1986年以降に活躍したプレーヤー

私が見知っているプレーヤー(1980年代後半以降に現役だったプロ野球選手)

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プレーヤー名 解  説
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アカホシ ノリヒロ
赤星憲広
ミートに徹した打法で出塁しては、盗塁を決めてチャンスを広げるプレーで、最も他球団から警戒される選手だった。阪神が18年ぶりの優勝は、彼なくしては成しえなかった。
常に全力プレーを貫いた結果、現役生活は太く短いものとなったが、野球ファンに残した記憶は、強烈な印象を持ち、決して忘れられることはないはずである。
アカホリ モトユキ
赤堀元之
近鉄最高のリリーフエースと言えばこの投手である。全盛期には、出てくればほとんど打たれる気がしなかったほどで、平気で3イニング投げるタフさも持ち合わせていた。もし先発に転向しなければ、リリーフでどこまで記録を伸ばしていたのだろうか。
アキヤマ コウジ
秋山幸二
このプレーヤーの高く舞い上がる滞空時間の長いホームランは、日本シリーズなどでよく見させてもらった。あっさり三振しても、別の打席ではあっさり打ったりするところがよかった。
今では伝説となっている何度か見せたバク転は、いつも劇的な本塁打の後だった。私の記憶に最も焼き付いているバク転した後に後転を見せたものは、単にバク転の着地に失敗しただけだったらしい。
アライ ヒロマサ
新井宏昌
イチローの師匠としての評価が高い新井だが、自らもいぶし銀の大打者だった。教科書通りの打ち方と言われていたが、ヒット打ちの名手であることはイチローとの共通点である。
あのころのパリーグはデーゲームが多かったせいか、目の下を黒く塗って鋭くヒットを飛ばすイメージだけが残っている。あまり知られていないが、通算犠打300のパリーグ記録を持つ隠れた犠打の名手でもあった。
アラキ マサヒロ
荒木雅博
落合博満が「お前は打たなくてもいいんだ」とまで言った鉄壁の守備力は芸術品である。井端との二遊間はいずれ伝説になるだろう。守備、走塁に続いて打撃も開花し、落合政権下で唯一規定打席に到達し続けた。中日の黄金時代を築きあげ、攻守の要になっている。
アワノ ヒデユキ
阿波野秀幸
阿波野と言えば、10.19で決勝本塁打を浴びて膝まづいた悲劇の投手というイメージが強いが、翌年はしっかり19勝して優勝の原動力となった近鉄のエースである。
野茂の入団後、球威の衰えもあって影が薄れてしまったが、まぎれもなく近鉄で最も記憶に残る名投手である。
イグチ タダヒト
井口資仁
旧名:忠仁。アマチュア時代から大学リーグ三冠王、アトランタ五輪銀メダルとエリート街道を歩み続け、プロ入り後もダイエーを常勝軍団にして日本一になった。メジャーで世界一に貢献し、ロッテ復帰後も、中心選手として史上最大の下剋上で日本一を達成。走攻守が高いレベルで揃ったエリート選手である。
イケヤマ タカヒロ
池山隆寛
「ぶんぶん丸」と名付けられ、豪快な三振とホームランでヤクルトの黄金時代を作り上げたが、ショートの華麗な守備にも定評があった。ホームランか三振か、という全盛期の打撃は、理想的なスラッガーの姿であり、多くの女性ファンを魅了していた。
イシイ カズヒサ
石井一久
ヤクルトの黄金時代を築き、気ままに大リーグ、パリーグを渡り歩いて選手生活を謳歌した。大リーグに渡る前は、150キロを超える剛速球と切れ味鋭いスライダーを武器に、投球回以上の奪三振を記録し続けた。ユーモアあふれる人柄で、多くのプロ野球ファンからも愛された投手である。
イシイ タクロウ
石井琢朗
投手から野手に転向して大成功した。盗塁王争いの常連でありながら、うまいバッティングで安打を量産している。セリーグ一の安打製造機だ。ついに2000本安打を達成。投手から転向しての努力の結晶としての安打をこれからも放ち続けてくれるだろう。
イシゲ ヒロミチ
石毛宏典
常勝西武の代名詞的存在で、日本シリーズでよくヒットを打っていたイメージが残っている。チームのムードメーカーとなる明るいキャラクターで、インタビューでの話や祝勝会でのはしゃぎぶりは、非常に面白かった。
イシミネ カズヒコ
石嶺和彦
ブルーサンダー打線の中で打ちまくっていた印象の強いホームランバッターである。小柄で、構えだけ見ると、打ちそうには思えなかったのだが、難しい球でもいとも簡単に本塁打することができる技術を持っていた。
イソベ コウイチ
礒部公一
2001年の近鉄優勝の立役者の1人。ローズ、中村の陰に隠れることも多かったが、近鉄の合併騒動で合併反対運動の先頭に立ち、選手としても中距離ヒッターとして好成績を残して一躍、有名になった。近鉄最後の選手会長として、楽天の初代ミスターイーグルスとしてプロ野球を盛り上げた功績は大きい。
イチロー 連続試合出塁の記録を更新中の頃、球場で見た。独特の振り子打法から体勢が完全に崩れているのにボールを軽く当ててヒットにする技術を見せてくれた。
バッティングのとき投手側の足に重心をかけてポイントを前にでき、内野安打を多く稼げるようになる、という一石二鳥の斬新な発想も衝撃を受けた。
前人未到の7年連続首位打者の彼は、メジャーでも1年目から首位打者と盗塁王。驚くべき当然の結果である。
イトウ ツトム
伊東勤
西武の黄金時代を陰で支えた日本を代表する名捕手。40代になっても活躍したタフネスで息の長い選手だった。西武が、多くの名投手を輩出した裏には彼の功績をまず挙げねばならないだろう。
イナバ アツノリ
稲葉篤紀
ヤクルトでの活躍も素晴らしかったが、日本ハム移籍後の活躍は、さらに目覚ましいものがある。きっちりしたスイングで本塁打もヒットも綺麗に放つ名選手である。日本ハムが2006年に日本一になれた立役者でもあり、日本ハムの黄金時代を作りだした。打席に入る時にファンが一斉にジャンプする稲葉ジャンプは壮観である。
