これは、僕が大学時代に書いた論文。あのころは、こんなのを書く時間があった・・・

日本野球の変革による改善と弊害


 日本の野球は、1873年にアメリカから輸入されて以来、ずっと独自の発展を遂げてきており、現在も絶大な人気を維持している。しかし、そのような日本野球も、最近、プロ野球の中では大きく変わり始めている。1985年に労働組合日本プロ野球選手会(プロ野球選手会労組)が発足し、'93年にはFA制度が導入された。また、ドラフト制度の変革も同じ年に行われ、逆指名制度が始まった。これらによって、かつての球団主導の集団主義から選手の個人主義を認める傾向が出てきている。こうした変化は、個人の自由な意志が尊重されるという改善がある反面、球団や選手に様々な弊害をもたらしている。このような改善と弊害が表出した原因を主に過去と現在の比較、アメリカ大リーグや他のプロスポーツとの比較から考察してみたい。

   第1節 労働組合日本プロ野球選手会発足以前の雇用関係

 近年の日本野球の変革を論じるには、それ以前の経緯を明らかにする必要がある。まず、この節ではドラフト制度がどのようにして作られ、いかなる理由で改正へと至ったか、FA制度という移籍制度の導入の生じる要因、労働組合日本プロ野球選手会が結成されることになった背景を探りたい。

   @プロ野球草創期の雇用関係
 日本のプロ野球では1936年の創設以来、球団は、自由に選手と交渉出来るようになっており、選手にも球団を選択できる自由があった。このシステムは、まだプロ野球草創期の戦前から戦後まもなくの頃まではうまく機能していた。
 戦後の一時期は、日本でFA制度に似た制度が存在していたほどである。1947年に施行された「選手自由憲章」の特別資格選手制度(十年選手制度)である。これは、戦後の民主化の進む中で、ベテラン選手からの要望から始まったもので、経営者と選手が対等の関係を持つことを目的として、十年間同一球団に所属すれば、移籍の自由を獲得できる制度であった。
 しかし、日本にはアメリカのように雇用を契約として割り切って考えることはなく、経営側と選手の感情的な結び付きを優先する伝統的な終身雇用で固まっていたため、特別資格選手制度は、ほとんど形だけのもので、これを利用した選手は、ほとんどいなかった。(注1)
 球団と新人選手が自由に交渉できるシステムも、戦後復興を果たし、経済発展が始まると、巨人を始めとする資金力の豊富な球団は有望新人獲得のために多額の資金を投入して激しい争奪戦を繰り広げた。
 その影響で新人の契約金が高騰したため、高騰する契約金を抑制して、一つの球団に選手が集まるのを防ぎ、戦力の平等化を図ることが必要となった。そこで、パリーグ・西鉄社長の西亦次郎は、アメリカ・フットボール界のドラフト制度を参考にして原案を作った。しかし、それまで有望新人を自由に獲得してきた巨人と阪神が最後まで抵抗した。それでも、'64年に大リーグがドラフト制度の採用を決めたのをきっかけに、すべての球団の意見がまとまり、日本もドラフトが始められた。このとき、契約金の上限は、一千万円という申し合わせがなされた。ドラフト制度施行に伴い、特別資格選手制度は消滅した。

