荒巻 淳
 1926年2月、大分県生まれ。投手。左投左打。背番号11(毎日・大毎)→31(阪急)。大分経専から別府星野組に進み、エースとして活躍。「和製火の玉投手」として注目され、1949年の都市対抗野球で優勝。1950年、創設されたパリーグの毎日に入団。
 いきなり1年目から26勝8敗、防御率2.06の成績で最多勝・最優秀防御率・新人王のタイトルを獲得。毎日をパリーグの優勝、日本一へと導く。
 2年目には10勝に終わったが、4年目の1953年には17勝、その翌年には22勝12敗の好成績を残す。
 1956年には24勝16敗、防御率2.12という素晴らしい成績を残している。
 1958年、1959年も連続して17勝を記録し、1953年から1959年まで7年連続15勝以上というエースの働きを見せた。
 1960年にはリリーフ投手として大毎のリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも登板したが、大毎には4連敗を喫して日本一を逃した。
 1962年に阪急へ移籍して、その年限りで現役を引退。
 1985年、殿堂入り。

 小柄な体ながら全身のバネを生かした躍動感あふれるピッチングで剛速球と鋭いカーブを使い分け、若い頃は速球派、晩年は技巧派として活躍を見せた。投球だけでなく、守備と走塁にも長けた選手だった。

通算成績(実働13年):173勝107敗、防御率2.23(歴代8位)、1069奪三振。新人王(1950)最多勝(1950)最優秀防御率(1950)

数々の伝説


 @アマチュア時代、1試合23奪三振

 第二次世界大戦が終わって復興に向かい始めた1946年、戦時中は中止されていた野球大会が開催できるようになり、全国専門学校大会が行われた。荒巻は、大分経専のエースとして出場する。
 その大会で荒巻は、華々しい投球を見せる。剛速球を武器に1試合23奪三振を記録したのだ。
 荒巻は、この活躍で注目を集め、九州の社会人野球チーム別府星野組に入ることになる。


 A都市対抗野球優勝と闘魂伝説

 1949年、社会人野球チームの別府星野組は、全国都市対抗野球大会に出場し、見事に優勝を飾る。エースとして優勝に大きく貢献した荒巻は、大会の最優秀選手に贈られる橋戸賞を受けた。
 星野組にいた頃、荒巻は、ある試合で3塁打を放ち、3塁に滑り込んだ際、右肩を強打し、右鎖骨を骨折してしまった。普通ならプレーできる状態ではないのだが、荒巻は、何事もなかったようにランナーとしてプレーを続けた。しかし、さすがに骨折は隠せなかった。その回の攻撃が終わって、マウンドに立ち、1球投げた瞬間、あまりの痛みでその場にうずくまってしまったのである。チームメイトは、荒巻の野球に賭ける情熱に驚愕したという。


 B和製火の玉投手

 荒巻がアマチュア球界の剛速球投手として名をはせていた頃、大リーグではインディアンスのボブ・フェラー投手が剛速球投手として活躍していた。
 ボブ・フェラーは、通算266勝を記録した大投手。ある試合で剛速球を投げ込み、打者から2ストライクを奪うと、その打者は打つことをあきらめてベンチに帰ってしまったという伝説を残している。さらに、1946年の試合では107.9マイル(約174キロ)の剛速球を投げたという信じがたい伝説も持つ。
 荒巻は、まさに日本に現れたボブ・フェラーだった。アマチュア時代から既に「和製火の玉投手」という称号を与えられて注目を集めた。
 プロに入ってからも剛速球は、うなりをあげた。ある試合では、打者が地面ぎりぎりの低さだ、と思って見逃した球が、ホップして高めぎりぎりのストライクになった、という伝説を残している。


 Cパリーグ初の新人王

 1949年のシーズンオフ、日本のプロ野球は、大きな転換期にさしかかっていた。ついに大リーグのような2リーグ制への移行が現実味を帯びてきたからである。
 紆余曲折の末、1950年からセントラルリーグ・パシフィック(太平洋)リーグに分かれることになる。
 読売新聞のライバル会社毎日新聞は、新しく作るパリーグでセリーグの巨人に負けない戦力を整えようとした。
 そこで、社会人ナンバー1投手の呼び声の高い荒巻獲得に動いた。さらに、阪神から若林忠志、呉昌征、別当薫、土井垣武らの主力を引き抜いた毎日は、最強と呼ばれる陣容を整えることになる。
 荒巻は、新人ながら期待にたがわぬ活躍を見せ、シーズン26勝8敗、防御率2.06で最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得してしまう。もちろん、新人王にも選出された。
 毎日は、圧倒的な強さを誇って81勝34敗で創設1年目にしてパリーグのリーグ優勝、さらには日本一を果たすのである。


 D日本シリーズでランニングホームラン

 1950年、毎日は、第1回日本ワールドシリーズ(後の日本シリーズ)に出場する。名前自体が矛盾しているようにも見えるが、大リーグのワールドシリーズを理想として開催されたわけである。
 その第3戦、荒巻は、4回からリリーフとしてマウンドに上がる。ところが、荒巻がこの試合で魅せたのは打撃だった。7回表に4−4の同点に追いついた毎日は、ランナー1人を置いて荒巻に打席が回る。
 荒巻は、投球だけでなく、打撃・守備・走塁においても卓越したセンスを持ち合わせていた。
 荒巻は、その打席で松竹先発の真田重男から強烈なセンター返しを放った。センターの小鶴誠は、前に突っ込んで捕ろうとしたが捕れず、後ろに抜けていってしまう。荒巻は、自慢の俊足を生かして一気にホームを奪った。
 このランニング本塁打で毎日は勝ち越して6−4。しかし、荒巻は、9回裏に本業の投球で崩れ、松竹打線に打ち込まれて6−7のサヨナラ負けを喫している。


 E技巧派に転身

 1年目は、剛速球投手としてプロ野球界を席捲した荒巻も、酷使がたたったのか2年目からは球威に衰えを見せる。
 そのため、2年目は10勝8敗、3年目は7勝6敗と落ち込みを見せる。
 しかし、4年目にはリーグ最多の50試合登板をこなし、17勝を挙げた。球威の落ち込みをカバーするため、カーブを磨き、技巧派投手への転身を図ったのだった。
 この転身は見事なまでに成功する。翌1954年には22勝12敗の成績を残し、1959年まで7年連続15勝以上という記録を残したのである。


 F大リーグ選抜軍に完投勝利

 1953年、大リーグ選抜が来日し、毎日と対戦している。その試合に先発した荒巻は8回まで1失点に抑える好投を見せる。
 そのまま、スムーズに完投かと思われたが、大リーグも9回表に疲れの見え始めた荒巻をとらえ、マシューズの2ラン本塁打とロビンソンのソロ本塁打で4−4の同点とする。
 しかし、毎日も9回裏に執念で1点を奪い、劇的なサヨナラ勝ちを収める。荒巻は、完投で勝利投手となった。





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