赤星 憲広
 1976年4月、愛知県生まれ。右投左打。外野手。背番号53。大府高校では内野手として甲子園に2度出場するも、いずれも初戦で敗退する。亜細亜大学で外野手に転向して4年秋に明治神宮大会優勝を果たす。その後、社会人野球のJR東日本へ進んで、2000年のシドニー五輪に出場を果たし、2001年にドラフト4位で阪神へ入団する。
 プロ1年目からレギュラーとして打率.292を記録し、39盗塁で盗塁王を獲得し、新人王とゴールデングラブ賞にも選出される。
 2年目は4月18日に自打球で右脛骨を骨折して78試合出場にとどまり、規定打席に大きく不足するものの、26盗塁で2年連続盗塁王を獲得する。
 そして、3年目の2003年には打率.312、61盗塁を決めて3年連続盗塁王を獲得するとともに阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献する。この年は、初のベストナインにも輝き、守備率10割の日本タイ記録も樹立してゴールデングラブ賞も受賞する。
 2004年には打率.300を記録し、自己最高の64盗塁を決めて4年連続盗塁王を獲得する。
 2005年には打率.316、190安打を記録するとともに、60盗塁で5年連続盗塁王を獲得し、リーグ優勝の原動力となる。また、1試合を欠場しながら、シーズン689打席の日本新記録を樹立する。
 2006年には盗塁王こそ逃すものの35盗塁を決め、2007年には4度目の打率3割を記録する。
 2008年には自己最高の打率.317を記録し、41盗塁を決める。6度目のゴールデングラブ賞にも輝く。
 2009年には31盗塁を決めたものの、首の故障で戦線離脱し、シーズンオフに現役引退を発表した。

 小柄な体ながら、バットを短く持って単打を量産しては、卓越した盗塁技術で5年連続盗塁王を獲得し、赤い手袋とリストバンドをトレードマークにしてレッドスターの異名をとった。阪神の18年ぶりの優勝を含む2度のリーグ優勝の原動力となったが、故障による早すぎる引退は惜しまれる。

通算成績(実働9年)打率.295、3本塁打、215打点、381盗塁、1276安打。盗塁王5回(2001〜2005)新人王(2001)ベストナイン2回(2003・2005)ゴールデングラブ賞6回(2001・2003〜2006・2008)

数々の伝説


 @甲子園のセンバツ大会に2度出場、シドニー五輪にも出場

 中学時代に左打者に転向した赤星は、大府高校時代に内野手のレギュラーとして1993年・1994年の春の甲子園に出場する。
 しかし、双方ともに守備でタイムリーエラーを犯してしまい、1993年は駒大岩見沢に2−3で初戦敗退し、1994年は横浜高校に3−10で初戦敗退している。
 その後、亜細亜大学では外野手に転向し、4年間で歴代3位となる通算45盗塁を決める。4年秋の明治神宮大会では優勝に大きく貢献するものの、体の小ささと非力を理由にプロからは声がかからず、社会人野球のJR東日本に進む。
 そして、2000年、赤星は、シドニー五輪の日本代表選手に選ばれ、代走として出場を果たすが、日本代表の結果は4位となり、メダルを逃している。


 A野村克也に評価されて阪神入団

 赤星は、2000年、シドニー五輪の強化選手として阪神のキャンプに参加する。赤星の打撃は、ほとんど前に飛ばないという状態だったが、自慢の俊足は、プロ選手が揃う中でも卓越していた。
 そして、その赤星の足に目を付けたのが、当時、阪神の監督を務めていた野村克也である。野村は、赤星の足に惚れこみ、スカウト陣が全く赤星を評価していなかったのを覆してまで赤星のドラフト指名を主張する。野村が球団の反対を押し切ったことで、赤星は、ドラフト4位で阪神に入団する。
 しかし、評価していたのは野村だけで、球団の評価はあまりにも低かった。赤星は、2か26の背番号を希望するも、与えられたのは53であり、これには赤星も、「俺はゴミか」とつぶやいたという伝説が残る。


 B入団1年目から盗塁王獲得で新人王

 ドラフト4位で入団した赤星だったが、野村監督が打撃を徹底指導し、また、赤星の武器である足を大いに認めていたことから、プロ1年目からレギュラー扱いで試合に出場する。
 そして、野村は、機動力を重視して若手の俊足選手7人を「F1セブン」と命名して売り出そうとする。赤星は、その1号車として最も期待を背負う存在となった。
 赤星は、自らの俊足を生かして39盗塁を決めて盗塁王になるとともに、課題の打撃でも128安打を放って打率.292を記録し、新人王とゴールデングラブ賞も受賞する。
 阪神からの盗塁王は、1956年の吉田義男以来、実に45年ぶりの快挙で、入団1年目で盗塁王と新人王を獲得したのは、プロ野球史上初の大記録だった。