   Aドラフト制度
 '65年から始まったドラフト制度は、デメリットとメリットの双方が見られた。デメリットの方は、球団主導の選手選択と指名が重なった場合のクジ引きによる決定のせいで、選手の希望通りの球団へ入団出来ないことが非常に多いため、選択の自由がなく、個人の権利を無視しているという批判に表れている。また、契約金は、'65年に定められた上限がほとんど守られずに高騰したことも挙げられる。'70年代になると上限が三千万円に引き上げられたが、これも形骸化し、'88年を最後に消滅することになる。
 しかし、ドラフト制度によるメリットも大きなものがあった。特に目的としていた戦力の均衡化は、ドラフト制度で指名された選手が活躍し始めた'70年代に入ると、中日・広島・ヤクルトが初優勝を果たすという効果が表れた。巨人だけでなく、各球団に名選手が台頭してきたのもこの頃である。契約金も、ドラフト制度改正後の高騰に比べれば、ある程度の抑制が働いていたと言えるだろう。
 それでも、日本選手は、ドラフト制度による個人の自由がないばかりでなく、野球協約の保留条項によって、球団側が契約を予定し、保留選手とすると翌々年の1月まで他の球団との交渉を禁じられる。そのため、日本では選手の意志による他球団への移籍は定着せず、入団した球団への終身雇用で固まっており、一流選手ともなれば、最初に入団した球団で引退するのが普通だった。また、コーチや監督にしても、かつてその球団でプレーしていた人がほとんどである。球団を移るとなると、球団を批判したり、球団に不要とされてトレードに出された選手か、あるいはチームの相互補強のために選手を交換トレードする形くらいしか考えられなかった。そのため、プロ野球選手になりたいならドラフト制度によって指名された球団に入り、嫌でもずっとその球団でやって行くより仕方がなかったのである。
 こうした移籍の困難さは、スポーツ界に幅広く見られており、大相撲の力士に典型的に表れている。力士は、学生時代に大相撲の親方からスカウトされる形で部屋に入門するため、集団生活する所属部屋の強力な師弟関係に縛られる。また、同じ指導者による一貫した英才教育という恩恵の面も大きいため、部屋を移籍したいという力士は出てこない。時差井、部屋の移籍が認められるのは、引退して独立する際など、部屋が承認した場合に限られており、。個人の意志だけによる移籍は不可能に近いのである。

   B労組結成に至る経緯
 個人の権利の抑圧に対し、日本のプロ野球界は、'85年の労働組合プロ野球選手会が発足するまで、選手側が経営側に対して団体交渉する権利を持たなかった。それだけでなく、選手単位でも球団に対抗することはほとんど不可能であり、反抗した選手は、その年の末にはトレードに出されることとなっていた。そのため、来日する外国人選手は、どうして選手達が低い待遇に黙って従っているのか不思議に感じることが少なくなかった(注2)。
 日本の労働組合の特徴は、企業の枠の中に入った企業別組合であり、欧米のような職種別組合(クラフトユニオン)は出来にくいことが主張されてきた。日本の企業において、従業員は、家族ぐるみの雇用関係に入れられるため、職種に関わりなく企業単位の組合になりやすい。実際、現在でもほとんどの企業(特に大企業)は、企業別組合で成り立っている(注3)。
 日本のプロ野球は、労働組合日本プロ野球選手会ができるまでは企業別(球団別)の小規模な選手会が中心で、それらが集まってできた親睦会の形でプロ野球選手会が存在した。(注4)。そのため、選手は、球団の上層部に押さえつけられて、球団に対する意見をなかなか口に出せず、すべて球団の決定に一方的に従うしかなかった。
 日本のプロ野球には、アメリカ大リーグに'65年に誕生した、選手の権利を守るための労働組合大リーグ選手会が手本として存在した。大リーグ選手会は、'70年には代理人制度、'75年にはFA制度導入、'76年には保留条項の撤廃に成功した。
 このように日本の選手の受けている抑圧や大リーグ選手会の活発な活動を背景に、日本でも各球団の選手会が集まってできていた日本プロ野球選手会が、'80年に社団法人となって労組結成を目指すことになった。
 その一方で、各球団は、いずれも選手の労組結成に批判的であった。そこで、日本プロ野球選手会は、'84年に入ると球団側には隠密に選手から入会届を集め、協議を進めた。そして、'85年に東京都労組委員会に資格審査を請求し、認可を受けて、ようやく労働組合となったのである。


   第2節  労働組合日本プロ野球選手会発足

 '85年になって、ようやく選手達の念願が叶って日本プロ野球選手会が労働組合として認可され、労働組合日本プロ野球選手会が発足した。
 ここでは'85年の労働組合プロ野球選手会の発足によってプロ野球組織の構造がどのように変化したか、そして、いかにしてアメリカ式のFA制度の導入に至ったかを明らかにしたい。

