阿波野 秀幸
 1964年7月、神奈川県生まれ。投手。左投左打。背番号14(近鉄)→28(巨人)→49(横浜)。亜細亜大学から3球団競合によるドラフト1位指名で近鉄に入団する。
 1年目からローテーションの中心として15勝12敗、防御率2.88、201奪三振の成績で新人王を獲得する。
 2年目の1988年にも14勝12敗1セーブ、防御率2.61の成績を残して近鉄を激しい首位争いに導く。しかし、優勝を左右する10月19日のダブルヘッダー2試合目でリリーフで同点本塁打を浴び、優勝を逃す。
 1989年には前年の屈辱を跳ね返すかの如く勝つ続け、19勝8敗、防御率2.71、183奪三振の好成績を残して近鉄をリーグ優勝に導く。日本シリーズでも1勝を挙げたが、巨人に3勝4敗で敗れて日本一を逃した。
 1990年にも10勝を挙げたが、1991年には不振に陥り、2勝に終わる。
 1992年には6勝を挙げるものの、翌年には1勝に終わり、1995年には巨人に移籍する。しかし、巨人では3年間で1勝もすることができず、1998年には横浜に移籍する。
 横浜では近鉄時代の恩師権藤博監督に重用され、セットアッパーとして復活を果たし、50試合に登板して4勝1敗の成績を挙げる。日本シリーズでも3試合に登板して1勝を挙げ、横浜の日本一に貢献した。
 1999年には40試合に登板して2勝、2000年には11試合登板で2勝に終わり、現役を引退した。

 左腕から切れ味抜群の直球、自在にコントロールできる変化球を武器にプロ1年目から近鉄のエースとして活躍し、10.19伝説や翌年の近鉄リーグ優勝の立役者となった。

通算成績:75勝68敗5セーブ、防御率3.71、985奪三振。最多勝1回(1989)最多奪三振2回(1987・1989)新人王1回(1987)ベストナイン1回(1989)ゴールデングラブ賞1回(1989)

数々の伝説


 @3球団競合で希望外の近鉄入団

 1986年の秋、亜細亜大学のエースとしてプロから注目を集めた阿波野は、在京球団への入団を希望する。
 しかし、当時は、まだ逆指名の制度もなく、巨人、大洋、近鉄の3球団が阿波野を1位で指名した。抽選の結果、当たりくじを引き当てたのは、非情にも東京から最も遠い大阪に本拠地を置く近鉄だった。
 阿波野は、迷った末、希望外だった近鉄に入団を決める。恩師に社会人野球で時間を過ごすのはもったいない、と説得されたのがその理由だという。
 この選択がパリーグを歴史上、最も盛り上げた1日を作り出すことになる。

 
 A新人で4月の月間MVP

 3球団の1位指名から近鉄に入団した阿波野だったが、当時の近鉄は、武骨な選手が揃うチームで、細身で色白の甘いマスクを持つ阿波野は、異質な存在だった。
 阿波野も、最初は不安だったが、正捕手梨田昌孝が阿波野の球なら勝てると太鼓判を押したことで、阿波野は、開幕2戦目のロッテ戦に先発して1失点完投勝利を挙げる。さらに次の登板では前年王者の西武から完封勝利を挙げる。そして、阿波野は、新人ながら4月に3勝0敗の成績を残して月間MVPを獲得するのである。


 B新人王

 阿波野の活躍は、4月だけに留まらなかった。5月以降も安定した投球を重ねてオールスターゲームまでに9勝を挙げる。オールスターゲームでも第3戦に先発して勝利投手となった阿波野は、9月5日には10勝目を挙げ、最終的な成績は15勝12敗、防御率2.88を残す。この年、阿波野はシーズン201奪三振を残して最多奪三振にも輝いた。
 とはいえ、日本ハムの新人西崎幸広も、同じく15勝7敗の成績を残しており、新人王争いは、かつてないほど高いレベルとなった。そして、投票の結果、奪三振数と防御率で上回る阿波野が141票で、西崎の51票を上回って新人王に輝いた。


 Cトレンディーエース

 鳴り物入りで入団し、プロ1年目からエースとして活躍する阿波野に対する世間の注目は、高まる一方だった。それに加えてまるで若手俳優のような風貌は、プロ野球を知らない女性をも魅了し、多くのファンが群がった。
 同時期、阿波野と同じように細身で甘いマスクを持つ日本ハムの西崎幸広も、新人ながらエース級の活躍で阿波野と新人王を争う。この2人の人気は、セリーグの人気選手をもしのぎ、「トレンディーエース」という称号がついた。それまで大エースと呼ばれる投手は、武骨で近づき難い雰囲気を持っていたが、阿波野や西崎は、洒落た都会風の雰囲気を持ち、新しい時代を作り上げたのである。