イバタ ヒロカズ
井端弘和
打って良し守って良しのプレーヤーで、プロ野球史上最も安定感のある遊撃手と言っても過言ではない。荒木との二遊間コンビは、アライバの名前で親しまれ、これもまたプロ野球史上最高の二遊間の呼び声も高い。右打ちとファール打ちの名手でもあった。
イマナカ シンジ
今中慎二
1990年代の天才投手と言えばこの人。鋭い角度で切れ込んでいく直球と、全く対照的な緩いスローカーブ。緩急の神髄が彼のピッチングにはあった。左肩の故障がなければ、軽く200勝はしていただろう。
イラブ ヒデキ
伊良部秀輝
ロッテのエースから大リーグのヤンキースでローテーションピッチャーに。その後、数々の紆余曲折を経て日本の阪神でエース級の働き。重そうで迫力ある直球とフォークとふてぶてしいほどのマウンドさばきで阪神を優勝に導くか。
イワセ ヒトキ
岩瀬仁紀
日本を代表する中日のセットアッパーから日本を代表するクローザーとなった大投手である。スリークウォーターから繰り出されるスライダーと直球の切れが素晴らしい。リリーフエースより打ち崩すのが困難なほどの安定感とタフさでセットアッパーの地位向上の立役者でもあり、その後は、年間40セーブが当たり前とさえ見られている不動の守護神である。
ウシジマ カズヒコ
牛島和彦
中日在籍時代には守護神として投げる低めの直球が素晴らしかった。宝刀フォークボールは、多投せず、肝心なところでしか投げてなかったイメージがある。落合博満とのトレードでロッテに移ったが、セパ両リーグでセーブ王となった意地が光る。
ウノ マサル
宇野勝
ショートフライをヘディングという20世紀NO.1の珍プレーをしたプレーヤーとして永遠に名前は残ると思われる。あれほど、プロ野球のミスの面白さを知らしめたプレーヤーは他にいないからである。
実際、非常にエラーの多い選手だったのだが、それでいてファンには憎まれなかった。バッターとしては優れたアーチストであった。あの落合と最も仲が良かったというのも未だに謎である。
エガワ スグル
江川卓
この投手の球は、速くて重そうだった。あの体型でどっしりと投げているからだが、あれでどうして剛速球が投げられるのかは謎だった。さらに13勝をしながら強引に引退というのも謎である。
本当に高校卒業後、プロに入っていれば……と悔やまれる。
エトウ アキラ
江藤智
広島の主砲として、巨人の優勝請負人として、タイミングが合えば、次の瞬間には打球がレフトスタンドに向けて高い放物線を描いていた印象が強い。金本、前田智、野村を押しのけて四番を打っていたときの迫力は、忘れることができない。
エンドウ カズヒコ
遠藤一彦
頭をチョンチョンと指すクロマティの仕草を三振に切ってとったときにやり返した投手という印象がとても強い。テレビの珍プレーで何度も放送されたからに違いない。しかも、そのときのクロマティの表情を私は忘れることができない。フォークボールが鋭く、アキレス腱の怪我さえなければ、平松投手並の成績を残していただろう。
オオイシ ダイジロウ
大石大二郎
近鉄の核弾頭として長年にわたって活躍した選手で、かなり小柄ながら極めて俊敏な動きで盗塁と打率を稼いでいた。その動きの素早さは、見ていて驚くほどであった。江川卓のオールスター9連続奪三振を阻止したことでも有名である。
オオシマ ヤスノリ
大島康徳
中日で主砲として活躍していた頃、よくテレビで目にした。ホームランバッターだったので、本塁打を打っているときの印象しかない。
日本ハム移籍後も、度々重要なところでホームランを打つアーチストだった。歴代2位の26年間もやっていた、とは引退後に知った。
オオノ ユタカ
大野豊
どこか悲壮感漂うマウンドでの投球は、恐ろしささえ感じた。先発に抑えに、どちらでも一流の活躍をした彼は、江夏の後継者にふさわしいものがあった。40歳を超えても140キロを軽く超えていた直球と多彩な変化球は、見ごたえがあった。
オオムラ ナオユキ
大村直之
近鉄いてまえ打線、ソフトバンク打線の核弾頭として活躍してきた選手。優れたバットコントロールによって広角に安打を量産し、本塁打を2桁打てるパンチ力も備えていた。守備、走塁のレベルも高く、毎年3割前後打つ安定感抜群の選手だった。
オガサワラ ミチヒロ
小笠原道大
日本ハムと巨人を常勝チームに引き上げ、毎年安定した成績を残し続ける。腕を伸ばして構えるスケールの大きなフォームとフルスイングは、一見の価値がある。首位打者ばかりでなく、3冠王も狙える存在である。
オカダ アキノブ
岡田彰布
奇跡のバックスクリーン3連発の締めを飾ったことで有名。阪神ファンはバース・掛布といった打者と比較したため、かわいそうなところもあったが、優れた中距離ヒッターであった。
オガタ コウイチ
緒方孝市
広島一筋で走好守ともに高い能力を発揮した選手で、長嶋監督のいた巨人からの熱烈な誘いを断った広島愛は本物である。度重なる故障がなければ、もっと通算盗塁数が伸びて、トリプルスリーも達成できていたはずだ。
オチアイ ヒロミツ
落合博満
私がここまで野球ファンになったのは何を隠そう、このプレーヤーのおかげである。彼のファンになったのは中日に移籍した年のオープン戦。「セリーグ初打席」と見守る大勢の観衆の前で、バットを1度も振ることなく、全打席三振。フォームがまだ固まっていないので崩れるとまずいという理由からだったけど、このプロ意識の高さに感動してしまったのである。
私が球場で見たときもセンター・レフト・ライトに3本ヒットを打ち分けてくれた。
伝説の10.8決戦で見せた右中間へのホームランは、あの技術といい、弾道の美しさといい、史上最高のホームランだったと思う。
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カク ゲンジ
郭源治
中日の星野仙一監督が「私の命綱」とまで絶賛した名ストッパーだった。跳ねるような小気味よいピッチングと勝利が決まった瞬間に飛び上がって喜ぶ郭ダンスには多くの人が魅了されたことだろう。
