監督落合 8年間の軌跡
〜充実した落合監督8年間の記録と記憶(完全版)〜


犬山 翔太
 
 1.落合監督退任による脱力感〜2011年〜

 中日ドラゴンズ落合博満監督の8年間が幕を閉じた。
 最後となった日本シリーズは、持てる戦力をすべて使い切っての惜敗である。

 思えば、2003年秋に3年契約で落合が中日の指揮をとることが決まったとき、私は、「中日の半世紀ぶりの日本一奪回へ使命を帯びた監督」という記述を残した。
 プロ野球界随一の野球理論を持つ落合なら半世紀の重い扉を開いて、中日を新しいチームへと変貌させてくれるのではないか。そう期待したからである。
 落合は、3年契約の間には、日本一を達成することはできなかったが、3年間で2回のリーグ優勝、1回の2位という成績を残してそこから2年契約を結び、就任4年目の2007年にはついに中日を53年ぶりの日本一へ導いた。

 そして、2009年からは、さらに3年契約を結んで、2011年には中日の球団史上で誰も成しえなかったリーグ連覇を達成した。リーグ優勝争いの渦中に中日球団が一方的に監督解任やコーチ大量解任を発表する妨害工作を乗り越えて……。
 落合は、球団と再契約をする度に、球団をさらなる高みに導いたのである。

 この8年間は、落合ファンであり、プロ野球ファンでもある私にとって、落合が現役選手だった頃以上の熱い想いを抱かせてくれた時間だった。それとともに、2003年までは知らなかった野球やプロ野球の魅力を私に教えてくれた。さらに、プロ野球界に潜む様々な問題も浮き彫りにしてくれた。そのため、最も充実した8年間を過ごすことができたのである。

 ただ、この8年間が強烈であったがゆえに、落合監督退任に伴って彼の言動があまり報道されなくなり、私は、大きな脱力感にさいなまれている。
 私は、それを埋めるため、落合監督と苦楽を共にした8年間の記憶をたどりながら、プロ野球の魅力と問題点を語っていきたい。

 
 2.激動を予感させる2011年の開幕前〜2011年〜

 まずは、2011年のシーズンから語りたい。この年は、落合監督の3年契約最終年である。もしかしたら2011年限りで契約終了となるのではないか。そんな懸念が最初からあった。そして、3月25日に西川順之助球団社長が退任したことで、落合監督の続投はないかもしれない、という思いが私の脳裏をよぎった。

 落合やコーチ陣も、そんな球団の動きを敏感に察知していた。球団史上初の連覇を達成して、かっこよく辞める、という団結を見せることになる。

 中日は、2010年にリーグ優勝を果たしたとはいえ、大型補強をしなかった。そのため、中日の戦力は、巨人や阪神に比べるとかなり見劣りするものだった。
 巨人や阪神は、優勝できなかったこともあって、巨大戦力をさらに巨大にすべく、大型補強を重ねていた。
 それでも、落合は、対抗しようとはしなかった。代打の切り札がいない、という点を補てんするため、横浜を戦力外になった佐伯を獲得。そして、ライトを守れる外野手ということでドミニカ人の若手グスマンを獲得する。そして、投手を中心とした野球ということで、ベネズエラ人の若手投手ソトを獲得し、ドラフト1位では故障中の仏教大投手大野雄大を指名した。
 つまり、足りない部分だけを補う。これが就任以来一貫した落合の方針である。言いかえれば、この程度の補充で連覇は達成できる、という目論見でもあった。

 しかし、2011年は、例年にない出来事が多発する年となる。最大の出来事と言えば、3月11日に起きた東日本大震災である。東北の太平洋側を中心に多数の死傷者を出した地震と津波、そして、日本中を深刻な被害に陥れた福島原発の爆発事故。東京電力の迷走が拍車をかける形で、日本中が電力不足に対する不安で騒然となった。
 プロ野球選手会は、開幕日の延期を求め、世論も巻き込む紆余曲折の結果、開幕日が3月25日から4月12日に延びた。そのため、日本シリーズが11月後半になる、という変則的な日程となった。

