なのではないかとの説もあるくらいである。
 ブライアントは、1試合3本塁打以上を8回記録しており、王の5回を超えて日本記録である。


 C優勝を決める4打数連続本塁打

 1989年10月12日、西武×近鉄戦のダブルヘッターが行われた。僅差で首位を争う中、この2連戦に連勝した方が優勝することは明らかだった。
 1試合目、近鉄は先発高柳の乱調で0−4とリードを許すが、ブライアントは、4回にソロ本塁打、6回には5−5の同点に追いつく満塁本塁打、そして8回には勝ち越しとなるソロ本塁打、と3打席連続本塁打を放っている。そのまま、近鉄は6−5で勝っている。
 そして、2試合目は第1打席こそ四球だったものの、第2打席では先制ホームランを放ち、これで2試合にまたがる4打数連続本塁打となった。
 勢いに乗った近鉄は14−4で大勝し、2日後に優勝を果たしている。


 D驚異の三振王

 ブライアントは、豪快にすくいあげる大きな本塁打が持ち味であるが、ホームランバッターの例に漏れず、三振数も多い。
 しかも、それが半端な数ではないのだ。
 1989年にそれまでミッチェルが記録したシーズン158三振を大きく超える187三振を喫してダントツの三振王になった。本塁打も49本でダントツの本塁打王なのだが。
 1990年には自ら作った前年の記録をさらに塗り替え、198三振という記録を達成。
 そして、1993年には42本・107打点で本塁打と打点の2冠王になったが、ついに大台の204三振を喫して3度目の記録更新をしている。
 実働8年にもかかわらず、5度の三振王に輝いており、歴代シーズン最多三振記録の1位から4位までを独占するという派手な記録を残している。




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