別所 毅彦
 1922(大正11)年10月、兵庫県生まれ。旧名:昭。右投右打。投手。背番号22・12(南海)→29・11(巨人)。滝川中(現滝川高)で甲子園に出場した。
 1942年、南海に入団。2年目に14勝を挙げて頭角を現す。
 戦後の1946年には19勝13敗防御率2.46でチームを優勝に導いた。(この年のチーム名は近畿グレートリング。翌年からチーム名は再び南海に変更)
 1947年には30勝19敗、防御率1.86、191奪三振で最多勝・最多奪三振のタイトルを獲得。創設されたばかりの初代沢村賞投手の栄冠も手にしている。
 1948年には26勝10敗の成績を残し、南海を優勝させている。
 しかし、その年のオフに巨人に引き抜かれて移籍。巨人がシーズン中に交渉したため、協約違反とされて1949年開幕から2ヶ月間の出場停止処分を受けた。
 それでも、別所はその年に14勝し、巨人に戦後初の優勝をもたらした。
 セ・パ分裂後の1951年から1953年には日本シリーズ3連覇を達成。特に1952年は、ペナントで33勝13敗、防御率1.94を残してシーズンMVP、日本シリーズでは3勝0敗、防御率1.64でシリーズMVPという超人的な活躍を見せた。
 1955年からのリーグ5連覇にも大きく貢献。1955年には防御率1.33で最優秀防御率のタイトルを獲得し、日本シリーズでも3勝1敗、防御率1.16でシリーズMVPになっている。さらに1956年には27勝15敗で3度目の最多勝を獲得すると同時に、2度目のシーズンMVPに選出されている。 
 1959年10月、国鉄戦で通算300勝を達成し、1960年限りで現役引退。巨人・大洋のコーチを経て、サンケイ・ヤクルトの監督も務めた。
 1979年、野球殿堂入り。

 長身から豪快に投げ下ろす重くて速いストレートを中心としたコンビネーションで故障せずに長期間にわたって投げ続け、巨人の第二期黄金時代のエースとして君臨して「豪腕」と呼ばれた。

 通算成績(実働17年):310勝(歴代5位)178敗、防御率2.18(歴代7位)。1934奪三振。シーズンMVP2回(1952・1956)日本シリーズMVP(1952・1955)最優秀防御率(1955)最多勝3回(1947・1952・1956)最高勝率1回(1948)最多奪三振1回(1947)沢村賞2回(1947・1955)

数々の伝説


 @泣くな別所、センバツの花

 1941年、滝川中学のエースとして春の甲子園に出場した別所は、岐阜商業戦で本塁にスライディングした際に左肩を脱臼。利き腕は右だったため、左腕を肩から三角巾で吊り下げた状態で先発した。
 左腕は、全く使えないため、キャッチャーから返ってくる球はすべてゴロにしてもらったという。
 試合の方は、右腕だけで投げる別所が好投し、接戦となったが、結局延長14回1−2で惜敗した。
 そのプレースタイルは、「泣くな別所、選抜の花」と称えられた言葉とともに伝説となった。
 第二次世界大戦の激化があって、この年を最後に甲子園大会は中断。大怪我をおしてまで投げ抜いた別所の支えは、いつ召集されて戦死するかもしれないから、やれるときに野球をやり抜きたい、という一途な想いだったと言われている。
 別所の力投は、今でも純粋さや精神力の修養を重視する高校野球の象徴として語り継がれている。


 Aノーヒットノーラン達成

 戦争が激化していた1943年5月26日、別所は、大和戦に先発し、2−0で完封するとともに無安打に抑え、ノーヒットノーランを達成した。
 投げた球のうちのほとんどが直球で、カーブは10球程度しか投げなかったという。
 別所の投球は、長身から投げ下ろす重くて速いストレートを中心に組み立てていた。人々は別所を「豪腕」と呼び、別所の球を受けた捕手の手は腫れ上がったという伝説も残っている。


 Bシーズン47完投

 1947年、別所は、南海のエースとして55試合に登板している。そのうち先発で投げたのが50試合にも上っている。
 そして、50試合中で完投したのが実に47試合。これは、現在でも林安夫(朝日)と白木義一郎(東急)の44完投をしのいで日本記録となっている。
 現在のような中5日、中6日が当たり前になったローテーションでは今後この記録を破る選手は出てくることは考えられず、不滅の記録と断定しても良いだろう。
 当然、この年の別所は、30勝19敗、防御率1.86、191奪三振という好記録を残し、最多勝と最多奪三振の2冠に輝いている。  