 中日にとっても、この日程変更には大きな影響を受けた。落合監督就任以来初となるビジターでの開幕となったからである。調子が狂った中日は、開幕から前年最下位の横浜に負け越す、というありえないスタートを切ることになる。
 だが、1年という長い期間を戦う上で、想定外はつきものである。落合監督の8年間の中で、ほとんど想定外のなかった年は、私の思い浮かぶ範囲では2006年のペナントレースくらいなのだから。


 3.2011年前半戦と恐るべき計算〜2011年〜

 2011年の中日は、開幕3連戦で負け越してから一向に調子が上がってこなかった。そのため、4月は、1度も貯金することなく終わっていく。
 何せ、この年は、吉見、チェン、山本昌、山井、小笠原といった主力投手陣を故障で欠いての開幕である。
 5月前半、落合監督のコメントは、世間を賑わせた。まずは、ヤクルトに開幕5連敗で5位となった5月4日試合後。
「24負けても、よそに24勝てばいいんだ。144試合トータルで考えないとだめなんだよ」(中日新聞2011.10.22)
 さらに5月7日の巨人戦連敗後。
「これで何敗目?11敗目?まだ50は負けられるな」(中日新聞2011.10.22)
 この時点で8勝11敗の5位。マスコミは、連覇の可能性が消えたかのように騒ぎ立てたが、落合のコメントは、落ち着き払っていた。
 それが逆に覇気がないと感じる一部のファンは、ネット上で批判を展開した。

 確かに後になってみれば、落合監督の読みに狂いはなかった。2010年のセリーグ最大引き分け数4を仮に想定すると、11敗に50敗を足して61敗なら79勝。79勝61敗での勝率.564は、2011年の結果から見ると、確実に優勝できる数字なのである。
2011年 セリーグ 順位表 
順位 球団 勝利 敗北 引分 勝率 ゲーム差
1 中日 75 59 10 .560 -
2 ヤクルト 70 59 15 .543 2.5
3 巨人 71 62 11 .534 3.5
4 阪神 68 70 6 .493 9.0
5 広島 60 76 8 .441 16.0
6 横浜 47 86 11 .353 27.5

 この年、延長戦は、原発爆発の影響を受け、3時間半を超えたら次の回に入らないという特別規定ができた。それにより、中日は、10引き分けを記録するが、それで61敗したとしても73勝61敗で勝率.545となり、ヤクルトの勝率.543をわずかに上回るのである。他チームの状況を完璧なまでに把握しなければ成り立たない計算がそこにある。
 この恐るべき計算を本当の意味で理解していたのは、おそらく落合監督をはじめとする中日首脳陣だけだったように思う。

 そんな状況の中、吉見とチェンが戻ってきた中日は、徐々に調子を取り戻して交流戦では14勝10敗とセリーグで唯一の勝ち越しを決めた。
 交流戦で勝ち越し、という結果は出たものの、そこに隠された大きな戦力減が後に響く。ブランコと谷繁が相次いで故障離脱を余儀なくされたのだ。
 6月3日、ブランコは、西武戦を右手の故障で欠場する。私は、ブランコが登録抹消された6月4日の西武戦をナゴヤドームで見た。この試合は、平田のサヨナラ本塁打で勝利を収めたのだが、谷繁が左ひざを負傷退場した試合でもあり、素直に喜んではいられなかった。
 案の定、攻守の要である四番と正捕手を欠いたチームは、交流戦こそ持ちこたえたものの、7月に失速する。7月10日から8月1日まで3勝13敗1分と負けが込み、首位ヤクルトと10ゲーム差の4位に転落し、8月5日には5位となった。