カク タイゲン
郭泰源
西武の黄金時代の一翼を担った剛速球投手で毎年日本シリーズでその投球を見ることができた。いつも冷静でポーカーフェイスだったので源治に比べて地味な印象は強いが、何もかも揃っている隙のない投手だった。
カケフ マサユキ
掛布雅之
ミスタータイガースというよりは晩年の苦しんでいる掛布の姿しか記憶にない。「殺虫剤のCMなんかに出ているから(虫と同じように)成績が落ちるんだ」とか批判されていたけど、怪我がなければさらなる大打者になっていたはずである。
カドタ ヒロミツ
門田博光
どっしりと構えて豪快に振り抜く場面が記憶に残っている。思い通りのミートができたときに見せるバットを振り抜いた後の笑顔がよかった。足に爆弾を抱えながらも常に全力のスイングをする姿にはプロの哲学を見た。44歳まで現役を続けた中年の星でもあった。
カトリ ヨシタカ
鹿取義隆
巨人にいるときは、毎試合のように中継ぎで登板していたので記憶に残っている。あのサイドスローかアンダースローかという微妙な投法で淡々と仕事をこなす姿が印象的である。守護神専任だったらとてつもない記録を残していただろう。
カネモト トモアキ
金本知憲
2000年に3割・30本塁打・30盗塁を達成。鋭いスイングで本塁打を打てて走れる万能プレーヤーである。阪神に移籍して優勝請負人として常勝軍団に変貌させた。フルイニング連続試合出場の世界記録も樹立し、数々の最年長記録の塗り替えにも期待がかかる。
A・カブレラ 2001年に突如現れたパワーヒッターで2002年にはシーズン55本塁打を記録して日本中の注目を集めた。場外弾や看板直撃弾、天井直撃弾を連発。格闘家のような体と丸太のような腕から放たれる本塁打はまさに規格外だった。
カワイ マサヒロ
川相昌弘
何を隠そう、彼が通算犠打の世界記録保持者である。ギネスブックにも登録されたという。ランナーが1塁にいれば、必ずと言っていいほど2塁にまで進めてくれる。通算500を超える犠打は中日でも更新し続けて不滅のものとした。守備の名手でもあった。
カワグチ カズヒサ
川口和久
広島が誇る奪三振王である。細身の甘いマスクながら、細かいコントロールは気にせず、左腕から切れのある速球とカーブをテンポよく投げ込む爽快な姿に魅了された。
キタガワ ヒロトシ
北川博敏
奇跡としか言いようのない、あの優勝決定代打逆転満塁サヨナラ本塁打で名を挙げた北川は、近鉄の主力選手にまでのし上がり、新球団オリックスバファローズでも、奇跡的な試合を演出する同点満塁本塁打を放った。まさに記憶に残る名選手である。
キタベップ マナブ
北別府学
球は、そんなに速いと思わなかった。ただコントロールが素晴らしかった。針の穴を通すコントロールとはああいうものだというのを見せ付けてくれた。
打てそうで打ち崩すことのできず、いつのまにか20世紀最後の200勝投手になっていた。
キヌガサ サチオ
衣笠祥雄
私が見たのは晩年で、あまり打てなくなってきていた時期だった。でも、死球を当てられたのに痛いそぶりさえ見せず、軽く一塁まで走っていく姿は、まさに球界の紳士だった。どんなことがあっても休まない精神力は、他の追随を許さない。
キヨハラ カズヒロ
清原和博
いろいろ言われているが、既に400本以上の本塁打を記録している大打者である。ただ現在まだ無冠であり、「無冠の帝王」というありがたくない称号をもらっている。
それにしてもPL学園時代の打棒はすさまじいものがあり、その幻影にすべてのファンがとり付かれているようである。
ライト打ちもうまく、実力的にはいつ本塁打王を獲ってもおかしくないと思うのだが。
クドウ キミヤス
工藤公康
この投手の好調時は、打たれる気がしなかった。日本シリーズでは「今日は工藤だからまず西武の1勝」。そういう計算ができる投手である。それほど速球・変化球の切れにはすばらしいものがあるが、40歳目前になった今もほとんど衰えを知らない。あと数年で200勝達成の可能性大。
マーク・クルーン 何よりも、MAX162キロの快速球に驚いた。これだけ速くても大リーグでは活躍できない、というのが投手の難しさでもある。日本ではコントロールが安定しているときは、手も足も出ない投球をするが、コントロールが不安定なときは四球から崩れるという両極端さを持ち合わせていた。
クロマティ あのクラウチングスタイルは、最初は、もの珍しくて笑う人も多かったが、次第に高い打率を残すことが分かり、賞賛へと変わった。本塁打を打ったときに子供のように派手なガッツポーズをしたり、ヘッドスライディングする必要のないところでヘッドスライディングするところが面白かった。現役ばりばりの一流大リーガーとして来日したのも彼が最初。
明るい人柄で、日本人選手以上の人気を誇った唯一の外国人選手である。
クロダ ヒロキ
黒田博樹
直球の切れが素晴らしく、広島のエースとして活躍した。常に完投できるタフさと試合を作れる球威が魅力である。2005年、念願の最多勝のタイトルを獲得。広島の大エースへの道を歩み始めていたが、大リーグへ移籍。大リーグでも、先発投手として安定した成績を残し続けている。
クワタ マスミ
桑田真澄
PL学園時代からのファンである。あれほど美しい完璧なフォームを追求し続ける投手は他にいないのではないだろうか。低めに伸びる直球と鋭いカーブは絶品。
右肘を怪我する前に球場で見たことがあるが、彼の投球は気合が投げているという感じの迫力があった。燃え尽きるまで投げ続け、最後は大リーガーとなって、ファンにも夢を与えてくれた。
コクボ ヒロキ
小久保裕紀
高く美しい本塁打を放つ日本を代表するスラッガー。松中と強力なクリーンアップを形成し、ダイエー(のちのソフトバンク)の黄金時代を作り上げた。選手生命を脅かす故障から復帰して巨人でも重量打線の中核となり、放出された古巣ソフトバンクへFAで戻るという離れ業を成し遂げた情熱の選手である。
コサカ マコト
小坂誠
