青田 昇
 1924(大正13)年11月、兵庫県生まれ。右投右打。外野手。背番号32(巨人)→12(阪急)→23(巨人→大洋)→1(阪急)。滝川中学から1942年に17歳の若さで巨人入団。
 その年、規定打席未満ながら打率.355という好成績を残し、巨人の優勝に貢献した。
 1943年は打率.233ながら42打点を挙げて打点王のタイトルを獲得。巨人も優勝している。
 しかし、その年のシーズン終了後、戦争激化のため大刀洗陸軍航空隊へ入隊。
 戦後、阪急に入ってプロ野球復帰。1948年には巨人へ戻った。
 その年に打率.306、25本塁打、99打点、174安打という活躍で、首位打者と本塁打王、最多安打というタイトルを獲得した。
 1950年には.332、33本塁打、29盗塁という活躍をし、3割30本塁打30盗塁にあと一歩という成績を残した。
 1951年には32本塁打、105打点で本塁打王と打点王の2冠王となった。そのおかげで巨人は2位に18ゲーム差をつけて独走優勝し、日本シリーズでも南海に4勝1敗で快勝する。
 巨人は翌年にも日本シリーズ連覇を果たし、青田は、戦前戦後の巨人黄金時代の一翼を担った。
 1953年、洋松に移籍し、1954年に31本塁打で本塁打王、1956・1957年にも本塁打王を獲得している。
 しかし、1958年6月の中日戦で試合中に左足首を骨折。1959年、阪急に移籍するが、故障箇所は癒えず、その年限りで現役を引退した。
 引退後は阪神、阪急、巨人のコーチを歴任した。

 野武士のような野性味あふれる構えから球を巻き込むようにしてレフトポール際に運ぶのがうまく、大下弘と並ぶ戦後のホームランバッターであった。またパワーだけでなく、強肩・好守・俊足をも兼ね備えた選手だった。

 通算成績(実働16年):打率.278、265本塁打、1034打点、1827安打、155盗塁。首位打者1回(1948)本塁打王5回(1948・1951・1954・1956・1957)打点王2回(1943・1951)最多安打1回(1948)ベストナイン4回(1950・1951・1956・1957)


数々の伝説


 @転向

 青田は小学校時代は、柔道をやっていた。そのため、高等小学校でも柔道をしたかったのだが、あいにく柔道部は存在しなかった。
 青田は、仕方なく柔道から野球に転向。
 すると青田は、野球で大活躍し、特待生で名門滝川中学に進学することができた。
 しかし、青田は、滝川中学では控え投手だった。なぜなら、そこの先輩にはあの別所毅彦(後に巨人入団)がいたからである。
 青田は、野手としての素質に目をつけられ、外野手に転向させられる。
 それがプロ野球史に残る名バッターを生むことになったのである。
 

 A本塁打ゼロの打点王

 1943年、青田は、42打点で打点王になっている。しかし、本塁打は1本も打っていない。打率も.223である。
 同じ42打点で打点王を分け合った野口明も本塁打は0本である。
 これは、太平洋戦争の激化に伴い、試合数が84試合と少なかったのと、バットやボールが粗雑なものになっていたのが原因である。
 本塁打王ですら4本しか打っていない。
 また、戦前は、本塁打王というタイトルすらなく、ゴロやライナーを打つことが最も良い打撃とされていたという時代背景もあった。
 そのため、この年の2人の打点王だけが本塁打0本という珍しい記録を残してしまったのである。