 労働組合日本プロ野球選手会の目的は、チームの枠を超えて、各球団の選手会が一つに団結して、球団側との交渉に当たろうとするものである。この労働組合は、職種別組合であり、ストライキの権利行使も可能な資格団体となった。
 しかし、この労働組合プロ野球選手会は、日本の伝統的な様式の変革であったため、苦難の道を歩んだ。まず、発足当初からヤクルトスワローズの選手会がプロ野球選手会からの脱会を決めた。それは、オーナーである松園尚巳が支配下にある選手達の行動に不快感を示したからである。ヤクルトの選手達は、あくまでヤクルトという球団の一員であり、個人へのいかなる例外も認められず、球団の上層部(経営側)の意志に反する行動はできなかったのである。これは、日本企業の古くからの封建的な権力構造を如実に表すものであった。しかし、幸いにもヤクルトに続くような行動をとる球団はなく、プロ野球選手会自体も弱腰で、アメリカのような積極的な活動を起こさないことが明らかになってきた。そのため、しばらくは慎重に見守っていたヤクルト選手会も、ようやく'89年に加入することとなった。
 プロ野球選手会の消極さは、発足当時から見られていた。日本の伝統的な選手の立場の弱さを覆すことができず、初代会長の中畑清は、ストライキを一切しないことを記者会見で発表する羽目となった。
 それでも、プロ野球選手会労組ができたことによって、選手側がこれまで必要以上に抑圧されていたことの改善がなされるというメリットも出てきた。'87年には選手の最低年俸の引き上げや、選手の疲労の軽減のために要求していたオールスター戦の原則2試合制の導入、'90年代に入ると、球団保有選手枠が1球団60人から70人に拡大されたことなどである。
 そして、プロ野球選手会の活動が最も注目されたのは、FA制度導入への働きかけであった。プロ野球選手会は、かつての特別資格選手制度の復活を目指して、'87年から毎年経営側に要求し、'91年にはFA制度導入に向けて、全選手のスト権確立の確認をとりつけた。しかし、巨人を除く11球団の経営側は、FA制を認めると年俸が高騰し、経営が悪化することを理由にFA制反対を一貫して貫いていたのである。
 その経営側が意見を翻すことになったのは、プロ野球選手会の力よりもサッカー界からの外圧によるものが大きかった。日本サッカー界が'93年からプロ化に踏み切り、選手に移籍の自由を認めるなど、選手に大きな権利(注5)を与えてJリーグがスタートした。一方で、サッカーに対比されて野球が封建的なイメージを与えることや人気の低下を心配した経営側は、プロ野球の活性化のために渋々'93年末からFA制度の導入を決めたのである。
 このように見ると、日本のプロ野球選手会は、職種別組合という新しい形で発足したものの、依然として経営側の顔色を伺いながら、強気の活動ができていない状況にあることが分かる。大リーグの選手組合は、1965年に発足し、しばしばストライキを含む積極的な行動で、経営側との対決色を前面に押し出しているが、日本プロ野球選手会は、未だに一度もストライキを起こしていない。つまり、日本プロ野球選手会は、形だけはアメリカ式を取り入れているが、実際の行動は日本の伝統的な権力構造に縛られていると言えるだろう。


   第3節  FA制度導入

 FA(フリーエージェント)制度は、大リーグでは個々の選手と大リーグ選手会が地道な運動の末に1975年に勝ち取り、'76年から実施されている(注6)。日本では選手会労組の発足が遅く、力もなかったため、Jリーグのスタートの影響を受けて、'93年にようやく実施された。この制度は、ほとんどアメリカ大リーグを真似たものである(注7)。しかし、このFA制度によって、個人の自由が認められるとともに、選手のリストラや特定球団への集中、FA選手の年俸高騰、2軍選手の年俸低迷の原因になっている。FA制度は、日本野球にどうして改善とともに、大きな弊害をもたらしたのだろうか。