プロの中でも飛び抜けた守備力を持っていて、守備だけでお金をとれる稀有な遊撃手だった。その守備範囲の広さは、小坂ゾーンとして恐れられており、打者は、二遊間や三遊間へ打ってもほとんどヒットにならないほどだった。日本のオジー・スミスと言っても過言ではない。
コバヤシ マサヒデ
小林雅英
ロッテでは7年にわたって守護神として活躍し、日本一にも貢献した幕張の防波堤。ときにはストレートよりも速いシュートを投げて右打者の懐をえぐって打者を震撼させていた。現役後半は、荒れ球のせいで「劇場」と呼ばれるピンチを招きながらもぎりぎりで抑える粘り強さを見せた。
コマダ ノリヒロ
駒田徳広
とんでもない高い球や低い球、遠い球を強引に打ってヒット・本塁打してしまう技術にはいつも驚かされた。あれでいて何度も3割以上打っているのだから、この選手の意外性には悔しい思いをした投手が多いと思う。
意外性といえば、あの巨人を自ら出たときも耳を疑ったものだ。
コマツ タツオ
小松辰雄
石川県が生んだスピードガンの申し子で、1980年代はずっと中日のエースだった印象がある。MAX154キロの剛速球を生む背筋力は、針を振り切って測定不能となった機械もあったという。イチローが憧れるのも当然である。
コミヤマ サトル
小宮山悟
1990年代のロッテのエースで、冷静沈着さを際立たせるゴーグルと、精密機械と呼ばれる卓越したコントロールがあった。バレンタイン政権下でその指導に革新を見抜き、バレンタインの下で野球をするために大リーグ挑戦を果たした仁義溢れる選手でもあった。
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サイトウ アキオ
斉藤明夫
実力派投手と呼ぶのがふさわしいほど、先発でも中継ぎでも抑えでも一流の成績を残した。威圧感のあるひげ面のポーカーフェイスで淡々と投げ込んでくる姿にダンディズムを感じた。
サイトウ タカシ
斎藤隆
横浜のエースから森監督の進言でリリーフエースに転向。ものの見事に成功し、さらに山下監督になって再び先発に戻った。角度のある直球とスライダーの切れは抜群であり、どこでもこなせる。大リーグに移籍後も、クローザーとして活躍し、日本以上に大リーグで成功した投手となった。
サイトウ マサキ
斎藤雅樹
サイドハンドでこれほどの成績を残した投手はいないのではないかと思う。サイドハンドなのに全盛期は140キロ台後半の球を投げていた。上から投げたら150キロ台後半が出るんじゃないかとよく思ったものである。この投手の生命線は外角低めへのスライダー。これが決まり出すと相手チームは1点取るのがやっとという試合になってしまっていた。200勝まであと20勝というところで残念ながら引退。
サエキ タカヒロ
佐伯貴弘
マシンガン打線を長年支えてきた中距離ヒッターで、中日移籍後は代打の切り札として優勝を経験。2001年に規定打席到達で初めて3割を突破。ベテランになるほど磨かれた技術と、愛すべき人柄で、タイトルこそ獲得できなかったものの、多くの伝説を残してくれた。
ササオカ シンジ
佐々岡真司
エースとして活躍したり、守護神として活躍したり、とチーム状況に合わせて広島一筋で投げまくって100勝100セーブを達成した。どれだけ投げても絶対に故障をしない丈夫な投手で、球団にとっては最もありがたい選手であったはずだ。
ササキ カズヒロ
佐々木主浩
胸板の厚い体つきで、いかにも剛速球を投げそうな雰囲気を漂わせて、その通りの速球を投げ込んだ。速球でカウントを稼いでおいて最後は30センチ以上落ちるフォークでしとめる投球は、2ストライク取られたら終わり、とまで恐れられた。
そのピッチングは大リーガーにも恐れられた。最後は古巣横浜で引退。いずれは監督での復帰を期待したい。
ササキ マコト
佐々木誠
あの豪快に膝を高く上げる一本足打法は、誰もが真似をしたくなるかっこよさがあった。重戦車のような体格でありながら俊敏で俊足にして強肩という全く隙のない万能プレーヤーだった。
1990年代前半にメジャー移籍の道が開けていたなら、彼がメジャーを席巻していたことはほぼ間違いないだろう。
サトウ ヨシノリ
佐藤義則
 私にとって阪急・オリックスのエースと言えばまず彼が頭に浮かぶ。キャッチャーミットに叩き込むような直球と魔球「ヨシボール」を駆使した変幻自在のピッチングには安定感があった。40歳での感動的ノーヒットノーランは「がんばろう神戸」の象徴だった。
シノヅカ カズノリ(トシオ)
篠塚和典(利夫)
天才的なミートセンスで、泳ぎながらの流し打ちは上質な芸術作品であった。首位打者2度もうなずける。中日の近藤真一にノーヒットノーランを許したとき、見逃し三振で最後の打者になっていたが、「最後はボールだった」と彼が言うからには、ボールだったのだろう。
シミズ タカユキ
清水隆行
超攻撃的な重量打線を組んだ巨人のバントをしない2番打者として活躍した中距離ヒッター。直球にめっぽう強く、真芯でとらえて振り抜いたときの弾丸ライナーは、すさまじい打球速度であった。
シモヤナギ ツヨシ
下柳剛
プロ野球界一の愛犬家で、選手生活の大部分をともにしたラガーは、下柳の陰で支え続けた。若き日には毎日でも投げまくるアイアンホークとして、現役後半は約9割が変化球の技巧派となった。現役前半は、ホールド制度がなかったため、すさまじい活躍ぶりが数字として表れないのが惜しい。
ジョウジマ ケンジ
城島健司
日米で盗塁阻止率リーグ1位を記録した日米を代表するキャッチャーであり、打てるキャッチャーでもある。低めのボール球でもスタンドまで持っていける技術は他のバッターにもほとんど見かけないほどのもので、メジャーでも攻守の主力として活躍し、WBCでも世界一に導いた。
ショウダ コウゾウ
正田耕三
小柄で動きが速く、守備がうまかった。鋭いスイングで安打を量産してたし、走攻守にバランスのよかった広島野球の象徴だった。首位打者争いで見せたセーフティバントは一打にかける執念を感じた。
シンジョウ ツヨシ
新庄剛志