 C阪神の18年ぶりの優勝に貢献

 2003年の阪神は、星野仙一監督が就任2年目にして伊良部秀輝と金本知憲を獲得するという大型補強を行い、前半戦から圧倒的な強さを発揮して独走する。
 赤星も、走攻守の要として安打を量産し、センターで完璧な守備を見せ、走っても9月3日の広島戦では球団新記録の52盗塁を達成するなど、文句のつけようのない活躍を見せる。
 そして、打率.312、61盗塁の好成績を残して、阪神の18年ぶりのリーグ優勝の立役者となった。優勝決定試合となった9月15日の広島戦では、2−2で迎えた9回裏1死満塁のチャンスで打席に入り、鶴田泰投手からライトオーバーのサヨナラ安打を放ってマジック1とした。この一打は、その日のヤクルトの敗戦を待ってリーグ優勝が決まるという事実上の優勝決定打だった。
 また、2003年の赤星は、シーズンを通して無失策を記録し、シーズン無失策の日本タイ記録を達成している。


 D単打165本

 2005年、赤星は、打撃が好調で、4月には月間MVPを獲得する活躍を見せ、その後も好調に安打を積み重ねて、シーズン終了時には打率.316を記録する。
 シーズン安打数も、190本に達し、本塁打が1本だったのに対して、3塁打はリーグ最多の9本、単打も165本に達していた。この165本は、達成時にはイチローを抜く日本新記録だった。
 しかし、赤星の記録達成後、同じ年に青木宣親が単打169本を記録して日本記録を更新し、赤星の記録は一瞬で終わった。
 また、イチローは、大リーグ移籍後の2004年、シーズン単打225本という驚異的な単打数を記録し、世界新記録を樹立している。


 Eシーズン打席数の日本記録を樹立

 2005年、阪神は、リーグ優勝を果たし、赤星も打率.316を残すとともに、60盗塁で5年連続盗塁王を獲得する。
 そして、赤星は、この年、146試合中145試合に出場し、シーズン打席689を記録する。これは、それまで広瀬叔功が持っていた676打席を大きく塗り替える日本新記録だった。
 この記録は、チームの打撃力が高く、自らの出塁数も多くならないと達成できない記録だけに、リーグ優勝を果たしたチームへの貢献度の高さがうかがえる。


 F3年連続60盗塁

 赤星の盗塁数は、プロ3年目の2003年にはシーズン61盗塁を記録し、セリーグでは18年ぶりの60盗塁以上を達成する。この年から赤星は、足の不自由なファンとの交流を機会に、盗塁数に応じて車椅子を寄贈する活動を開始する。
 そして、2004年にはその記録をさらに伸ばして64盗塁を記録し、2005年にも60盗塁を記録して3年連続60盗塁以上という快記録を達成する。
 3年連続60盗塁以上を達成したのは、福本豊以来、史上2人目の快挙だった。しかも、その間の成功率は、実に.845を誇っており、これは、福本豊の全盛期の成功率をもしのぐ成績である。


 G5年連続盗塁王

 プロ1年目の2001年に39盗塁を決めて盗塁王に輝いた赤星は、5年目の2005年に60盗塁を決めて盗塁王になるまで5年連続盗塁王のタイトルを獲得する。
 5年連続盗塁王は、広瀬叔功・福本豊について史上3人目の快挙である。
 赤星は、突然の引退により、通算盗塁数381にとどまったが、盗塁成功率.812は、日本プロ野球の通算盗塁上位50人の中で広瀬叔功、松井稼頭央に次いで歴代3位である。


 H首の故障

 2007年5月4日 赤星は、甲子園での広島戦の守備でダイビングキャッチした際、持病の頸椎椎間板ヘルニアを悪化させる。そこから、赤星は、首から左腕にかけてしびれなど、現役を通じて故障に苦しむことになる。さらに9月23日には死球を腰に受けて腰椎骨折の重傷を負うなど、満身創痍の中でプレーし続けることになる。
 それでも、赤星は、2007年に打率.300、24盗塁、2008年には打率.317、41盗塁と、盗塁数こそ減ったものの、打撃面でカバーして余りある成績を残し続ける。
 そこには、体が小さくても全力でプレーすることによって、体の小さな子供たちに夢を与えるという使命感が赤星の体を動かしていたのである。


 I衝撃の電撃引退

 2009年9月12日、甲子園での横浜戦に赤星は、1番センターで先発出場し、1打席目に安打を放つ。
 そして、0−0で迎えた3回表、阪神は、2死満塁のピンチを招き、横浜の内川聖一が放った痛烈な打球は右中間へ飛んだ。赤星は、俊足を飛ばして決死のダイビングキャッチを試みたが、打球は無情にもそのわずか先を抜けていく走者一掃の3塁打となった。
 飛び込んだ赤星は、その衝撃で古傷の首を痛めて、歩くことができず、トレーナーに背負われて退場する。
 そして、これが赤星の現役最後のプレーとなった。
 その後、中心性脊髄損傷の診断が下った赤星は、命への危険がある重い故障で、もはや全力でプレーできないことを理由に12月9日、記者会見を開いて電撃引退を発表する。

 赤星は、2005年6月12日の日本ハム戦で、江尻慎太郎から右越え本塁打を放って以来、2528打席本塁打無しという日本記録を更新中で、さらに継続できることが確実だったが、引退で終止符を打った。





(2010年5月作成)

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