 FA制度は、従来、終身雇用で固まっていた球団の一員から、選手が主権を回復して、一定の球団への所属期間を満たせば、個人の意志で球団を移れるようになるという変化である。
 FA制度は、個人の意志で移籍できない伝統を打破し、希望球団でない球団で野球をしていた選手の救援策であり、最も高く評価してくれる(最も高い年俸をくれる)球団に入りたいという選手に対する球団の自由競争も目的としていた。FA制度が導入された'93年は、落合博満や松永浩美など5人の選手がFA宣言をし、4人の選手が希望球団へ移籍した。だが、この制度は、その後、アメリカ大リーグと同じような弊害を生んだばかりか、極めて日本的な形で発展し始めている。
 まず、表れてきた弊害は、年俸の高騰である。これは、アメリカ大リーグにはFA導入された'76年当時から見られる現象である。アメリカでの年俸高騰の原因は、球団間の選手獲得競争と選手の代理人制度(注8)、そして情報化に伴うテレビ放映料の上昇で経営側の収入が増加したことである。数億の年俸が当たり前(注9)となり、球団側も人材を確保するために複数年契約をすることが普通となっている。高年俸によって、放映料収入の少ない中小都市の球団経営は悪化し、身売りする球団も出てきているほか、年俸の高騰を抑えようとした球団と選手との間で対立が続出し、'85年〜'87年にオーナー側がFA選手不買の密約を行い、'95年には選手組合側が長期のストライキを起こす事態にまで発展した(注10)。
 日本ではFA移籍には旧年俸の1.5倍までは認められ、各球団は、制限額の1.5倍の年俸を出して選手を集めようとするので、年俸は高騰し球団の経営を圧迫している。プロ野球選手は、不況の影響を全く受けず、順調に年々年俸総額を伸ばしてきたが、FA制導入以降は、FA権を取得すれば、それを行使した場合、旧年俸の1.5倍まで許されるため、各球団の獲得競争と、自チーム選手の引き止め策として、多額の年俸を支払うことになったため、特に1軍選手の年俸が'94年、'95年の2年間で急に高くなった。そのため、資金力のある巨人とダイエーが選手を多く獲得する結果となっている。しかし、資金力に余裕のない球団にはその悪影響も表れ、横浜ベイスターズは、FA宣言した選手を獲得するための資金を穴埋めするために、生え抜きのベテラン選手の大量解雇に踏み切ったのである。そして、FA選手獲得のための資金集めは、2軍選手の年俸の停滞につながっている。日本のプロ野球選手の平均年俸は、'97年の開幕地点で2908万円である。しかし、1軍平均が5024万円であるのに対して、全体から見ると1300万円未満の選手が全体の半分近くを占めており、全体の平均年俸以下の選手が七割に昇るなど、選手間の格差は激しく、年々広がる傾向にある。
 また、一方ではアメリカではほとんど見られない日本的な傾向も出てきている。それは、'93年に槙原寛己がFA宣言してから巨人と三年間の複数年契約をして残留したことから始まった宣言残留である。この宣言残留は、以後、年々増加する傾向にあり、'97年には11人の選手が宣言したが、そのうち8人の選手は残留し、うち5人は3年または4年の複数年契約を結んでいる。こうした宣言残留は、選手の年俸引き上げの手段となってしまうとともに、一度FA宣言すると3年間はFA権を行使できないことから、選手は、所属球団に対して忠誠を誓い、球団側は、再び権利を得るまでその選手の雇用を保障するという形が定着しつつある。中には年俸が上がらないことが明らかであっても、所属球団への忠誠を示すだけのためにわざわざ宣言をして残留する選手も出てきている。
 また、ファンの方も、FA宣言をして他球団へ出て行くと、かつて日本の野球ファンが近鉄を退団した際の野茂に対して行ったように「恩知らず」と批判し、また、移籍した球団で活躍しなければその球団のファンは、「ヨソ者」扱いをする。球団の方も、高年俸を理由にして使い捨てにしやすいため、FA選手の選手生命は短くなる傾向がある。こうしたことも、選手が移籍を思い止まることが多くなった要因と思われる。
 このように、日本のFA制度は、アメリカ大リーグの模倣から始まり、大リーグで起こっている年俸高騰による労使の対立という教訓を全く生かせず、横浜のベテラン選手大量解雇や2軍選手の年俸を犠牲にするという悲劇を生んだ。そして、FA制度は、宣言残留という日本独特の権利行使が増加している。そのため、FA制度は、徐々に選手の年俸引き上げの手段となり、今までお世話になった所属球団へのこれからの忠誠を誓う手段となっている。さらには、他球団の選手が被るしわ寄せという迷惑への配慮を考えて移籍を控えるなど、FA制度自体をもてあまし、FA制度本来の目的は失われつつある。この宣言残留は、日本球界の選手層の薄さによる伝統的な球団と選手の親密な雇用関係の継続であり、選手層の厚いアメリカのように多くのマイナーチームを持たない限り、日本的な傾向は続くと考えられる。


   第4節  ドラフト逆指名制度(新ドラフト制度)

