秋山 幸二 
  1962(昭和37)年4月、熊本県生まれ。外野手。右投右打。背番号24(西武)→1(西武・ダイエー)。八代高から1981(昭和56)年西武ライオンズにドラフト外で入団する。
 1年目は3試合の出場で、2年目と3年目は1軍での出場はなかったが、入団5年目の1985年に三塁手としてレギュラーを獲得すると、レフトへの美しい弾道の本塁打を持ち味にして40本塁打を放って球界を代表するホームランバッターとなる。
 1986年には41本塁打を放ち、外野にコンバートされた1987年には43本塁打を放って本塁打王を獲得する。1989年には打率.301、31本塁打、31盗塁を記録して3割・30本塁打・30盗塁を達成。7月にはサイクル安打も達成する。翌年には35本塁打、51盗塁で盗塁王を獲得する。
 1991年には日本シリーズで4本塁打を放ってシリーズMVPを獲得し、正力賞も受賞する。1993年8月には2試合連続満塁本塁打も記録する。
 スラッガーでありながら守備、走塁にも優れた万能の活躍ぶりで、メジャーに最も近い打者との異名をとり、西武では8回のリーグ優勝、6回の日本一に大きく貢献する。
 1994年にトレードでダイエーに移籍して連続30本塁打以上の記録は9年で途切れるが、バッティングスタイルを変え、中距離ヒッターとして活躍する。1996年には打率.300でリーグ5位に食い込む。
 1999・2000年には、リーグ優勝に貢献する。1999年には日本一に大きく貢献し、日本シリーズMVPに輝く。
 2000年8月には通算2000本安打を達成する。
 2002年に惜しまれながら現役を引退。
 2009年からソフトバンク監督を務め、2010年にはリーグ優勝、2011年には完全優勝での日本一を達成した。
 2014年1月、野球殿堂入り。

 「鉄人リスト」と呼ばれる強靭な腕力でレフトへ豪快な打球を飛ばし、器械体操で培った敏捷な運動神経で、完璧な守備と走塁を見せてファンを魅了した。清原とともに打線の中核として長年活躍し、西武の黄金時代を作り上げた。

 通算成績(実働20年):打率.270、437本塁打、1312打点、303盗塁、2157安打。
 本塁打王1回(1987) 盗塁王1回(1991) 勝利打点王2回(1985、1987) 日本シリーズMVP2回(1991、1999) ベストナイン8回 ゴールデングラブ賞11回 正力賞1回(1991)

数々の伝説



@投手として伊東と対戦

 秋山は、八代高時代は投手だった。1980年の夏の甲子園を目指す熊本県大会の決勝で秋山は、熊本工業と対戦。
 熊本工業には、後に秋山のチームメイトとして西武の守備の要となり、黄金時代を支える伊東勤捕手がいた。
 投手秋山は、伊東に手痛い逆転2ランを浴びて甲子園出場を逃している。


A背番号1

 西武には、根本陸夫管理部長の説得によりドラフト外で入団したため、背番号は71。このときのドラフト1位は、既にスターだった石毛宏典だった。
 しかし、素質を認められた翌年には24番。
 3年目には素質を開花させようとする根本陸夫管理部長によってアメリカ留学を経験する。
 そして、西武の中心打者となった1987年にはようやく1番となる。
 恩師の根本監督がいるダイエーにトレードで移ったときも背番号は1番を用意されていた。ちなみに巨人で1番を付けていた王監督は89番をつけている。


Bバク転を生む天性の運動神経

 秋山の父は、走り幅跳び選手、母は砲丸投げ選手という陸上一家であった。秋山自身も、子供時代からの薪割りで体力を培い、高校では器械体操もやっていたという優れた運動神経の持ち主だった。体育教師になるのが夢だったといわれている。
 1986年の日本シリーズは引き分けを含んで第8戦までもつれこむ激戦となった。
 5回を終わった時点でスコアは2−0で広島が西武をリード。広島は、金石が好投しており、西武は次第に敗色が濃くなっていた。
 しかし、6回表、秋山は、金石の直球を左翼席に同点本塁打を放つ。
 秋山は、ダイヤモンドを一周してきた秋山は三塁の近藤コーチに一言告げると、助走をつけてホームベース手前でバク転。見事にホームベースに着地を決めた。
 このシリーズ前から秋山は、バク転をやることを決めており、近藤昭仁コーチに「劇的な本塁打を打ったら、本塁でバク転をやります」と話していたという。
 試合は秋山の同点本塁打によって流れが西武に移り、3−2で逆転勝ちして日本一になっている。
 これ以降にも、秋山は、重要な場面で本塁打を放つと、バク転をして見せている。