 C控え選手に打たれ、完全試合を逃す

 1952年6月15日、別所は、松竹戦に先発し、8回まで松竹打線を完全に抑え込んだ。9回も簡単に2アウトをとった。
 松竹は、ここで代打に控え捕手で入団2年目の神埼康隆を出す。選手を使い果たし、他に適任の代打がいなかったためである。
 松竹も神崎も、最初から打てないと踏んだのか、初球、2球目とセーフティバントを試みるが失敗。たちまちカウントは2−0となった。
 しかし、あと1球で完全試合というところまできて、別所も力が入ったのかボールが続き、カウントは2−3になる。
 完全試合のためにはもうボールが許されない。別所のストライクをとりにきた球を振った神崎の打球は、ボテボテのゴロとなった。
 しかし、別所は横を抜かれ、前進してきたショートが捕ったものの、一塁には間に合わなかった。
 別所は、完全試合達成寸前で運に見放されてしまったのである。
 そして、この神崎の放った内野安打が彼のプロ野球生活唯一の安打となったことで、後にこの試合はクローズアップされることになる。神崎の通算成績は、実働4年で9打数1安打、打率.111。まさに、別所の完全試合阻止のためだけにプロにいたような選手なのだ。
 記録記者の宇佐美徹也がプロ野球の記録を分析し始めたのも、この伝説がきっかけだと言われている。


 D別所引き抜き事件

 別所は、戦後に入ると1946年に19勝、1947年には30勝を挙げ、南海の大エースになりつつあった。そして、当時は、こうした一流選手に対して、球団が一軒家や自動車をプレゼントするという風潮があった。しかし、南海は、別所に対して一切そのような優遇措置を行わなかった。
 別所がそれに不満を持っていることを知った巨人は、1948年のシーズン中であるにも関わらず、別所に接触。このとき、巨人は、戦後3年間でまだ一度も優勝できていなかったため、エースを必要としていた。
 巨人の動きを知った南海も、慰留に努めたが、別所は巨人入りを決断。翌年3月に別所は巨人と契約した。
 しかし、南海在籍時のシーズン中に交渉を行ったことが協約に触れるため、別所は、コミッショナーから2ヶ月間の出場停止処分を受けた。
 この別所引き抜き事件が後の巨人の強引な選手集め体質の原点になったと指摘する者も多い。
 

 E好打者

 別所は、打撃でも非凡なセンスを持っていた。通算では投手としては金田正一の36本塁打(それ以外に野手で2本)と米田哲也の33本には及ばないものの彼らに次ぐ31本塁打(それ以外に野手で4本)を放っており、投手で歴代3位の記録となっている。
 1948年には150打数51安打4本塁打で打率.340という首位打者を狙えるような打撃成績を残している。また、1952年にも151打数52安打4本塁打で打率.344であった。
 また1955年6月9日には中日の杉下茂からサヨナラ本塁打まで放っている。


 Fスタルヒンを抜いて通算勝利新記録達成

 1955年にスタルヒンは、通算300勝を達成し、303勝で現役を終えている。これが当時の日本記録であったが、別所は、1958年までに294勝を挙げていた。
 しかし、球威の衰えから登板数は減らされ、勝利数も減ってきていたため、別所は、1958年オフの契約更改で35試合登板を条件として要求した。
 この前代未聞の要求は、当時の野球界を騒がせたが、1959年の登板は22試合にとどまり、7勝に終わっている。
 この時点で301勝。
 別所は、1960年、最後の力を振り絞って力投し、35試合に登板して9勝を上積みし、ついにスタルヒンの303勝を抜いて通算勝利新記録を達成した。
 しかし、記録は破られるためにあるもの。その3年後に金田正一が別所の記録を抜き、通算勝利を400勝まで伸ばしている。


 G中村投手殴打事件

 1962年7月10日、名古屋でその事件は起きている。
 中日との試合後、巨人ナインは、旅館へ宿泊した。
 巨人のコーチになっていた別所は、その日の深夜、用を足すために起き出し、中村稔投手の部屋に電気が点いているのを発見。中をのぞくと、中村は球団が禁止している酒を飲んでいる。
 怒った別所は、中村を川上哲治監督の元へ連れて行き、中村の首を押さえて川上監督の前に座らせた。
 別所自身は、殴打しなかったと主張しているが、1ヶ月後、週刊誌がこのときのことを「殴打事件」として報道したため、事が大きくなり、球団は別所に謹慎処分を課した。
 別所は、球団に弁明したものの聞き届けられず、2軍コーチ降格を拒んでそのまま巨人を退団した。
 この事件は、川上体制から別所を外そうとする陰謀との説も出ているが、未だにその内情は謎に包まれている。



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