新井 宏昌
 1952年4月、大阪府生まれ。右投左打。外野手。背番号6(南海)→9(近鉄)。旧名:鍾律。PL学園から法政大学に進み、1975年にドラフト2位で南海に入団。
 1年目から50試合に出場し、打率.303を残してレギュラーを獲得。
 1979年には打率.358を残したが、加藤英司が.364で首位打者になったため、2位に終わった。
 1982年も打率.315と高打率を残しながら、三冠王を獲得した落合博満の陰に隠れて打率2位となった。
 1986年に近鉄に移籍。
 1987年には打率.366、13本塁打、67打点、184安打の活躍で首位打者と最多安打のタイトルを獲得した。
 1989年には打率.302と活躍を見せ、仰木彬監督の元でリーグ優勝を果たした。
 1992年7月8日のオリックス戦で2000本安打を達成。その年限りで現役を引退。
 1994年にオリックスの打撃コーチに就任し、イチローを世に送り出した。

 いぶし銀の2番打者として安打を量産し、体のブレがない教科書通りのフォームを持ち、コンパクトなスイングをした打者である。年ごとに好不調の波はあったものの、理想的な2番打者と言われている。
 
 通算成績:打率.291、88本塁打、680打点。2038安打。300犠打。165盗塁。首位打者1回(1987)最多安打1回(1987)ベストナイン4回(1979・1982・1986・1987)ゴールデングラブ賞1回(1987)
 
数々の伝説


 @野村克也に見出される

 新井は、法政大学在学中、六大学野球で活躍を見せていた。南海の監督をしていた野村克也は、それを観戦して新井のセンスに目をつけ、獲得を希望したと言われている。
 新井は、南海からドラフト2位という高い評価を受けて入団。1年目から50試合に出場し、打率.303を残している。


 Aシーズン184安打

 新井は、近鉄に移籍して2年目の1987年、常に好調を維持し、シーズン打率.366で首位打者を獲得するとともに、130試合制では当時の日本記録となる184安打を記録した。
 この記録は1994年に新井の教え子であるイチローが210安打を放って、新井の記録を抜くとともに、140試合制で藤村富美男が残した191安打の記録をも大きく抜いて日本記録を打ち立てている。
 

 B近鉄でリーグ優勝

 1988年、伝説の10.19で惜しくも優勝を逃した近鉄は、1989年にも熾烈な優勝争いを繰り広げる。
 前年の王者西武とブルーサンダー打線のオリックスとの三つ巴の混戦となった。
 近鉄は、10月12日の対西武ダブルヘッダーでブライアントの4連発などが出て連勝し、その勢いでリーグ優勝を決めた。
 新井は、近鉄の2番打者として打率.302を残し、優勝に大きく貢献している。


 C2000本安打

 新井は、1992年7月8日のオリックス戦で史上26人目の2000本安打を達成する。その年限りで引退したものの、通算犠打も300を記録し、当時のパリーグ新記録を打ち立てた。また、新井は、本塁打100本に満たさずして2000本安打を達成した史上初の選手でもある。現役を通じて、新井の役割は、打球を転がしてランナーを進めたり、野手の間を抜くヒットを放つことにあったためである。
 主に2番打者として活躍した選手の中でこれほどまでの成績を残した選手は他におらず、史上最高の2番打者と言っても過言ではないだろう。


 Dイチローを世に出す

 1994年、新井がオリックスの打撃コーチに就任したとき、1軍と2軍を行き来している選手の中に鈴木一朗という選手がいた。
 新井は、当時、誰も注目していなかった鈴木の振り子打法に注目。彼を売り出すために、登録名を「イチロー」にすることを考え出したと言われている。
 新井は、仰木彬監督とともに従来の打線を組み替え、開幕からイチローをレギュラーとして固定した。その結果、イチローは何と打率.385、210安打という抜群の成績を残し、日本を代表する打者へと成長していくことになった。




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