 日本のプロ野球のドラフト制度は、1965年に作られたが、'93年に改正され、逆指名制度が導入された。しかし、逆指名選手の限定や契約金の高騰、特定球団への人材集中など、弊害を多く含んでいる。こうしたドラフト制度改正の原因と、そこから生じた改善と弊害を考えたい。

 ドラフト制度改正の原因となったのは、選手に球団選択の自由がないことや契約金の高騰、Jリーグのスタートである。
 選手が球団選択をできないという不自由さは、選手側や球団側の双方に不満を積もらせ、選手は、希望球団以外の球団から指名されると、プロ入りを拒否して浪人・社会人野球チームへ入団するなど、苦渋の選択をする者が増えた。球団は、球団職員として雇って所有権を主張したり、ドラフト前日の契約期間が空白になる一日を悪用して選手と契約するなど、ドラフトの盲点を突いた策を考え出した。
 それに加えて、'93年にJリーグがドラフト制度なしでスタートした。サッカーは、海外のチームではプロチームの下部組織で育て上げた選手がプロ入りするシステムになっており、Jリーグもそれを理想としている。そのため、契約金さえ認めていない。
 こうした原因を背景に、巨人を所有する読売新聞社の渡辺恒雄社長は、かねてから快く思っていなかった当時のドラフト制度の改正を主張し、コミッショナーにドラフト改正を認めさせた(注11)。
 こうして、力のある経営側の要求によって1993年のシーズンオフから逆指名制度が導入され、指定枠採用選手とされたドラフト1位・2位候補の大学生以上の選手は、入団したい球団を逆指名する。これまでの球団が選手を指名する方式に対して、逆に選手が希望球団を指名して、入団させる制度である。
 この制度によって、'90年に亜細亜大学の小池秀郎選手の交渉権をロッテがクジ引きで得たため、プロ入りを拒否したというような悲劇は、避けられるようになり、有望選手の選択の自由が保障されるという改善がなされた。
 しかし、逆指名は、大学生と社会人には認められて、高校生には認められない。そして、逆指名は、球団が1位・2位指名を約束した選手に限られ、3位以下の選手に逆指名の権利はない、という不可解なものである。
 そのため、契約金の高騰という弊害も出てきている。ドラフト制度の目的は、契約金の抑制にあるにも関わらず、有望選手の逆指名を得たい球団は、選手に高額の契約金を提示して、逆指名を得ようとしている。それが逆指名制度導入当初から顕著になり、'94年には契約金1億円、出来高払い五千万円以内との申し合わせがなされたが、建前だけのもので実際には守られておらず、数億円の金が動いていると言われている。有望選手の逆指名も、巨人を筆頭とする資金力と人気がある球団に集まっている。また、'97年に発覚したプロ野球選手20人(うち10人が起訴)の巨額脱税事件も、ほとんどが'93年・'94年のドラフト逆指名制度で入団した選手であった。そのため、早くも逆指名の枠を一人に減らす改革案のほか、制度の存続を問う声も出てきている。
 このような弊害は、サッカーのJリーグでは起きていない。Jリーグは、移籍規定で選手の意志により自由にチームを移籍出来ることが認められており、プロ野球のような選手の保留権はなく、契約が切れた時点で選手は自由になる。そのため、チームがどんなに高い契約金を払っても2年目に他のチームへ移籍される危険があるため、契約金はいらないのである。その代わりに複数年契約が自由にできるシステムになっており、複数年契約を結んでいる選手も多い。
 また、アメリカのドラフト制度も日本と同じように契約金高騰の抑制と戦力の均衡化を目的に始められた。だが、アマチュアとプロとの実力差は大きく、新人がすぐに大リーグで活躍出来るほどの実力はまだなく、契約金は低かったが、'90年代になって新人が代理人を雇うようになって、一部では契約金の高騰が見られている。しかし、アメリカのドラフト制度は、下位のチームが優先的な指名権を持ち、さらにFAで選手を失ったチームに余分に上位の指名権が与えられるという戦力の均衡策がとられている。
 このように、Jリーグでは契約金がないため、契約金高騰という弊害は皆無であり、大リーグでも、下位チームやFA選手流出のチームをドラフトで優遇することによって、戦力均衡を図っている。これに対して、日本ではドラフトの弊害に対する措置が不十分であると言える。


