赤堀 元之
 1970年4月、静岡県生まれ。投手。右投右打。背番号40→19。静岡高校では2年時にエースとして夏の甲子園に出場したが、初戦敗退に終わる。1989年にドラフト4位で近鉄に入団する。
 1年目から9試合に登板すると、2年目は、21試合に登板して4勝0敗1セーブ、防御率2.98の成績を残す。
 3年目の1991年には6月の試合中に右手甲骨折により、戦線離脱したものの、1勝3敗9セーブを残す。
 1992年には50試合に登板し、ロングリリーフをこなす守護神として11勝4敗22セーブ、32セーブポイント、防御率1.80で、最優秀救援投手、最優秀防御率のタイトルを獲得し、最多セーブも記録する。
 1993年には6勝6敗26セーブ、32セーブポイント、防御率1.52で2年連続最優秀救援投手と最多セーブを残す。
 1994年にも9勝4敗24セーブ、33セーブポイント、防御率1.82で3年連続最優秀救援投手と最多セーブを残す。
 1995年には、不振に陥り、1勝8敗13セーブに終わったものの、1996年には9勝4敗21セーブ、30セーブポイント、防御率2.09で4度目の最優秀救援投手に輝く。
 さらに1997年には10勝7敗23セーブ、33セーブポイント、防御率3.05で5度目の最優秀救援投手に輝く。
 1998年は、先発転向を図ったが、右肩の故障で出遅れ、ロングリリーフと先発で3勝3敗の成績を残す。
 1999年は、先発で2勝を挙げたが、その後、右肘靭帯断裂の大怪我を負い、手術で1年以上を棒に振る。
 その後、右肘は回復したものの、2001年以降は右肩も故障し、2001年に1勝、2002年に1勝に終わる。
 2004年、0勝に終わり、近鉄球団の消滅とともに現役を引退した。

 低めに伸びる快速球と2種類のスライダーを中心に組み立てて打者を抑え込み、近鉄の守護神として5度の最優秀救援投手に輝く活躍を見せた。全盛期は、ロングリリーフもこなしながら3年連続防御率1点台という驚異の成績も残した。

通算成績(実働16年)58勝46敗、139セーブ、191セーブポイント、防御率2.88。最優秀救援投手5回(1992〜1994・1996〜1997)最優秀防御率1回(1992)

数々の伝説


 @静岡高校で甲子園出場

 赤堀は、中学時代に静岡県大会で優勝投手となり、県内の強豪校である静岡高校に入る。静岡高校でも赤堀は、早くから頭角を現し、2年生でエースとして夏の甲子園に出場する。
 しかし、赤堀は、初戦で関西高校(岡山)に打ち込まれ、静岡高校は、2−6で敗れる。
 3年生の夏は、県大会初戦で味方のエラーで敗退したものの、近鉄スカウトの目に留まり、ドラフト4位で指名される。


 A投手に延長戦で決勝本塁打を浴びる

 プロ入りした赤堀は、権藤博投手コーチの指導の下、球威や球速が増し、2年目には4勝0敗1セーブの成績を挙げる活躍を見せる。
 1991年には吉井とともにチームのクローザーを務めたが、5月29日のオリックス戦では伝説の本塁打を浴びる。この試合で赤堀は、8回表からリリーフのマウンドに上がっていたが、逆転3ラン本塁打を浴びていた。そして、9回裏に近鉄が5−5の同点としたことで、延長戦に突入する。
 そして、延長11回表2死、指名打者枠を守備固めとして使ってしまっていたオリックスは、シュルジー投手を打席に送る。シュルジーは、日本でのプロ初打席だったが、4イニング目に入っていた赤堀は、初球のスライダーが甘く入ってしまい、シュルジーにレフトスタンドの照明に当てる特大ソロ本塁打を打たれてしまう。これは、パリーグがDH制を採用して以降初の投手による本塁打だった。また、シュルジーは、日本で打席に立ったのがこの試合だけだったため、打率10割の通算成績が残った。