 ここで、多くの中日ファンは、リーグ優勝をあきらめていたにちがいない。私も、今年はさすがにリーグ優勝は無理で、何とかAクラスに入るのが精いっぱいではないか、と予測した。私の周囲の人々も、同じ意見だった。
 しかし、ペナントレースは、長い。ペナントレースをトータルで考える落合監督の戦略は、ファンの考える目前の勝利の遥かに先を行っていたのである。
 8月2日、借金5で首位ヤクルトと最大10ゲーム差をつけられた日の試合後、落合監督は、チーム状況を船の修理に例えてコメントする。
「見ての通り。最低5試合はかかってくるな。ドックから出てくるまで」(中日新聞2011.10.22)
 まるで他人事のようなこの発言は、心ないファンの反発を招いた。しかし、泰然自若とした落合監督のコメントの裏には、10年ぶりの優勝を目指して飛ばしに飛ばすヤクルトの疲れと、巨大戦力を保持しながらヤクルトとの差を詰められない巨人・阪神の状態を分析しながら、しっかりと連覇への布石を整えていた自信が見える。
 落合監督は、この年の勝負となる時期について、常々「9月」と明言していた。
 首位に10ゲーム差をつけられても、5位に転落しても、連覇を確信する余裕のコメントを残す落合監督の真価が8月後半からついに発揮されることになる。


 4.落合解任の前兆と快進撃〜2011年〜

 2011年の前半戦が終わったとき、中日は、2位ながら借金2と苦しんでいた。通例であれば、落合監督が次の年も続投なら、前半戦終了時に白井オーナーから続投要請がある。
 しかし、2011年は、それがなかった。白井オーナーは、続投について決めかねている、という旨の発言をしていた。だが、それは、後から考えれば、落合監督続投を求めるオーナーと、落合監督退任を求める球団社長・球団代表との間で結論が出なかったからだと推測できる。

 そして、8月5日に中日が5位へ転落したとき、坂井球団社長は、東京スポーツのインタビューに答えている。
「監督人事にも影響しますか」
 という記者からの質問に
「成績は関係ないんじゃないですか。それよりも、お客さんが入らないことを心配しているんです」(東京スポーツ2011.08.06)
 坂井球団社長は、たとえ好成績でも落合解任の方針をほのめかした。

 8年連続で監督というのは、既に中日の球団史上最長だった。新鮮さがなくなってきてファンがマンネリ化を感じてしまうのも事実である。とはいえ、一流選手の大リーグ流出によるプロ野球全体の地盤沈下の中で、中日が突出して観客動員に苦しんでいたわけでもない。
ナゴヤドーム
観客動員数
プロ野球
観客動員数
1997 2,607,500 23,496,000
1998 2,537,000 21,664,500
1999 2,541,000 22,410,500
2000 2,479,500 22,441,000
2001 2,421,000 22,923,500
2002 2,404,000 22,952,500
2003 2,336,500 23,664,500
2004 2,330,500 24,454,000
2005 2,284,400 19,872,215
2006 2,398,698 20,407,538
2007 2,390,532 21,187,029
2008 2,427,805 21,638,197
2009 2,298,405 22,399,679
2010 2,193,124 22,141,003
2011 2,143,963 21,570,196

 これがナゴヤドーム創設当時からのナゴヤドーム観客動員数、およびプロ野球全体の観客動員数の推移である。
 ナゴヤドームの場合、2005年からの実数発表となる前(2004年以前)は、満員を2000人程度水増しして発表していたため、あくまで参考記録として10〜15万人程度はさし引いて考えなければならない。他の球場でも、ほぼ同様のことが言える。
 こうして一覧で見ると、確かにナゴヤドームの観客動員数は、2008年をピークに減り始めて2011年までに28万人程度減っている。2008年9月のリーマンショックの影響をもろに受け、さらには福留・川上・ウッズ・中村紀らが次々に抜け、生え抜きのスター選手だった立浪・井上が引退していったからだ。さらに、WBC不参加でのメディアからのバッシングや巨人人気の低迷によって、巨人戦の地上波中継激減の影響も受けた。

 プロ野球全体の観客動員も、WBCで2度目の世界一になった2009年までは増え続けたものの、そこから2年で83万人程度減らしている。とはいえ、2011年は東日本大震災と原発爆発事故があって日程や使用球場も変わったため、観客減少は参考程度で考えるべきである。
 全体的に見ると、実数発表になって以降、プロ野球全体の観客動員数とナゴヤドームの観客動員数は、ほぼ連動している。つまり、観客動員への課題は、中日だけが抱えているわけではなく、プロ野球全体が抱えているのである。