  第5節  今後の改善のために

 日本野球には独自に発展してきた百年以上の長い歴史があり、プロ野球でさえ戦前から現在まで60年以上の歴史を積み重ねている。その間、唯一の手本となる国がアメリカであり、野球協約を始めとする大抵の制度は、アメリカを真似てきた。しかし、日本に合わないと考えられた箇所は、ほとんど日本に合うように変更して導入されてきた。それで、球団・選手間の関係の内実は、常に日本社会と同じように、タテ関係や甘えといった体制が作られており、国内の小さな殻に閉じこもっていた。
 そのため、いかに非国際的であっても、非合理的であっても、日本国内で作り上げられた伝統的なやり方を最上のものとする考え方が根強く残っている。そのため、これまで例に挙げたドラフト制度・プロ野球選手会労組・FA制度・ドラフト逆指名制度などは、どれもアメリカとは少しずつ異なるものであり、いずれも日本的な形で機能している。
 選手達も、依然として経営側にそれほど強い態度を取ることができず、日本人は、これまで築いてきた日本独自の野球(ジャパニーズスタイルと外国人は呼ぶ)に満足している。
 また、国民も、野球は日本人同士の娯楽ととらえており、それほど、改善に熱心ではない。あくまで、趣味・娯楽として、自分がプレーして楽しんだり、マス・メディアを通じてチームや選手達の成績に一喜一憂するだけである。最近になって、日本人大リーガーの出現で、海外にも目を向けるようになったが、ほとんどの国民は、アメリカやキューバには追い付けず、他の野球の発展途上国にはまだ追い付かれないといった考えを持っているように思われる。
 一時は野球人気をしのぐだろうと噂されたJリーグが発足当時の人気を失い、'96年・'97年と大幅に観客動員やテレビ視聴率が低下したため、再び野球人気が突出する結果となっている。日本のプロ野球の経営者も、高校野球の関係者も、こうした結果に再び危機感を失い、また日本的なやり方での現状維持を望んでいる。それらは、1章で見たような外国人指導者や外国人審判をすぐに追い返したことに象徴的に現れている。
 しかし、そうしたやり方は、現代の日本社会で顕著である。日本政治が古い体勢を引きずりながら権威を失ったため、国民の政治無関心を引き起こし、日本経済は、高度経済成長の後、国民が現状に満足して労働者の向上精神がなくなったことで下降し始めている。
 また、長く対外競争を逃れてきたしわ寄せも最近では見られる。外国人を制限し、国内で、そして、日本人だけで野球をしているだけの状態が続きすぎた。外国チームとの試合は、ほとんどが親善という形で、数試合行われるだけであり、それが人気の高低や対外競争激化に関わることはなかった。そのため、日本が対外競争を意識し始めるのは、'92年にオリンピックで野球が正式種目とされてからである。
 しかし、日本よりも水準が高い国は、アメリカとキューバの二国しかなく、対戦の場も極めて少ないため、対外競争に対する危機感は薄い。したがって、日本は、現状を続けることが最大の目的となり、アメリカやキューバの水準が高い野球を学ぼうとしていない。つまり、外圧がないため、日本野球は、向上心を失っているのである。

 このように見てくると、日本野球が一向に改善されていないのは、日本が現状から脱皮しようとしないこと自体が最大の問題となっていることが分かる。長い間、日本国内のことだけを考えていれば、それでよかっただけに、ぬるま湯的な体質ができている。これを壊すには、自主性に乏しい日本の場合、まず外圧による意識改革が必要になろう。日本は、もっとトーナメントやリーグ戦などの国際大会の開催を盛んに行うことによって危機感を持ち、ゴルフのマスターズのように日本が最高峰のワールドシリーズに挑戦できるようにする制度などを求めて、対外競争の意識を高めることが必要だろう。そして、日本の他のプロスポーツ、特にチームの増加で水準が低下したJリーグが一部・二部制度等を作って、水準を高めることによって人気回復を図り、プロ野球に危機感を与えることが必要と思われる。