阪神の主砲として活躍したあと、日本人野手2人目の大リーガーとしてアメリカへ。持ち前の陽気さとアメリカ的な奔放さで活躍し、日本人初の大リーグ4番の快挙も達成。帰国すれば、北海道日本ハムでオールスターMVP獲得の天才的エンターテイナーだ。
スギウラ トオル
杉浦享
20年以上にわたってヤクルトを支え続けた息の長い選手で、ヤクルトを球団初の優勝に導いた功労者だが、私がプレーを見た頃は代打の切り札となっていた。1992年の日本シリーズで、放った瞬間笑顔を見せられるほど、会心の代打サヨナラ満塁本塁打は、かっこよかった。
スズキ タカノリ
鈴木尚典
鈴木のホームランを球場で見たが、低い弾道で一直線に右中間へ消えていった。三冠王まで紙一重のバッティングをしていたが、あと一歩の積み上げが叶わなかった。日本シリーズやオールスターでもよく打ち、引退試合も本塁打と、大舞台にも強い打者だった。
スズキ タカマサ
鈴木孝政
僕が見たのは既に晩年の技巧派としての鈴木で、いつも安定感のあるピッチングをしていた。若い頃は、快速球を投げていたというから見事な転身だったわけだ。未だに史上NO.1リリーフエースと賞賛する人もいるくらいだから一度快速球を見てみたかった。
テレビのインタビューでよく面白いことを言ってくれるサービス精神もよかった。
ソン ドンヨル
宣銅烈
この投手の直球は、私が球場で目撃した中では最も素晴らしかった。オーバーハンドながら低いリリースポイントから弾丸のようにキャッチャーミットに突き刺さる投球には息を飲んだ。
韓国での全盛期を見られなかったのが残念でならない。
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タイホウ ヤスアキ
大豊泰昭
大リーガー級の打球を飛ばしたスラッガーで、今の時代なら大リーガーになっていたかもしれない。本塁打を放っても満足できる打球でないと「詰まった」と反省のコメントしかしないところには、高いプロ意識を感じた。
タイロン・ウッズ ウエイトトレーニングで鍛え上げた頑丈な肉体からコンパクトなスイングで軽く右中間スタンドへ打球を運ぶ技術とパワーには驚嘆させられた。日韓3球団で本塁打の球団新記録を打ち立てたのも彼ならではだ。
タオ ヤスシ
田尾安志
甘いマスクで人気があり、ミートがうまい打者だった。少年だったイチローは、同じ左打者の彼にあこがれて打席にバットをぐるぐる回すおなじみの仕草を始めたらしい。
タカギ ユタカ
高木豊
大洋の看板選手と言えば、まっ先に彼が浮かぶほど、走攻守にわたって目立っていた選手。ミートする技術も素晴らしかったが、打ってから走り出すときの姿もまた絵になっていた。
タカツ シンゴ
高津臣吾
ヤクルトの押しも押されぬリリーフエース。サイドスローから鋭く落ちるシンカーは、分かっていても誰も打てない。これだけ長きに渡って絶対的な守護神であり続けるサイドスロー投手は世界にも類を見ないのではないだろうか。に佐々木の通算記録を塗り替えた後、ついにメジャーへ。あの変則的な投球は、大リーガーも打てないはずだ。
タカハシ ヨシノブ
高橋由伸
多くの人々が「天才」と認めた好 バッターで、特に打撃フォームが美しかった。甘いマスクと走好守揃ったプレー でファンを魅了した。高校から巨人の監督になるまで、ずっとエリート街道を走 り続けてきた巨人生え抜きのスターである。
タカハシ ヨシヒコ
高橋慶彦
広島の黄金時代を走攻守にわたって支えた万能プレーヤーである。小説や写真集にさえなった甘いマスクとバランスの良い肉体は多くのファンを魅了した。ゴールデングラブ賞は獲得していないのに名ショートと言えば高橋の名が挙がるのは、抜群にかっこよかったからだろう。2000本安打を放つまで広島でプレーさせてあげたかった選手だ。
タグチ ソウ
田口壮
オリックスの攻守の要として活躍し、イチローと組んでいた外野守備は鉄壁を誇った。大リーグへ移籍しても苦労しながら与えられた場所で活躍し続け、メジャーでベテランの味を十分に発揮して世界一も経験した。
タシロ トミオ
田代富雄
弱小チームだった大洋の主砲である。豪快なスイングで本塁打の魅力を知らしめてくれる反面、おばけのQ太郎に似た独特の風貌でオバQという愛称で親しまれたスラッガーである。
タツナミ カズヨシ
立浪和義
守備の名手であり、既に3割を6回達成している安打製造機でもある。通算2000本安打も達成し、現在でも代打の切り札として観客から最大の声援を浴びるミスタードラゴンズである。
タナカ ユキオ
田中幸雄
本塁打を量産できる堅守の遊撃手として1990年代の日本ハムの攻守の要となった。いつも半袖で太い腕をさらしているイメージがあり、一度も3割を打たず、豪快な打撃で通算2000本安打を達成したミスターファイターズである。
タニシゲ モトノブ
谷繁元信
横浜で強打の捕手として活躍し、中日に移籍。念願だった大リーグ入りは叶わなかったが、打者の気持ちを読んだ強気のリードと安定した強肩で中日の黄金時代を築き上げた。横浜でも中日でも日本一を達成したプロ野球界を代表する捕手である。
タニ ヨシトモ
谷佳知
イチローの大リーグ移籍後、オリックスを看板打者として牽引した。右中間へ二塁打を打つ技術に優れ、シーズン最多記録を打ち立てた。妻は、言わずと知れた谷亮子で、夫婦揃ってオリンピックで複数のメダルを獲得という快挙が光る。
ツジ ハツヒコ
辻発彦
西武黄金時代の守備・走塁の要。完璧なまでの守備は、それだけでファンを魅了できるものがあった。それにしても、1987年の日本シリーズで見せた1塁から単打で生還という頭脳プレーは何度見ても感心せざるをえない。
ツダ ツネミ
津田恒実
常に真っ向から直球勝負にこだわった剛球投手だった。気迫で投げる姿には見ているだけで威圧感に圧倒された。病魔に冒されなければ、もっと多くの伝説を世に残していただろう。
デストラーデ 西武の黄金時代は、秋山・清原・工藤・渡辺久などが挙げられるが、忘れてはならないのは彼の名前だろう。
彼の左打席でも右打席でも出る豪快なホームランは、清原・秋山以上の驚異だったはずである。