 しかし、どんなに周囲の状況が変わろうとも、落合の采配は、8年間、常にシーズン全体を見通していて、何人の選手が抜けようとも、揺るがなかった。手持ちの駒を最大限に活用し、前半戦は様々な選手を試しては成長している選手を見極めていき、後半戦に備えていく。故障者は、決して無理をさせずに完全な状態になるまでスタメン復帰を見送って、控えで調子のいい選手を有効に起用して競争力をあおっていく。
 その期待に応えて平田、大島、堂上剛といった若手選手も著しい成長を見せて、野手にも選手層に厚みが出てきた。それが故障したレギュラー選手を万全な状態になるまで調整させられる強みを生んだ。特に谷繁は、7月下旬に1軍復帰しながら、スタメン復帰は8月中旬にするなど、選手の試合勘や疲れも考慮した落合采配が随所に見られたのである。

 そうして、ついに谷繁がスタメンに復帰した8月中盤から中日は、首位追撃を開始する。ソトが日本野球に適応し始めて先発投手として頭角を現し、調子を上げた川井と故障から復帰した山井も先発の一角に加わって、投手陣の厚みが増した。8月下旬には井端・ブランコといった攻守の中心選手が万全な状態で復帰し、ようやくにして落合がベストと考える戦力が整ったのである。

 さらに、落合は、シーズン開始前から8月以降のスケジュールに対して、あらかじめ手を打ってあった。8月は、ナゴヤドームでの試合が17試合あり、すべてをナイターにさせたのである。夏休み期間だけに、デーゲームで家族連れの観客動員を狙いたいところだが、落合は、あくまで勝利を追求するため、疲れがたまる真夏のデーゲームを廃止したのだ。
 9月には23日からの3試合連続デーゲームにしたものの、3試合とも15:00開始として、選手のリズムを考慮している。さらに、リーグ優勝の行方に直結する10月のナゴヤドーム10連戦はすべてナイターとした。

 あとは、もはや疲れが見える他チームとの差は、明らかだった。私が中日の優勝を確信したのは、9月7日の巨人戦である。この試合は、先発山井が好投して3−2で勝利する。山井に目途が立ったことで、先発ローテーションに隙がなくなり、負けが込む要素が全くなくなった。
 落合が8年間かけて作り上げてきたチームの理想形。それは、落合自身が語るこの言葉にある。
「チームで勝つという唯一最大の目標を達成するためには、パフォーマンスをある程度計算できる、投手を中心に試合運びを考えざるを得ない」
「負けない努力が勝ちにつながる」(『采配』ダイヤモンド社 2011.11.17)
 残り試合を全勝できる状態にチーム力を整えた中日は、他チームを圧倒する。9月を15勝6敗3分で勝ち抜けた中日は、10月も優勝を決めた18日まで10勝4敗2分という強さを見せたのである。


 5.優勝の裏側にあった陰謀〜2011年〜

 2011年10月18日、球団史上最大の10ゲーム差を逆転して、球団史上初のリーグ連覇を成し遂げた中日。しかし、優勝後、次々と明らかになってくる事実は、まるで映画のような衝撃的裏事情だった。
 数々のメディアで流れた情報を時系列の順に並べると以下のようになる。

