ランディ・バース
  1954(昭和29)年、アメリカ・オクラホマ州生まれ。右投左打。一塁手。背番号44。
 オクラホマ大、ツインズ・ロイヤルズ・エクスポズなどを経て1983年阪神タイガース入団。
 1年目こそ3割に満たない打率であったが35本塁打を放つ。2年目からは日本野球に順応して打率も稼げるホームランバッターとして活躍する。
 3年目の1985年には打率.350、54本塁打、134打点という爆発的な活躍を見せ、三冠王を獲得、チームもリーグ優勝を果たす。さらに日本シリーズでも3本塁打を放つ活躍でMVPを獲得している。
 1986年には現在でも日本記録となっている打率.389を残し、さらに47本塁打、109打点で二年連続三冠王の快挙を達成している。1987年にも37本塁打を放った。
 しかし、1988年、子供の病気の治療のため、帰国した後一方的に阪神タイガースを解雇され、退団。
 日本での実働年数は6年間であったが、彼の残した驚くべき成績は、史上最高の外国人と賞賛されるにふさわしいものである。
 日本のやり方に自らを合わせる適応力と誠実な人柄で親しまれ、豪快なスイングとレフトスタンドにも放り込める高い技術で本塁打を量産するとともに、隙のないミート力で高打率を残した。

 通算成績(実働6年):打率.337、本塁打202、打点486、743安打。本塁打王2回(1985・1986)打点王2回(1985・1986)首位打者2回(1985・1986)三冠王2回(1985・1986)ベストナイン3回(1985〜1987)シーズンMVP1回(1985)日本シリーズMVP1回(1985)

数々の伝説


@大リーグでは通算打率.212

 バースは、阪神入団まではほとんどアメリカのマイナー球団でのプレーが主だった。1972年のプロ入団後、大リーグでもときおり出場しているが、これといった成績を残していない。
 そのため、大リーグだけでもツインズ・ロイヤルズ・エクスポズ・パドレス・レンジャースの5球団を渡り歩いている。大リーグの通算記録は打率.212、本塁打9本、42打点。並以下の成績である。
 そのため、年俸もわずか850万円という格安選手だった。
 阪神入団前年の1982年、バースは、3Aのデンバースで68試合に出場して打率.290、18本塁打という成績を残す。それが認められて阪神への入団が決まった。


A1年目は不調

 阪神入団の1年目は、日本野球の適応に苦しんだ。
 その他にもオープン戦では右手首に死球を受けて全治7週間の重傷を負っている。
 そして、一緒に来日していたリンダ夫人が重度のホームシックにかかってしまう。さらに父の死。
 これらの不運に見舞われた1年目は、37本塁打を放ったものの、彼が日本でプレーした6年間のうち唯一2割台(.288)に終わっている。


B21年ぶりの優勝に貢献

 阪神は、プロ野球創設当初からある名門球団であるが、1964年に優勝して以降は低迷を続けていた。
 しかし、1985年は、バースを中心に掛布雅之・岡田彰布・真弓明信らが打ちまくって21年ぶりに優勝した。
 中でもバースは、打率.350、54本塁打、134打点で三冠王と獲得するとともにシーズンMVPにも選ばれる。さらに西武との日本シリーズでもその勢いはとどまることを知らず、バースは第1戦で決勝の3ランを放つと、第2戦でも決勝の2ランを放つ。第3戦でも3ランを放ったバースは、シリーズ通算で打率.368、3本塁打、9打点という成績を残し、4勝2敗で阪神を日本一へ導いた。当然、シリーズMVPはバースが獲得した。