 D伝説の10.19で痛恨の被弾

 1989年10月19日、近鉄は、ロッテとのダブルヘッダーに2連勝すれば優勝することが決まっていた。しかし、2連勝以外なら優勝を逃すという追い詰められた状況でもあった。
 異様な雰囲気の中、試合は、近鉄が8回表に3−3に追いつき、9回表に4−3とリードする緊迫した展開となった。そして、9回裏のマウンドに上がったのは阿波野だった。阿波野は、1安打と1四球を与えながらも何とか抑えきり、1試合目を勝利する。
 2試合目も接戦となる。近鉄は7回表に3−1とリードするが、7回裏に吉井理人が打たれて3−3の同点となり、8回表にブライアンとの本塁打で4−3と突き放す。
 8回裏のマウンドに上がったのは阿波野である。阿波野が8回、9回と抑えて逃げ切るのが近鉄の描いた青写真だった。しかし、阿波野は、近鉄の四番打者高沢秀昭に痛恨のソロ本塁打を浴びて4−4の同点に追いつかれてしまう。
 近鉄は、9回表に点を奪えず、阿波野は9回裏を0点に抑えたが、当時は4時間を超えたら次の回に入らないという規則があり、試合は延長10回引き分けで近鉄はリーグ優勝を逃す。阿波野にとっては、生涯で最も悔いの残る被本塁打となったが、この試合は、「10.19」と呼ばれ、パリーグ史上最も記憶に残る試合として語り継がれることになる。


 E1989年の胴上げ投手

1989年は、近鉄、西武、オリックスが激しい首位争いを繰り広げることになる。黄金時代の西武が有利かと思われたが、近鉄は、10月10日の西武戦でブライアントが4打席連続本塁打を放つという離れ業を見せたことによって、近鉄が一気に優勝に近づく。
 そして、迎えたのが10月14日のダイエー戦だった。近鉄は、先に5点を奪ったが、6回表にダイエーが1点を返してさらにピンチが続く。そこで先発の加藤哲郎の後を受けて登板したのが阿波野だった。
 阿波野は、この年、既に19勝を挙げる大エースだったが、優勝を決める試合ということで、リリーフのマウンドに立ったのである。阿波野は、この回のピンチをしのぐと、2回2/3を1失点で切り抜けて5−2で勝利し、セーブを挙げるとともに胴上げ投手に輝いた。


 F横浜で復活

 1997年に巨人で1試合の登板に終わった阿波野は、1998年、近鉄時代の投手コーチ権藤博が監督となった横浜に移籍する。
 横浜では多くの登板機会が与えられ、阿波野は、この年、セットアッパーとして試合の重要な場面で起用されて、50試合に登板して4勝1敗の成績を残す。
 チームも、阿波野、佐々木主浩という安定した救援陣とどこからでも点が取れるマシンガン打線を中心に、38年ぶりのリーグ優勝を果たす。阿波野は、横浜でセットアッパーとして見事な復活を果たし、9年ぶりに優勝の立役者となったのである。


 Gセパ両リーグで日本シリーズ勝利投手

 阿波野は、1989年の日本シリーズで近鉄のエースとして第1戦に先発する。阿波野は、4回までに3点を失うが、粘り強く味方の反撃を待ち、6回裏に同点、7回裏に逆転してもらうと、そのまま9回まで投げ切り、4−3で完投勝利を挙げる。
 近鉄は、その勢いで3連勝するが、巨人も盛り返し、近鉄の3勝1敗となった第5戦に阿波野が先発する。阿波野は、6回2失点の好投を見せたものの、近鉄は1点しか奪えず敗北を喫し、近鉄は結局3連勝の後、4連敗という屈辱を味わう。

 その後、阿波野は、巨人時代の1996年に中継ぎとして日本シリーズに3試合登板する。そして、横浜時代の1998年には守護神佐々木主浩につなぐセットアッパーとして重要な役割を果たし、第6戦では0−0の8回表に先発の川村をリリーフし、2/3回を無失点に抑える。その裏に横浜は2点を先制して、9回は佐々木で逃げ切り、横浜は38年ぶりの日本一を手にする。
 阿波野は、この試合の勝利投手となり、セパ両リーグで日本シリーズ勝利を挙げた投手となった。




(2009年10月作成)

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