  第6節  まとめ

 日本のプロ野球界では'85年の労働組合日本プロ野球選手会の結成から'93年のFA制度とドラフト逆指名制度の導入で、これまでの厳然とした集団主義から、個人主義を強化する傾向が強まっている。これにより、上から押さえつけられてばかりいたこれまでの封建的な体制は、改善されつつある。
 特に、選手の最低年俸の引き上げやFA制度導入は、労働組合日本プロ野球選手会がなければ、達成されなかったと思われ、労組の存在価値を評価することができる。
 しかし、一方でプロ野球選手会は、依然として経営側に強い態度で対抗することができず、自力だけではほとんど何もできない弱体である。また、FA制度も、年俸格差とリストラを生み、ドラフト逆指名制度も、契約金の高騰と逆指名権の選手限定による矛盾を生んでいる。このように改善された点よりも、むしろ弊害の方が多く表れてきている。
 これは、制度だけが改革されて、実際の野球組織の構造はほとんど変わっていないからである。依然として、球団側は、選手側に圧力をかけ、プロ野球選手会も、経営側の顔色を伺いながら行動しなければならないという上下関係が残っている。
 また、経営側は、依然として多額の資金を投じて有望新人やFA宣言した選手を獲得しようとしており、決められた新人の契約金やFAで移籍した選手の年俸の上限などのルールは、形だけのものとなっている。そのため、有望新人とFA選手が共に、人気と伝統、そして資金力のある特定球団に集まり、戦力の均衡化は保たれなくなってきている。そして、選手側も、FA制度を宣言残留という形で、球団への忠誠を誓うとともに年俸引き上げの手段として使用し始め、本来の目的とは程遠くなってきている。
 日本のスポーツ界では、至る所で、このような伝統的な考えや様式から抜け出せないところが見られる。カラー柔道着の導入に対しても、日本は最後まで反対の姿勢を崩さなかったし、シドニー五輪でのプロ野球選手オープン化(注12)に対しても、最後まで反対姿勢を貫いた。ここには伝統の保護、アマチュア野球の繁栄の保護といった側面はあるものの、国際的な流れに反するものである。大相撲も、野球に劣らないくらい保守的であり、巡業などで海外への「相撲の紹介」には努めるものの、世界への「相撲の普及」には尽力していない(注13)。
 日本野球は、FA制度にしても、ドラフト制度にしても、今後、特定球団と特定選手だけが有利になるような制度ではなく、もっと合理的な制度に変えてゆく必要がある。そのためには、制度だけでなく、前節で述べた意識改革とそれに続く実際の構造改革も必要で、経営側が巨人主導から戦力均衡を図れるようなコミッショナーの権限を確立することや、労働組合日本プロ野球選手会が大リーグ選手会のような強い権利意識を持ち、経営側に対抗することが大切である。そして、選手や弱小球団に弊害が及ばないように、アメリカのドラフト制度やJリーグの契約制度・移籍規程などを参考にして、選手会、経営側双方が考え直すときであろう。