C最もメジャーリーガーに近い男

 秋山は、鉄壁の守備と鮮やかな走塁、低い弾道でもスタンドまで持っていける長打力で、西武時代は毎年のように出場していた日米野球で、メジャーの監督・選手から絶賛された。
 メジャーで活躍できる選手は誰か、という質問にメジャー関係者の誰もが秋山の名前を挙げることから「最もメジャーに近い男」と呼ばれるようになった。


D敬遠の球で盗塁

 1990年、4月13日、秋山はダイエー戦の五回二死、第3打席を四球で出塁すると、次の清原の打席の2球目にダイエーの村田投手のモーションを盗んで2盗に成功。
 二死二塁となったダイエーは、清原を歩かせて敬遠策をとり、塁を埋めようとする。
 捕手の内田は、立ちあがり、村田が大きく外角に外した球で秋山は3盗を試み、見事に成功する。
 この年、秋山は自己最高の51盗塁を残し、盗塁王に輝いている。
 

F通算三振1712個

 秋山は、通算三振数1712個で引退した。
 これは、衣笠祥雄の1587個を塗り替え、通算三振歴代1位の記録だった。(清原がその後、秋山の記録を更新)
 これは、指摘されているように外角低めへ逃げていくスライダー・カーブに弱い、という決定的な弱点を持っているためである。
 それにも関わらず、秋山は、9年連続30本塁打以上、3割以上2回、2000本安打を達成している。
 これほどまで、よく分かる弱点を持っていて偉大な成績を残しているのは秋山だけではないか、と思われる。


G復活のMVP

 1991年、西武の秋山はオールスター戦で自打球を右目に当てて意識を失うほどの怪我をする。一時は視力が0.2まで落ち、野球生命を心配されたが、驚異的に復活を果たし、その年の日本シリーズに出場。
 4本塁打の活躍を見せてMVPを獲得している。
 さらに1999年9月、ダイエーの秋山は、西武のエース松坂の剛速球を左頬に受け、頬を骨折する大怪我を負う。
 それでも、日本シリーズには間に合わせ、2本塁打を放つと同時に、シリーズの行方を決めたと言われる久慈のライトフェンスのライン際の難しい打球を1メートルジャンプしてのスーパーキャッチを見せた。
 これにより自身2度目のシリーズMVPを獲得。2チームで日本シリーズのMVPに輝いたのは史上初の快挙である。


H2000試合目で2000本安打

 2000年8月18日の対ロッテ戦の5回、ロッテのエース黒木の直球を三遊間に運び、ヒットとなった。
 これが史上28人目の通算2000本安打達成である。
 プロ野球生活20年をかけて作り上げた記録であるが、この試合は、秋山にとって記念すべきプロ通算2000試合目であった。
 2000年に通算2000試合目で通算2000本安打という不思議な数字の重なりとなり、マスコミは大きく取り上げた。


I1イニング6本塁打の5本目
 
 1986年8月6日、西武×近鉄戦が行われ、8回の西武の攻撃が始まるまでに7−2で近鉄がリードを奪っていた。
 8回の西武の攻撃では、まず西岡が石本投手からソロ本塁打。そして、新人だった清原が2ラン本塁打で2点差に詰め寄った。
 さらに石毛とブコビッチも本塁打で続いて簡単に同点に追いつく。
 近鉄は石本投手をあきらめるが、それでも西武の勢いはとどまることを知らず、秋山が逆転となる本塁打、とどめは太田が突き放す本塁打を放って1イニング6本塁打という大記録が作られた。




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