有藤 道世
 1946年12月、高知県生まれ。旧名:通世。右投右打。三塁手、外野手。背番号8。高知高校では3年夏に甲子園に出場する原動力となったが、甲子園では1回戦で死球退場してチームの全国制覇には貢献できなかった。
 近畿大学では三塁手として3度の優勝に貢献するなど、注目を集め、1969年にドラフト1位でロッテに入団する。
 そして、プロ1年目からレギュラーを獲得し、打率.285、21本塁打で堂々の新人王を獲得する。
 2年目の1970年には打率.306、25本塁打、80打点、27盗塁と走攻守にわたって素晴らしい成績を残し、ロッテのリーグ優勝に大きく貢献した。
 1972年には29本塁打、31盗塁を残し、1974年には25本塁打、20盗塁の活躍でロッテのリーグ優勝に貢献する。さらに、日本シリーズでは打率.429、2本塁打という驚異的な成績を残し、チームが中日を4勝2敗で破って日本一になる原動力となった。
 1977年には打率.329で念願の首位打者のタイトルを獲得。チームも後期優勝したが、プレーオフで阪急に敗れている。
 1979年にも打率.287、29本塁打、75打点という活躍を見せ、1980年には打率.309、22本塁打、27盗塁を残した。1980年、1981年とロッテの前期優勝に貢献している。
 1982年には5度目のシーズン3割以上を記録。
 1985年7月にはロッテの生え抜きとしては初の通算2000本安打を達成する。
 1986年限りで現役を引退すると、そのままロッテの監督に就任し、1987年から1989年まで3年間指揮をとった。

 大型打者ながら無駄のない打撃フォームで本塁打やヒットを量産し、盗塁やファインプレーも随所に見せた万能選手である。走攻守にわたってロッテの中心選手として長年活躍し、2度の優勝に大きく貢献しており、ロッテ一筋で働いた「ミスターロッテ」である。

通算成績(実働18年):打率.282、348本塁打、1061打点、2057安打、282盗塁。新人王(1969)首位打者1回(1977)ベストナイン10回(1969〜75・1977・1980〜81)ゴールデングラブ賞4回(1972〜1975)
数々の伝説

 @甲子園では悲劇

 1964年、高知高校のエース兼四番打者だった有藤は、夏の甲子園に出場する。南四国大会では尾崎正司(後のプロゴルファー尾崎将司)を擁する海南高校(徳島県)を破って優勝を果たしたのだ。
 しかし、甲子園では思わぬ悲劇が待ち受けていた。1回戦の秋田工業高校戦での初打席で、有藤は、相手投手の速球を顔面に受けてしまったのだ。担架に乗せられて退場した有藤は、そのまま病院へ運ばれることになる。
 ところが、高知高校は、有藤抜きでも勝ち進み、あろうことか全国制覇を成し遂げてしまうのである。有藤にとっては自らがヒーローになりそこねた悲劇の舞台が甲子園だった。


 A新人王

 近畿大学で3度の優勝を成し遂げた有藤は、1969年、ドラフト1位でロッテに入団する。
 有藤は、1年目からレギュラーを獲得し、いきなり打率.285、21本塁打、55打点という活躍を見せる。111三振と粗っぽさこそ目立ったものの、パンチ力は既に主力レベルに達しており、有藤は、東映で18勝を挙げた金田留広を振り切ってパリーグの新人王に選ばれる。それだけにとどまらず、有藤は、新人ながら三塁手としてベストナインにも選出される。その後、有藤は、デビューから7年連続で三塁手のベストナインを獲得することになり、パリーグ・ベストナインの三塁手は、有藤の代名詞となって行ったのである。


 Bプロ2年目に優勝

 有藤に2年目のジンクスは全く関係なかった。有藤は、2年目に入るとさらなる成長を見せ、打率.306、25本塁打、80打点という素晴らしい成績を残して、ロッテをリーグ優勝に導く。新人王を獲得した前年から打率、本塁打、打点ともに上乗せしてみせたのである。
 この年は、自慢の俊足も生かしてシーズン27盗塁を残し、前年の4盗塁から大きく飛躍させた。
 有藤とともにアルトマン、ロペス、山崎裕之らの主力打者と小山正明、木樽正明、成田文男といった投手陣も好調でロッテは、2位に10.5ゲームもの大差をつけた。
 日本シリーズは、巨人に敗れて日本一を逃したものの、この年の有藤の活躍は、ロッテを一気に強豪チームへ押し上げたのである。