1990年の日本シリーズで巨人相手に4連勝し、アンチ巨人ファンの溜飲を下げたのは、そのシリーズ4本塁打した彼の功績である。
大リーグ復帰などせずに、ずっと日本にとどまっていれば、西武の黄金時代はもっと延びていただろう。
トヨダ キヨシ
豊田清
西武の守護神として活躍していた当時は、守護神降臨のポーズを見た瞬間、相手チームは試合をあきらめるほどの威圧感があった。剛速球を持ちながら四球をほとんど出さないという投球の安定感は抜群だった。
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ナカハタ キヨシ
中畑清
言わずと知れた絶好調男で、長嶋茂雄の華麗さを引き継いだハッスルプレーと派手なアクションの数々には目を奪われた。エンターテイナーとしてはクロマティと双璧だった。バッティングも一流の中距離打者で、ここぞというときの一打が似合う選手だった。
ナカムラ ノリヒロ
中村紀洋
パリーグ一の長距離打者。シドニーオリンピックにも出場し、活躍。落合博満以来の本塁打50本超えを目指して奮闘中。代名詞となった「フルスイング」と打った後に決めるポーズが印象的である。
ニウラ ヒサオ
新浦壽夫
巨人、韓国、大洋でエースとなった左腕。僕が知っているのは大洋時代の老練な軟投派イメージだが、巨人時代は剛速球を投げていたそうだ。韓国プロ野球の草創期に日本野球を伝えた功績は今となっては偉大である。
ニオカ トモヒロ
二岡智宏
右中間へ大きな本塁打を放てる魅力があった。遊撃手としての守備も堅実で、まさに大型内野手であった。故障とあの移籍騒動が惜しまれるが、日本ハムでも代打の切り札として技術力と勝負強さを発揮した。
ニシグチ フミヤ
西口文也
長年、西武の大黒柱として実績を挙げた好投手。スライダーのキレが素晴らしく、全盛期は松坂との2枚看板で、チームを支えた。ノーヒットノーラン未遂3回、日本シリーズ未勝利、通算200勝にあと少しで引退、と伝説の多い選手でもあった。
ニシザキ ユキヒロ
西崎幸広
長年パリーグの投手陣をリードしてきた好投手。阿波野とのライバル関係はレベルが高いものがあった。若い頃の女性人気も、特筆に価するだろう。
ニシムラ ノリフミ
西村徳文
バットを短く持って、地味ではあるが、常に単打を放っていた印象が強いロッテの看板選手である。走っても4年連続盗塁王を獲得し、福本の後で一時代を築いた。
ニシモト タカシ
西本聖
直球にそれほどスピードがなかったが、鋭いシュートで打たせてとるコントロール投手だった。しかも、努力の人。ドラフト外入団で巨人のエースにのし上がり、中日移籍後に20勝、そして大きな故障からのカムバックには感動した。
ノムラ ケンジロウ
野村謙二郎
1990年代にセリーグで最も他球団に恐れられたバッターではなかっただろうか。走攻守すべてが揃っている上に、常に全力プレーを怠らない。大リーグから注目されるのも当然だったが、大リーグ挑戦を断念したことだけが惜しまれる。
ノモ ヒデオ
野茂英雄
初めて見た時のあのトルネードの投球フォームは衝撃的だった。しかも弾き出されるように投げられた球は、矢のように速い。近鉄時代、四球で度々満塁にしても、ポーカーフェイスで簡単に無失点に抑えるところは、圧巻だった。キャッチャーも捕れないようなフォークが多く、キャッチャーが捕れないのにバッターが打てるはずがない、と思ったものである。
ついに日米通算200勝を達成し、次は日米通算4000奪三振を達成して欲しい。
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バース 今でも阪神ファンにとっては神様のような存在。実際、伝説のバックスクリーン3連発も、シーズン54号ホームランも見ていなかったが、あの崩れないスイングは立派だった。
どうして阪神は、彼を解雇してしまったのか。今でもプロ野球ファンにとっては悔やみきれない出来事である。
ハセガワ シゲトシ
長谷川滋利
日本にいるときは、それほど球が速くなかったが、コントロールが良く、安定感抜群の投手だった。本人は、野茂より先に大リーグに行くつもりだったらしい。
日本では先発投手だったけど、メジャーでは中継ぎ(セットアッパー)として大活躍して、中継ぎの重要性を日本に知らしめた。アメリカに行って球速も増し、英語も堪能な国際派投手だった。
ハツシバ キヨシ
初芝清
彼ほどファンから様々なニックネームをつけられた選手もいないだろう。「幕張のファンタジスタ」「ミスター・ロッテ」「ミスターマリーンズ」「田吾作」「はっちゃん」「初芝神」……。
主砲を務められる実力を持ち、温厚で小太りでメガネをかけ、コミカルなプレーを見せるだけあって、誰からも愛され、憎まれない選手だった。
ハラ タツノリ
原辰徳
甘いマスクで歳をとっても若大将と呼ばれていたが、巨人の4番に座りながらなかなかタイトルを獲れないため、マスコミは彼に厳しかった。
強引に引っ張って打つ打法で、ホームランやヒットはレフトへ打ったものしか記憶にないほど、レフトへの一発が多かった。
巨人以外のチームにいたらもう少し選手寿命が延びたような気もする。
ヒガシオ オサム
東尾修
シュートの鋭い好投手だったのだが、記憶には近鉄のデービスに死球を与えて殴られているところしかない。
そのデービスも後に麻薬所持で逮捕され、東尾も麻雀賭博で逮捕されている。今、思えば怖すぎる乱闘だった。他の追随を許さない通算死球王である。
ヒラノ ケン
平野謙
中日で優勝に貢献し、西武で黄金時代を築いた名外野手である。特に西武時代の印象が強く、ランナーがいればバント、ランナーがいなければ自らヒットを放ち、常に活躍していたように感じる。俊足で、しかも、強肩という全く穴のない選手である。
ヒロサワ カツミ
広澤克実
ヤクルトの黄金時代を支えた4番打者である。三振も多かったが、壷にはまったときの一発は恐れられた。最後は阪神で、リーグ優勝に貢献して現役最後になった日本シリーズで見事な本塁打まで放ってくれた。甲子園のヒーローインタビューで歌った六甲颪は記憶に新しい。