 B最優秀防御率と最優秀救援投手の同時タイトル

 赤堀がクローザーに抜擢されたのは、1992年当時、クローザーとして活躍していた吉井理人が故障してしまったためである。しかし、赤堀は、吉井の故障の穴を埋めて余りある活躍を見せて、吉井を押しのけてクローザーに定着することになる。
 そして、投球回数も、先発で2試合投げれば、規定投球回に到達する状況になったため、10月5日のダイエー戦に先発でプロ初完封勝利を上げると、10月11日のダイエー戦でも6回3失点で規定投球回の130回に到達し、11勝4敗22セーブ、32セーブポイント、防御率1.80という驚異的な働きぶりで最優秀防御率と最優秀救援投手、最多セーブに輝いた。
 21世紀に入ると、クローザーは、1回限定という起用法が主流になったため、先発のタイトルとクローザーのタイトル同時受賞は、赤堀以降、出ていない。


 C3年連続最優秀救援投手

 赤堀は、1992年にクローザーとして11勝4敗22セーブ、32セーブポイント、防御率1.80で最優秀救援投手に輝くと、1993年にも6勝6敗26セーブ、32セーブポイント、防御率1.52で2年連続最優秀救援投手に輝く。
 さらに、1994年にも9勝4敗24セーブ、33セーブポイント、防御率1.82で3年連続最優秀救援投手に輝く。当時のクローザーは、1試合で3回、4回とロングリリーフで投げることも珍しくなく、長期間にわたって好成績を挙げることは困難だった。しかし、赤堀は、1992年に130回、1993年に82回2/3、1994年に94回と酷使されながらも、3年連続で安定した成績を残した。3年連続最優秀救援投手は、江夏豊に次ぐ史上2人目の快挙だった。


 D5度の最優秀救援投手

 赤堀は、1992年から1994年まで最優秀救援投手に輝いた後、1996年から2年連続で最優秀救援投手に輝く。1996年に30セーブポイント、1997年に33セーブポイントを記録する。
 通算5度の最優秀救援投手に輝いたのは、江夏豊や佐々木主浩と並んで、プロ野球記録である。
 赤堀は、近鉄の守護神として圧倒的な成績を残しながらも、シーズンセーブの最多は26である。当時、クローザーの役割は9回限定ではなく、場合によっては7回から登板するロングリリーフが多かったためである。そのため、1997年には57試合で97回1/3を投げ、23セーブを挙げながら、リリーフで10勝を挙げている。まさに、1990年代においてパリーグ最高のクローザーだった。


 E開幕戦で逆転満塁サヨナラ本塁打被弾

 1994年4月9日、パリーグの開幕戦で近鉄は、エース野茂英雄が1回から西武打線を完璧に抑え込み、8回裏まで無安打無失点の投球を続ける。
 9回表に先制の3点を挙げて3−0とリードした近鉄は、野茂のノーヒットノーランに期待をかけた。しかし、さすがの野茂も、硬くなったのか、清原和博に2塁打を浴びてノーヒットノーランを逃す。野茂は、ここから四球とエラーで一死満塁のピンチを背負ってしまい、近鉄は、リリーフエースの赤堀への交代を決断する。
 そこで、打席に入ったのは、伊東勤だった。急遽、登板となった赤堀は、コントロールが乱れて内角高めに入った8球目の直球を伊東に完璧に弾き返され、打球はレフトスタンドへ吸い込まれていった。スコアは一気に3−4となる逆転サヨナラ本塁打だった。
 あまりにも劇的な本塁打で敗戦投手となった赤堀だが、その後の試合では立ち直り、33セーブポイントで最優秀救援投手に輝いている。


 F先発転向で故障

 近鉄の守護神として不動の地位を築いた赤堀だったが、赤堀自身は、先発投手として活躍する夢を抱いていた。そのため、オフには近鉄球団に先発転向を求めていたが、近鉄は、チーム事情から赤堀の先発転向はなかなか叶わなかった。
 しかし、1998年、剛速球を武器にする大塚晶文がチーム内で台頭してきたことで、ついに球団は、赤堀の先発転向を認める。
 先発転向に意気込んだ赤堀だったが、開幕前から右肩故障で出遅れ、おもにロングリリーフをしながら、先発もこなすという形で3勝3敗の成績に終わる。
 翌1999年には、順調に先発で2勝を挙げながらも、右肘靭帯断裂の大怪我を負い、手術でシーズンを棒に振る。その後は、右肩と右肘の度重なる故障に悩まされ、先発では成功を収めることができず、現役引退することになった。





(2013年2月作成)

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