 B大下弘に対抗して屈指のスラッガーに

 戦後、突如現れた天才アーティスト大下弘は、1946年に20本塁打を放って本塁打王を獲得した。これは、今までのシーズン本塁打記録を10本も塗り替える偉大な記録であった。
 これにより、プロ野球の人気は一気に火がつき、それまでゴロや強いライナーを打つことを志していた他の打者たちも、本塁打を狙うようになる。
 青田も、大下に何とか対抗しようと、バッティングを研究。1948年の春季キャンプでは毎晩旅館の地下室で川上哲治・千葉茂・三原脩監督とともにバットを振りながら打撃を語り合ったという。バットを体に巻きつけるような独特のフォームを編み出し、レフトスタンドポール際へ最短距離で運ぶ技術を身に付けた。
 それをマスターした1948年、青田は、後楽園球場で行われた10月22日の大陽戦の井筒投手から21号本塁打を打ち、大下が打ち立てたシーズン最多本塁打記録を塗り替えた。
 その年は、本塁打を25本まで伸ばし、本塁打王を獲得している。
 以後、4度の本塁打王に輝き、通算では5度も本塁打王となっている。


 C満塁サヨナラ本塁打を2度達成

 1947年、阪急にいた青田は、0−0の9回裏に走者3人を置いて満塁サヨナラ本塁打を放っている。
 そして、その7年後の1954年4月27日の洋松×巨人戦で、洋松にいた青田は、5−8とリードされた場面で打席に立つ。2死満塁である。
 青田は、笠原投手からセンターへ逆転満塁サヨナラ本塁打。9−8という大逆転勝利となった。
 満塁サヨナラ本塁打を2度記録しているのは、青田と広野功の2人だけである。


 Dじゃじゃ馬

 青田は、じゃじゃ馬という愛称をもっている。
 本塁打王5度を獲得したパワーもさることながら、元々投手をやっていたから強肩で、しかも通算155盗塁を記録した俊足でもあったからである。打法も、豪快にレフト線に引っ張る打法を得意とし、「野武士」という別の異名も残っている。
 太平洋戦争の激化によって野球が統制されると、自ら陸軍航空隊に入り、これまた自ら特攻隊に志願するという情熱的な闘争心の持ち主でもあった。だが、特攻隊として旅立つ前に終戦になったことがプロ野球界にとって幸いした。
 また、大下弘や別所毅彦と毎晩、銀座で遊び回り「銀座の三悪人」と呼ばれた。
 何事に対しても豪放であり、それらが「じゃじゃ馬」という愛称に集約されているようである。


 E壮絶な首位打者争い

 1948年の首位打者争いは1厘1毛を争う好勝負となった。
 小鶴誠が打率.305で全日程を終えて1位となっており、1試合残して巨人の青田が.304、南海の山本(後の鶴岡)一人が.303であった。しかも最終戦は巨人×南海戦という直接対決であった。
 青田は第一打席は凡退したが、第二打席はヒット。逆に山本は第一打席は二塁打で第二打席は凡退。
 第三打席は青田がセーフティーバントを三塁を守る山本の前に放ち、この時点で小鶴を抜いて.306でトップに踊り出た。
 山本も第三打席は、右中間に安打を放って食らいついた。
 しかし、山本の第四打席は敬遠気味の四球。
 青田は、第四打席に立つことなく、ベンチへ退いて首位打者が確定した。
 最終結果は青田が.3057、小鶴が.3053、山本が.3051であった。


 F金田の野望を打ち砕く

 1958年、国鉄の金田正一は、開幕から破竹の9連勝と絶好調だった。この年は、開幕戦で巨人のルーキー長嶋茂雄から4打席4三振にきってとり、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手3冠王を獲得する年である。
 4月27日の大洋×国鉄戦は金田が開幕10連勝をかけての登板となったが、大洋にいた青田は、金田から先制2ランホームランを放つ。
 国鉄も、佐藤孝夫の同点2ランで追いつき、そのまま延長に入った。
 11回表に大洋は、走者を二塁に置いて青田が打席に立った。青田は、金田の直球を上手く流し打ち、ライト前の勝ち越しタイムリーとなった。
 11回裏の国鉄の攻撃は0点に終わり、3−2で大洋の勝利。青田は、試合の全打点を一人で叩き出し、金田の連勝は9でストップした。
 試合後、悔しさを隠せない金田は、取材に来た記者に水をかけ、あの政治家吉田茂と比較されて、大きな話題となったそうである。
 



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