フクドメ コウスケ
福留孝介
走好守が揃った選手として、2002年に急成長を遂げて松井秀喜の3冠王を阻止して首位打者獲得。その後、中日の中心打者として常勝チームを形成した。大リーグを経て阪神で復活し、息の長い活躍を見せる。
フクモト ユタカ
福本豊
彼が出塁したら、もうランナー2塁になったのと同じだった。だから出塁させずにおこうと相手投手は慎重に投げるのだが、それをあざ笑うように彼の打球はセンター前に飛んでいくのである。別にセンター前ヒットばかり打ってたわけではないと思うのだが、私の記憶の中ではセンター前ヒットしか残っていないのだ。
フジイ ヤスオ
藤井康雄
高く上がれば本塁打という印象の強い打者。極めてチャンスに強いバッティングと、代打逆転満塁サヨナラ本塁打は、鮮烈だった。イチローの背面キャッチを真似しようとして見事に失敗していたのも記憶に残る。
ブーマー 私が最初に野球ファンになったのはブーマーが三冠王をとって阪急が優勝した年である。もちろん阪急ファン、そしてブーマーファンになった。体が大きく、足が長く、スイングも豪快なのに繊細なミート力があった。史上最高の外国人選手は、彼だと思う。
ブライアント 私は球場で彼のバックスクリーンに吸い込まれていくホームランを目撃した。もう打った瞬間ホームランだった。あのときは運がいいと思ったが、今考えると3試合に1本はホームランを打っていたわけなので、たいしたことはなかったわけである。
ホームランか三振か、その典型的なバッターだった。
フルタ アツヤ
古田敦也
野村克也の指導の元で、日本一の捕手に成長。他の追随を許さない卓越した守備力を持っており、彼の調子がチームの調子をも左右するほど。盗塁阻止率も素晴らしい。打者としても首位打者を獲得したこともあるアベレージヒッターである。
ホシノ ノブユキ
星野伸之
私が球場で見ていたとき、直球が120キロ、123キロとかスコアボードに出ていると、観客が「何であんな遅い球打てんのじゃ」と野次っていた。最も遅いスローカーブは、80キロ程度。それでいて外角低めにきっちり決まったりする。彼と対戦する打者は、いつもああやって野次られているのだろう。病気により通算200勝を達成できずに引退してしまったところが悔やまれる。
ホリ コウイチ
堀幸一
90年代から2000年代のロッテを攻守の要として引っ張ってきたミスターロッテ。代名詞となった流し打ちの技術は、バレンタイン監督が太平洋一と評したほど。バレンタインの下で日本一にも輝いたが、2000本安打まであと少しで引退したことは惜しまれる。
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マエダ トモノリ
前田智徳
日本を代表するアベレージヒッター。練習の虫だそうである。度重なる故障のせいで満足のいくシーズンは数少ないが、天才的な素質とバッティング技術は誰もが認めている。怪我をしなければ、毎年首位打者候補である。
マキハラ ヒロミ
槙原寛己
巨人に入ってきた頃から球が速く、スマートな速球投手というイメージがあった。その後も3本柱の一角として完全試合を達成した試合などは、その速球が冴えていた。目が悪いため、自ら捕手に出すサインがまた絵になっていた。
抑えに回されて不調に陥り、肩を痛めて2001年限りで引退。ずっと先発でやってほしかった投手である。
マツイ カズオ
松井稼頭央
西武の核弾頭。元投手のスイッチヒッター。俊足とうまいヒッティングに加え、最近はパンチ力を兼ね備えてきた。盗塁王争いはもちろん、毎年首位打者争いに加わってくることは確実である。
マツイ ヒデキ
松井秀喜
落合博満の前で3番を打っているうちに急成長。巨人の不動の4番に成長した。しかも、彼の飛距離は、他の追随を許さない。看板に当たった打球は数知れず。現在、落合以来の三冠王に挑戦中である。
マツナカ ノブヒコ
松中信彦
平成初、そして21世紀初の三冠王。打者としての最高到達点にたどり着いた数少ない打者で、全盛期に交流戦が始まったため、セリーグの投手たちはその実力の高さに驚いたという。
ただ、故障によってその最高到達点に長く居座れなかったことが惜しまれる。
マツナガ ヒロミ
松永浩美
名スイッチヒッターと言えば、彼の右に出るものはいない。私は、史上最高のスイッチヒッターだと思う。
晩年は、移籍を繰り返し、最後には大リーグ挑戦するなど、一匹狼であり続けた。2000本安打まであと96本で終わってしまったのは、惜しまれる。
マユミ アキノブ
真弓明信
甘いマスクのせいか、しなやかなバッティングのせいか、熱狂的なファンが非常に多かった。バース・掛布の陰に隠れてはいたが、優勝した年に1番打者で34本塁打というのも普通なら考えられない記録だ。
ミヤモト シンヤ
宮本慎也
ヤクルトの内野の要となっている守備の名手でゴールデングラブ賞の常連である。五輪の主将、WBCの選手代表、プロ野球選手会長としての統率力にも定評があった。川相に代わって犠打の達人としても知られるようになり、2001年にはシーズン犠打記録を塗り替えたほど。通算記録をどこまで伸ばせるかも注目したい。
ムラタ チョウジ
村田兆治
独特のまさかり投法で、やはり私も真似をしていた。今思うと、野茂英雄にかなり似ている投手だったと思う。球のうなる音が聞えそうなほど、豪快な球を投げていた。
右腕の故障をし、滝に打たれて治らず、アメリカで手術をすることになったが、「滝に打たれて治らなかったのに、手術で治るはずがない」といった声が聞かれるほど、あの当時の日本球界は現代医学に無知だった。そのタブー視された手術が成功して、復帰し、200勝を達成したときの感動は誰もが忘れていないだろう。
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ヤザワ ケンイチ
谷沢健一