  注釈
(注1)……特別資格選手制度(十年選手制度)を利用したのは、'65年に国鉄から巨人に移籍した金田正一、'49年に阪神'から毎日に移籍した土井垣武、'59年に阪神から大毎に移籍した田宮謙次郎など、ごく少数である。
(注2)……大リーグで、選手達がよく利用している調停でさえ、日本選手が利用したのは、プロ野球選手会労組が結成された6年後の'91年、落合博満が球団の年俸の提示額を不服として、申請したのが最初である。しかも、アメリカが調停の裁定を第三者に依頼しているのに対し、日本ではオーナー会議で選ばれたコミッショナーが裁定しているので、経営側寄りの裁定となる。
(注3)……『タテ社会の人間関係』中根千枝 講談社現代新書 1967 p69〜99
(注4)……大相撲の力士会は、かつてのプロ野球選手会と同じように正式な労働組合ではなく、関取だけが結成した親睦会の形をとっている。そのため、力士は、経営側の権威に抑えられ、伝統としきたりを守っている。
(注5)……Jリーグは、創設当初から移籍規程ですべての選手の移籍の自由が認められており、プロ野球のような保留権がないため、契約が切れれば、選手の意志で移籍が可能となっている。また、複数年契約も自由にできるシステムとなっている。こうしたサッカーのJリーグ規約や統一契約書などの制度は、欧米の様々なスポーツ制度を参考にして作られている。
(注6)……大リーグのFA制度は、一軍ベンチ入りを1シーズン172日として計算し、6年に達した選手がFA権を獲得し、一度宣言しても5年後に再び資格を得ることができる。
(注7)……日本では一軍出場登録日数を1シーズン150日として計算し、10年に達した選手が希望球団に移籍できるようにするものである。FA権は、宣言しても3年後に再行使できるようになっている。そして、'97年には、FA権獲得が1年短縮されて、9年となった。
(注8)……アメリカ大リーグの代理人制度は、'70年にオーナー側が選手会に対して交渉代理人を雇うことに同意したことに始まった。選手が契約を交渉のプロに任せる権利を得たことで、選手の権利が拡大された反面、年俸の高騰を生んでいる。日本ではまだ認められていない。
(注9)……'97年の開幕時点で大リーガーの平均年俸は約1億7千万円、球団別の支払い総額1位のヤンキースは、約73億7千万円となっている。
(注10)……選手の欲しい球団は、競って大金をつぎ込んだので、球団のオーナー達は、年俸高騰に歯止めをかけるために‘85年からFA選手の不買を申し合わせた。これに対して、大リーグ選手会は、労働協約違反として不服を申し立て、'87年には選手側が勝訴した。結局、オーナー側は、大リーグ選手会にFA凍結の密約の賠償金を払うことになった。
 '94年から'95年にかけてのストライキは、年俸の高騰で経営に苦しむ経営側が選手の報酬に制限を加えるサラリーキャップ制度導入を提案したが、大リーグ選手会は反発してストライキを決行した。裁判にまで発展したが、オーナー側が譲歩したため、ストライキは終わった。
(注11)……読売新聞社の渡辺恒雄社長は、ドラフト制度が職業選択の自由を奪い、独占禁止法に抵触するとして、FA制度より先にドラフト制度を廃止することを要求し、もし廃止されない場合は、セリーグを脱退し、新リーグを結成するという考えを表明した。
(注12)……シドニー五輪でプロ野球選手オープン化は、平成8年9月スイスのローザンヌで開かれた国際野球連盟(IBA)の臨時総会で決定した。この改正によって、IBA主催大会にプロ野球選手の参加が認められることになった。2000年のシドニー五輪には日本のプロ野球選手やアメリカの大リーグ選手も出場できる。日本は、2年前と同じようにこの投票で反対票を投じたが賛成多数(賛成56票、反対7票)で可決された。
 この決定は、IOCの商業主義志向によるものとの批判もあるが、野球の普及とチーム強化にIBAの財政支援を必要とする欧州やアフリカの加盟国が増え、プロのスター選手の五輪での参加で得られるテレビマネーを世界的な普及に活用すべきとの意見は世界的な傾向になっている。これまで世界的普及を進めるためにアメリカ・ドリームチームの活躍で知られるバスケットボールや日本のJリーグ選手の活躍でブラジルを破ったサッカーやテニス、自転車がプロ参加を認められている。長野五輪では、アイスホッケーがオープン化され、北米アイスホッケーリーグの選手の出場が決まっている。アルドノタリIBA会長は、日本野球の国内各団体を統合した組織作りの必要性を訴えている。
(注13)……『相撲の歴史』(新田一郎 山川出版社 1994)に拠る 

 参考文献
『野球と日本人』池井優 丸善ライブラリー 1991
『スポーツの社会学』亀山佳明 世界思想社 1990
『ベースボールと野球道』玉木正之 R・ホワイティング 講談社現代新書 1991
『タテ社会の人間関係』中根千枝 講談社現代新書 1967
『相撲社会の研究』生沼芳弘 不昧堂出版 1994
『相撲の歴史』新田一郎 山川出版社 1994

 参照資料
『大リーグ物語』福島良一 講談社現代新書 1991
『プロ野球大事典』玉木正之 新潮社 1990
『MAJOR LEAGUE PREVAEAW'96』ベースボールマガジン社 1996
『セパ分裂 野球を変えた男たち』鈴木明 新潮社 1987
『スポーツ新世紀 Jリーグこれからが本番だ』日刊スポーツ新聞社編 朝日ソノラマ 1994
『Jリーグのスポーツ革命』糀正勝 ほんの木 1994
「野球」武田薫『朝日現代用語 知恵蔵1997』 朝日新聞社 1997
『週刊ベースボール12月1日号』ベースボールマガジン社 1997






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