1933年3月、アメリカ生まれ。右投左打。外野手。背番号7(東京・ロッテ)→44(阪神)。テネシー農工大から大リーグのカブス、カージナルス、メッツ、カブスと渡り歩いて活躍。9年間で通算832安打、101本塁打を残し、大リーグで2度のオールスターに出場を果たした。1968年、日本の東京オリオンズ(後のロッテ)に入団。
いきなり1年目から打率.320、34本塁打、100打点という好成績で大リーガーとしての実力を見せつける。170安打でその年の最多安打、100打点で打点王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。
翌年こそやや低迷したものの、3年目の1970年には打率.319、30本塁打で2度目のベストナインに選ばれる。
1971年には打率.320、39本塁打、103打点と自己最高の本塁打数を残した。
1972年、1973年にも打率3割以上を記録して4年連続3割以上を残した。
1974年には直腸がんに苦しみながらも21本塁打を放って7年連続20本塁打以上を記録。規定打席には届かなかったものの、打率.351という驚異的な数字を残してロッテのリーグ優勝に貢献した。
シーズン終盤に帰国して受けた手術は成功したが、ロッテからは非情な解雇通告を受ける。しかし、見事病気を克服し、1975年には阪神にテスト入団を果たす。打率.274、12本塁打とまずまずの成績を残したが、その年限りで現役を引退した。
身長197センチの巨漢選手ながらミートする技術に優れ、打率も本塁打も稼げる好打者として、毎年安定した成績を残し続けた。また、真面目な練習や生活態度で誰からも愛され、ロッテの優勝にも貢献しており、ロッテ史上最高の外国人選手との呼び声も高い。
通算成績(日本8年):打率.309、205本塁打、656打点、985安打。最多安打1回(1968)打点王1回(1968)ベストナイン3回(1968、1970〜1971)
(大リーグ9年):打率.269、101本塁打、403打点、832安打。
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