落合が来る以前の中日の主砲として、かなりの活躍を見せていたため、中日の中継の多い私の地域ではよく目にした。落合と入れ替わるように引退してしまったが、彼のミートのうまさは落合に次ぐものを持っていたと思う。
なぜか1番記憶に残っているのは、ポール際にホームラン性のファールを打って悔しがる姿である。
ヤノ アキヒロ
矢野燿大(輝弘)
中日では中村武志の陰に隠れてあまり目立たなかったが、阪神移籍後は、名捕手・アベレージヒッターとしての素質が一気に開花し、阪神の2度の優勝に大きく貢献した。最後の打者に対して、藤川球児に高め直球で空振り三振を狙わせるリードはファンを熱狂させた。
ヤマサキ タケシ
山崎武司
1996年には松井秀喜を押しのけて本塁打王を獲得したスラッガー。左手1本で豪快にレフトスタンドへ叩き込んでしまう剛打がパリーグの新球団楽天でスラッガーとして、配球を読む技術を身に着けてさらに進化した。30代後半から40代前半にかけて本塁打を量産した息の長いスラッガーである。
ヤマサキ リュウゾウ
山崎隆造
走攻守が揃ったアベレージヒッターで、私にとって広島野球の象徴といえば、山本・衣笠よりも彼。彼を打席に迎えるのが嫌だった投手は多いに違いない。強い広島を作り上げた立役者の1人だった。
ヤマシタ ダイスケ
山下大輔
大洋の名ショートで、ゴールデングラブ賞の常連だった。打球に対する反応は天才的と言えた。現役の晩年は、ほぼスキンヘッドになっていたため、風が強い日は必死に帽子を押さえている姿がテレビの珍プレーでよく放映されていた。
ヤマダ ヒサシ
山田久志
1984年の優勝で当然の如く、目についたのはこの投手だった。地面に手がつきそうなところから、ミットめがけて浮き上がってくる剛速球と鋭いシンカー。どうしたらあんな球が投げられるのか不思議だった。よく小学校で真似をしていたものである。
ヤマモト カズノリ
山本和範
愛嬌ある表情とは裏腹に、もう駄目か、というところから這いあがってくる強さを感じるバッターだった。カズ山本という登録名も新鮮でよかった。
ヤマモト カズユキ
山本和行
阪神の抑えのエースと言えば、未だに彼の名が最初に浮かんでくるほど、阪神の絶対的な切り札だった。当時のメンバーでは、バース・掛布・岡田などの強打者が真っ先に上がってくるけど、投手のヒーローには彼を真っ先に上げておきたいところである。
ヤマモト コウジ
山本浩二
彼も晩年のイメージしかないが、記憶に残っているのは、すべて本塁打を打ったときの姿である。それほど、素晴らしいホームランバッターだったと同時に広角打法の名手でもあったらしい。
ヤマモト マサ
山本昌
直球は135キロ前後ながら、コントロールと球のキレ、そしてスクリューを中心とした変化球を織り交ぜた投球術で勝負する投手。膝を高く上げて反動を付ける豪快なフォームで、長身の左腕から繰り出す球の鋭さは一級品。既に3度の最多勝を獲得している。
ヨシイ マサト
吉井 理人
近鉄ではリリーフエースとして活躍し、伝説の10.19に連投していたが、当時は阿波野の印象が強かったため、あまり語られることはない。しかしながら、その後、ヤクルトでエースに登り詰め、大リーガーとしても活躍して有名になった。
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アレックス・ラミレス 長年に渡って日本球界で安定した活躍し、数々の外国人記録を更新した優良外国人選手。広角に本塁打を打てる技術も持ち、打率も本塁打も高い数字を残せる。こわもてでいかつい体を持ちながら、ユーモアセンスは抜群で本塁打を放ったあとの「アイーン」「ゲッツ」「ラミちゃんぺ」など、有名なギャグをパフォーマンスに仕立ててファンを喜ばせている。
レオン・リー 見かけはパワーヒッターだったが、実際は中距離砲だった。タイトルは獲っておらず、外国人屈指の成績を残しながら、生涯打率1位の兄の陰に隠れた印象が強い。そんなに悪くない成績なのに大洋とヤクルトを去っていったところが悲しい。
T・ローズ バットを後ろに倒した独特のフォームで、中村紀洋とともに近鉄のクリーンアップを形成してスラッガー。本塁打を量産できるパワーを備えており、2001年には王に並ぶシーズン最多本塁打55本を記録。今後は、新記録や三冠王の期待がかかる。
R・ローズ 外国人選手としては珍しい天才的なアベレージヒッターである。1999年のシーズン打点日本記録が光る。また、あと71打席立てば、外国人ながら4000打数以上と規定される歴代通算打率の1位に登場するのだが、惜しくも引退。
ワ行 ページTOPへ戻る
ワカマツ ツトム
若松勉
私が見たのは晩年で、代打の切り札となっていた頃である。それなのにレギュラー以上の打率を残していて、声援も大きかった。
出てきたら必ずヒットを打つような雰囲気を持っている打者だったが、日本人最高の打率を残していることを知ったのは引退後である。
ワタナベ ヒサノブ
渡辺久信
いつも、日本シリーズで好投していたので印象に強く残っているが、セリーグの打者たちは球威に押されて詰まっていた。何と前人未到の日本シリーズ6連勝をしていたのだとか。
引退が早かったことが惜しまれるが、その分台湾でシーズンMVPを獲るほど大活躍したのだから惜しむべきでないのかもしれない。
ワダ カズヒロ
和田一浩
2002年にレギュラーを獲得して一躍西武の中心バッターになった。オープンスタンスから遠心力を使って飛ばす打撃は、豪快さの中に確実性も兼ね備えており、中日へ移籍後も一発を放てるアベレージヒッターとして活躍している。西武と中日を常勝軍団に押し上げており、40代でも年齢を感じさせない打撃を見せる。
ワダ ユタカ
和田豊
バットを短く持ってしぶとく内野の間を抜くバッティングがうまかった。規定打席到達で3年連続本塁打なしという記録もある通り、私は彼の本塁打を映像で見たことがない。阪神の20世紀優勝メンバーで最後の生き残りでもあった。



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