3月25日 中日球団社長に坂井克彦が就任し、球団代表に佐藤良平が就任。2人ともアンチ落合派として有名。ここから落合解任ありきの悪意ある陰謀が進んでいく。
6月20日 中日公式ファンクラブ事務局長が株主総会で落合のファン感謝祭欠席などを批判。しかし、後に、ファン感謝祭ではドームで出番を待っていた落合監督を呼ばなかったという事実が発覚。中日は、前日に交流戦を終え、セリーグで唯一勝ち越しを記録していた。
7月後半 前半戦終了時、中日球団から落合監督へ続投要請なし。借金2ながらリーグ2位の成績。
8月5日 5位転落を受けて東京スポーツの取材に中日の坂井球団社長が監督人事に言及。たとえ好成績でも落合解任の方針をほのめかした。
9月6日 中日が巨人に敗戦した試合後、中日球団幹部がガッツポーズをしたのを複数の人々が目撃。
 その後、ヤクルト戦でも、敗戦後にガッツポーズをして目撃される。
9月22日 4.5ゲーム差を追う首位ヤクルト4連戦直前、中日球団が一方的に落合監督解任を発表。解任理由は「新しい風を入れる」
10月4日 前日に首位ヤクルトまで2ゲーム差となり、13連戦初日のこの日、中日球団が石嶺和彦・高木宣宏コーチの解任を発表。
10月6日 前日に首位ヤクルトまでゲーム差なしとなり、中日球団は、森繁和・辻発彦・小林誠二・田村藤夫・笘篠誠治・高柳秀樹・奈良原浩・垣内哲也・勝崎耕世の大量9コーチ解任を発表。
 その日のナイターで、中日がついにヤクルトを逆転して首位浮上。
10月18日 中日が横浜と3−3で引き分け、球団史上初のリーグ2連覇を達成。

 こう見てみると、中日の球団社長坂井克彦と球団代表佐藤良平は、就任当初から、落合を解任させることだけを目的に動いていたと断定できる。そして、中日にリーグ優勝の可能性が高くなっていく9月からの露骨な妨害工作は、あまりにも悪質な手口だった。ここまで自らの球団を優勝させないように妨害した球団幹部は、前代未聞にちがいない。中日ファンでさえ、多くがネット上で失望を隠せなかった。
 だが。落合監督やコーチ陣、選手たちは、そんな妨害をものともせず、プロフェッショナルに徹してリーグ優勝を勝ち取った。特に9月7日からの成績は、他の球団を圧倒して24勝8敗4引分である。
 このシーズンの流れは、そのまま映画化してほしいほど奇想天外なストーリーである。野球は、小説や映画を超えていく。

 私は、このシーズンのはじめ、『シリコンバレーからドラゴンズを語る』というブログを見つけた。中日の試合と落合采配を日々解説しているため、楽しく読ませてもらっていた。落合監督退任とともにブログも幕を閉じてしまうのだが、そのブログのあとがきは、私の想いをも代弁してくれていた。
「中日ファンとして、尊敬できる素晴らしい人が監督を務め、結果これまでに無いペースで勝ちをもたらしてくれたというこの至福の8年間において、論理的に物事を見るスキルがないために逆につまらない8年間を送ってしまったとすればそれはおおいなる損失であるように思う」

 この文章こそ、落合監督の8年間への感謝と、優勝を目指して応援するファンの想いを踏みにじった中日球団への非難が集約されている。
 今回の落合監督解任騒動を振り返ると、中日の球団幹部やOBに、少なからず、中日が勝ち続けるのをつまらなく思っていた人々がいたわけである。
 全国を騒然とさせた敗戦ガッツポーズ騒動には、後日談もある。
 中日球団が球団幹部の敗戦ガッツポーズ報道で実名を記載されたことに対し、デイリースポーツに抗議して謝罪文を掲載してもらったのである。
 本人確認を怠った、ということだが、本人確認して「落合解任を実現するため、敗戦を喜び、ガッツポーズした」とさすがに自白することはないだろう。
 それゆえに、あくまで中日球団の自己満足と世間からの批判対策にすぎないのだが、首位攻防の各ポイントで監督・コーチの解任を連発しておきながら、リーグ優勝してしまったから批判されるのを避けようという魂胆はいただけない。本気で敗北を願っていなかったのなら、監督・コーチの大量解任を即座に撤回すべきなのが筋だからである。
 謝罪文騒動では、中日球団が落合野球を支持しているのか、支持していないのかの方針が世間に全く伝わらない。無駄に表面を取り繕おうとするあまり、球団の方針が見えなくなってしまっている。

 中日球団は、もっとはっきりと自らの方針をファンに伝えた方がよかった。長年、中日を見てきた者からは、既に状況から分かるため、ネットのファンの間ではいろいろ論じられているのだが、表面的なファンやその他の野球ファンには伝わらないからである。