 C20世紀最後の日本一

 1974年の有藤は、打率こそ.263と今ひとつだったものの、25本塁打、63打点を稼ぎ出し、ロッテを後期優勝に導き、そのままプレーオフも3連勝してリーグ優勝を果たした。
 この年は、ようやくにして巨人のV9が止まり、セリーグの覇者は中日だった。ロッテは、その中日との対戦を優位に進め、4勝2敗で日本一に輝く。
 その中で、獅子奮迅の働きをしたのが有藤だった。全6試合に出場して打率.429、2本塁打。第2戦では逆転のきっかけとなる本塁打を星野仙一から放ち、第4戦では試合を決定づける本塁打を放った。だが、シリーズMVPは、第6戦で日本一を決める安打を放った打率.400、2本塁打の広田澄男が選ばれた。
 そして、このリーグ優勝と日本一は、ロッテにとって結果的に20世紀最後の優勝となった。


 D首位打者

 1977年、有藤は、本塁打こそ16本と振るわなかったものの、打率を大きく伸ばし、シーズンを通して.329の高打率を残す。その活躍は、ロッテを後期優勝に導く原動力となった。それに加えて有藤は、混戦となった首位打者争いで島谷金ニ、加藤秀司、レロン・リーといった好打者を押しのけて念願のタイトルを獲得する。
 走攻守3拍子揃った好打者ながら同時代に名選手が揃っていたため、有藤が獲得した主要タイトルは、この年の首位打者のみとなっている。


 Eミスターロッテ

 有藤は、長年にわたってロッテの中軸打者であり続け、その貢献度の高さから「ミスターロッテ」と呼ばれることになった。有藤は、2度の優勝に貢献したこともさることながら、8年連続20本塁打以上を含む20本塁打以上11回、3割以上4回、ベストナイン10回、20盗塁以上6回、ゴールデングラブ賞4回など、残した実績を数えればきりがない。
 しかも、走攻守いずれにわたっても、超一流の実績を残しているのである。
 そして、集大成は、2000本安打達成だろう。15年連続で100安打以上を記録し、ロッテ一筋で2000本安打を達成した最初の選手となったのである。


 F伝説の10.19を演出

 1987年から3年間、ロッテの監督を務めた有藤は、落合博満放出直後のチームを任されたこともあって5位が最高だったが、1988年10月19日には一つの伝説を生み出す。
 この年、ロッテは、最下位をさまよっていた。しかし、そんなロッテに起死回生の舞台が用意されたのが10月19日だった。
 この日に対戦する近鉄は、ダブルヘッダーでロッテに2連勝すればリーグ優勝を決め、一つでも負けか引分けならばリーグ優勝を逃すという緊迫した状況にあった。そんな中、近鉄は、1試合目を4−3で勝ち、2試合目にすべてを賭けることになる。
 その2試合目は白熱した試合となり、9回表を終わった時点でスコアは4−4だった。当時、4時間を超えたら次の回には進まないという規定があったため、近鉄は時間との闘いも制しなければならなかった。
 9回裏、ロッテ監督の有藤が伝説を作る。ロッテの古川慎一選手が牽制死したときの判定に対し、有藤は、抗議に出たのだ。その時間は、実に9分間。この抗議は、結局近鉄が優勝を逃したこともあって、4時間という時間との闘いに熱中した近鉄ファンの反感を買ったが、有藤自身は、監督として当然のことをしたまで、と意に介さなかった。
 それは、一つの勝負もおろそかにしないミスターロッテ有藤の集大成だったのかもしれない。


 G伝説の背番号8

 有藤は、入団時から背番号8をつけていた。この背番号8は、ロッテの前身であった毎日の時代から続く伝説の背番号である。
 かつて、この背番号8をつけていた山内一弘は、本塁打王2回、打点王4回、首位打者1回、ベストナイン10回という記録を残して通算2271安打を放った大打者である。
 そんな背番号を託された有藤もまた、首位打者1回とベストナイン10回を記録して通算2057安打を放つ「ミスターロッテ」になった。
 その功績により、背番号8は有藤の引退後、ロッテオリオンズの永久欠番扱いとなる。しかし、川アを本拠地としていたロッテも、1992年千葉に本拠地を移して千葉ロッテマリーンズになり、背番号8の永久欠番は解除となった。
 その後、背番号8は、中日・西武で活躍した名選手平野謙らがつけたりしたが、2005年から今江敏晃がつけることになった。
 今江は、伝説の背番号のプレッシャーに押されることなく好成績を残し、2005年の日本シリーズでは8打席連続ヒットという日本記録を樹立し、シリーズMVPに輝いている。





(2005年11月作成)

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