Cバックスクリーン3連発

 1985年4月17日、甲子園球場で巨人×阪神戦が行われた。
 試合は、7回表まで巨人が3−1とリード。
 巨人のマウンドには若き日の槙原寛己がいた。
 7回裏、簡単に二死一二塁で打席は3番バース。
 バースは、槙原の初球を豪快にバックスクリーンに叩きこみ、4−3と逆転に成功する。
 さらに4番の掛布がカウント1−1からバックスクリーンにソロホームランで続く。その興奮が冷めぬうちに5番岡田がカウント1−0からまたしてもバックスクリーンへソロホームランを放って3連発となった。
 このバックスクリーン3連発は、奇跡と呼ばれ、阪神を勢いづけた。阪神は、この3連発以降快進撃を続けて打ちまくり、この年は日本一にまで登り詰めている。
 また、この年のバースの本塁打数は54本、掛布は40本、岡田が35本とクリーンアップで129本塁打という大記録を残している。


D54本塁打の陰で

 1985年、バースはチームの快進撃とともに本塁打をかつてないペースで量産し続ける。
 それは、年間55本塁打を打った王貞治のペースを上回っていた。
 10月9日のヤクルト戦では48号を放ち、マニエルが持っていた外国人最多本塁打記録に並ぶ。
 そして、10月12日の広島戦で49号を放ち、外国人本塁打新記録を達成。
 10月16日のヤクルト戦では52号を放ち、阪神もリーグ優勝を決めた。
 好調なバースは10月20日に54号を放ち、2試合を残してシーズン最高記録に挑戦することとなった。
 しかし、くしくも残り2試合は王貞治監督が率いる巨人との対戦となった。
 最初の試合は、江川卓が勝負を挑んだため、最初の3打席は2打数1安打1四球だった。だが、江川が降板した後の4打席目は敬遠気味の四球。
 最終試合では第1・第2打席ともにホームプレートをはるかに外れるボールで四球。
 第3打席は3球ボールのあと、4球目に投手の手元が狂ってバットを伸ばせば届くボールとなった。バースは、このボールを強振。バース本人は本塁打を狙ったと回想しているが、残念ながらセンター前ヒットとなった。
 第4・第5打席もすべて打てないようなボールばかりで四球となった。
 巨人のコーチは、最終戦の前、「バースにストライクを投げた投手には罰金を課す」と言ったと伝えられている。
 これに発奮したバースは、続く日本シリーズで第1戦から第3戦まで3試合連続本塁打。この年の公式本塁打数は57本にのぼっている。
 

E3割8分9厘の史上最高記録でありながら

 1986年、バースは前年に引き続き好調を維持し、6月には打率を4割台に乗せた。
 その後も、高打率をキープしつづけ、最終的に打率.389で首位打者のタイトルを獲得した。これは、張本勲が1970年に記録した打率.383を抜いてシーズン打率の日本新記録である。打点109・本塁打47と合わせて二年連続3冠王も獲得した。
 しかし、意外にも評価は低く、バースはこの年のMVPには選ばれていない。マスコミも、ほとんどと言っていいほど、この大記録を大きく扱うことはなかった。
 バースは、シーズン終了直前に打率.384まで下がったら残りの試合はすべて欠場するつもりだったそうである。それは、張本の.383を一度下回ったら二度と日本の投手が勝負してくれないと予測したからである。
 ただそれを実行するまでもなく、この年のバースは終始.384以上を打ち続けた。


F悲劇の退団

 1988年5月、バースの息子ザクリーが水頭症という難病にかかっていることが判明する。
 バースは、息子に手術を受けさせるために帰国。
 しかし、来日の延期を交渉がこじれると、阪神は一方的にバースを解雇する。
 このとき、元々バースの契約には球団が家族の医療費を負担することになっていたが、阪神の経営陣が保険を全くかけていなかったことが判明した。阪神は、膨大な医療費が今後かかってくることを恐れたためのバース解雇だった。
 この契約問題はその後も紛糾し、7月には阪神の古谷新吾球団代表が自殺するという悲劇にまで発展する。
 この問題は、最終的に示談金で解決しているが、バースは、二度と日本球界で打席に立つことはなかった。




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