 中日球団は、2012年のスローガンを「Join us ファンと共に」に決めた。落合監督の下では8年間常に「ROAD TO VICTORY」である。私が愕然としたのは、2012年のスローガンに勝利の意味がすっかり消えてしまったことである。
 もはや中日球団が求めるのは、優勝し続けるプロフェッショナルな野球ではない。3試合のうち、2試合負けても、1試合を華麗なホームラン攻勢で勝つ華のある野球だ。0点に抑えて1点を守り切り勝つ強い野球ではだめなのだ。つまり、素人好みの野球である。これは、8月に東京スポーツのインタビューで球団社長の坂井自身が「やっぱりファンは打たないと興奮しない。素人はそうですよ。僕も素人だからそう思います。特にホームランをね。」という同趣旨の発言をしている。
 そして、中日球団は、能力のある指導者で固めるのではなく、生え抜きの元OBの働き場所を確保し、彼らのファンとタニマチでシーズンチケットを売りさばく。強くなってチケットに結びつかない全国的なファンを増やすことよりも、弱くとも地元企業との結び付きを強め、チケットに結びつく地元ファンを増やしたい。

 中日球団が首位攻防戦や首位奪回の過程で、監督やコーチの解任を連発したのは、中日球団が落合野球とは異なる道を選択することへの強い決意である。
 実際、8年間で4回優勝する野球を捨てて、67年間で5回優勝する野球に戻すのは、勇気のいる決断ではある。とはいえ、ホームランを多く見たいファンを満足させる野球を目指すのも、理解できないわけではないので、私は、中日球団の方針を否定はしない。
 仮に中日球団の目指す野球が開花し、落合野球の遺産である投手力・守備力・走塁力を何とか維持できるなら、今後数年は優勝争いできるだろう。
 問題は、中日が緻密で玄人好みな落合野球から脱却することで、本当にファンを増やせるか、である。
 ただ、一つ私が言えるのは、落合が見せた野球以上のものを見せられないという大きな弱点を埋め合わせられるだけのサービスを作り上げるのは極めて困難だということである。


 6.引退後、どの球団で指導者をするか〜2003年以前〜

 1998年、落合は、この年限りで20年間に及ぶ現役生活を終えた。私は、まだ代打の切り札なら充分に戦力となると確信していたが、そういう役割で落合を獲得する球団はついには現れなかった。
 落合も、正式な引退表明をせず、自由契約選手として獲得球団を待ち、どの球団も獲得の意向を示さなかったことで現役生活に幕を閉じたのである。
 自分を最も必要とする球団で働き、必要とされなくなったら自然に引退する。そうやってプロ4球団を渡り歩いてきた落合は、最後まで自らの意志を貫き通した。

 落合の現役生活が終わったとき、私は、落合がどの球団の指導者になるか興味を持った。4球団に所属したが、巨人は生え抜き以外監督になれないという不文律があるため、可能性が高いのはロッテ、中日、日本ハムの3球団だった。
 しかし、落合は、現役生活を通じて一匹狼のイメージがつきまとい、独自の言動と練習法は、「オレ流」と称された。また、マスコミに多くを語らないため、残した成績の割には称賛されることは少なく、最も高く評価してもらえる球団で働くという一貫した姿勢は、マスコミからの標的となった。

 ロッテ在籍時は、落合の良き理解者であった稲尾監督解任を受けて、落合が球団批判を含む発言をしたと、マスコミに書きたてられ、追い出されるように中日に移籍している。日本ハム時代には指導者との野球観の違いから気力を持続させられず、代打に追いやられて引退することになった。
 その中で、中日との関係は、良好なまま残っていた。1991年の年俸調停やFA宣言で中日球団と溝があるように世間では受け止められていたが、実際の年俸調停は球団と落合が合議の上で第三者に判断を委ねるのが最善と判断したためである。また、FA宣言での巨人移籍は、選手の権利を強固にしたい、という想いと、落合が少年の頃から唯一の憧れであった長嶋茂雄監督の力になりたい、という強い想いが重なったためである。中日球団と高木監督は、落合のFA宣言に理解を示し、円満な話し合いを経て巨人移籍が決まっている。親会社である新聞記者との関係も、中日スポーツの記事を見る限り、在籍した7年間、ずっと良好だった。

 だが、たとえ中日球団との関係が良好であったとしても、生え抜きでもなく、FA宣言で出ていった落合を監督として招へいするとは、なかなか考えにくかった。
 その通り、落合は、1999年から2003年まで5年間にわたって、どの球団の指導者にもなっていない。一度、2001年に落合は、横浜のキャンプに臨時コーチとして3日間だけ指導を行っているのみである。これは、横浜の森祇晶監督が落合の卓越した打撃技術を認めて起用したためで、お試しの意味合いが強かった。
 落合のプロ指導経験は、これだけだった。

 そして、もう1つ落合を指導者として起用し辛い点は、落合が現役生活で圧倒的な成績を残していながら、20年間でリーグ優勝3回、日本一1回という平凡な優勝実績しかないことだった。落合は、3回も3冠王を獲得しているが、そのうち1度もチームは優勝できなかった。口の悪いマスコミは、落合を唯我独尊の人のように書き立てたため、落合は、チームより自分の成績だけを考えてきた個人主義者のレッテルを貼られてしまっていたのである。

 事実、落合自身も、後に語っているように、自らを監督に起用する球団が出てくるはずはない、と高を括っていたようである。それは、世間の見方も私の見方も同じだったのだが、私は、仮に指導者になる可能性があるなら中日、というかすかな予感だけは持っていた。


 7.コーチ経験なしでいきなり中日監督に就任〜2004年〜

 落合が指導者になるときは、大きな衝撃とともにやってきた。2003年10月8日、くしくもあの伝説の10.8決戦と同じ日に中日監督への就任が発表になったのである。落合が選手として中日をFA宣言で出て以来、10年がたっていた。

 なぜ落合を監督にするのか。一匹狼のイメージがあまりに強いため、当時の中日ファンの間では動揺が広がった。
 落合の監督起用を決断したのは、白井文吾オーナーだった。白井は、落合の著書を購読し、その理論に感銘を受けて監督に起用したのである。
 1990年代に入って以降、14年間で1回しか優勝のない中日にとって、強いチームを作ることは至上命題だった。

 白井がチームを強化するために、数多くのプロ野球選手OBの中から選び抜いたのが落合なのである。
 落合は、白井の要請を受けて、当初は、監督業を引き受けるかどうか迷っている。そんな中、家族の後押しと、コーチ人事の全権を任されるという契約により、落合は、中日監督に就任した。

 落合は、監督就任後、当時の常識を覆す言動によって、チームを改革していく。その斬新さについては、私も、コラムの中で驚きと期待を持って書き留めている。
 伝説のコラム『プロフェッショナルの理論  〜落合博満新監督の斬新さ〜』

 だが、そうした期待を持って見ていたのは、私をはじめとする落合ファンだけだった。
 周囲の反応は、極めて冷ややかで、マスコミや選手、ファンも期待よりも不安の声が圧倒的だった。
 そんな中で、私の記憶に残っているのは、ニュースキャスターだった筑紫哲也と山本昌の発言である。
 筑紫哲也は、落合監督の就任会見後、ニュースでこんなコメントを残した。
「落合さんは、抜群に頭のいい人ですから、これからが楽しみですね」
 山本昌も、落合監督就任に対するコメントとしてインタビューにこう答えた。
「これからやりやすくなるんじゃないですか」
 筑紫は、ニュースキャスターとして長年にわたって落合を取材してきていた。山本昌もまた、落合とは1987年からチームメイトとして7年間を過ごしていた。

 落合をよく知る者と落合をあまり知らない者とでは、反応が全く正反対になる。落合が発信するコメントは、4行詩とも揶揄されるほど、哲学的で短い。それをマスコミが悪意を持って解釈するため、落合をよく知らない者は、マスコミが作り上げた虚像を信じてしまう。それゆえに一般的なプロ野球ファンは、選手が誰も付いてこない独裁的な指導者になるのではないか、という見方をしてしまったのである。

 今になって思えば、まさに筑紫哲也と山本昌の発言は、的を射ていたことになる。ほとんど補強なしに常に優勝争いをするチームを作り上げ、選手やコーチとは相互信頼の上で好結果を残し続けたからである。


 8.サプライズ〜2004年〜

 サプライズという言葉が流行したのは、2004年である。小泉純一郎首相が武部勤を幹事長に起用し、田中真紀子を大臣に起用した人事などがサプライズと話題を呼び、競馬のCMにも使われたことによって、全国でこの言葉が浸透して流行語となった。
 そんな中で、落合監督の開幕投手川崎憲次郎起用もまた、サプライズとして有名になった。小泉首相退陣後も、落合が山井交代をはじめとする様々なサプライズ采配を見せたことによって、サプライズは、小泉純一郎よりも落合のイメージの方が強くなってしまった感さえある。

 現在も語られることが多い就任1年目だけ見ても、現有戦力10%の底上げで優勝発言、1年間の解雇凍結、2月1日のキャンプ初日に紅白戦、6勤1休の質量ともに豊富なキャンプ、川崎憲次郎の開幕戦先発、攻撃よりも守備に重点を置いて起用する采配などが挙げられる。

 しかし、それよりも私が評価したいサプライズが2つある。
 まず1つは、落合が森繁和を投手コーチに起用し、投手陣に対する全権を任せたことである。
 驚くべきことに落合と森は、それまで一切交友がなかったという。アマチュア時代に日本代表のチームメイトとなったことがあり、またプロ野球選手としても活躍していたので、球場で話をすることはあっただろうが、それ以上の親交はなかったのである。

 なのに、落合は、なぜ森に投手陣をまるごと預けたのか。これは、落合の著書『采配』にもあるように、現役時代の落合が投手でなく、打者だったためである。投手の状態を正確に見極めて指導や起用を行うなら、投手出身者が最適である。そこで、西武の黄金時代を知りつくし、常に主力投手・投手コーチとして活躍し続け、1度もユニフォームを脱いだことがないほど重宝されていた森に声をかけたのである。

 そのほかにも、高代延博、長嶋清幸も同様に、選手・コーチを通じてユニフォームを着続けてきた選手。そして、石嶺和彦は、現役時代に最も内角打ちが上手かったと落合評価している名選手。落合は、どの球団もが必要とするコーチ、卓越した技術を持つコーチといった能力重視の選択をしたのである。
 この4人は、いずれも選手時代に中日でプレーしたことがなく、いわゆる「外様」である。彼らを主要なコーチに抜擢できたのは、落合が球団との監督契約時に、すべてのコーチ人事権を監督が持つ、という条件を監督就任の必須事項としたからである。
 こうして落合が個性豊かな4人の外様コーチを起用し、それぞれが自らの持ち味を存分に発揮できる場を提供したとき、もはや2004年の中日がどのような成績を残すかは、約束されていたと言っても過言ではない。


 9.守護神に岩瀬を抜擢〜2004年〜

 落合監督の2つ目のサプライズは、守護神岩瀬である。
 2003年の中日は、前半がギャラード、後半には大塚晶則が主に守護神を務めていた。しかし、ギャラードは、首脳陣との確執から2003年中盤に横浜に移籍、大塚も2003年オフに大リーグ移籍が決まり、守護神を務める投手がいなくなった。
 絶対的な守護神ギャラードがいた中日が近鉄の守護神だった大塚をとったことで、チーム内のバランスが崩れ、1年で両方がいなくなってしまうという失態を招いた。現代野球にとって守護神不在は、非常事態である。

 こんなとき、通常であれば先発投手の1人を守護神に転向させる、あるいは、他球団やアメリカから守護神を獲得する、という手段が主流だった。
 しかし、中日の場合、落合が現有戦力で臨むことを決めており、外部からの補強は考えられない。
 そうなると、先発投手の1人を守護神に転向させるというのが通常の手段ではあったが、落合は、それをしなかった。
 1999年から5年間にわたって中継ぎをしてきた岩瀬を守護神に抜擢したのである。
 当時、岩瀬は、守護神向きとは思われていなかった。ギャラードや大塚のような剛速球や落ちる球があるわけではない。高津のようなサイドスローの変則フォームでもない。揺れ動く直球と真横に曲がるスライダーを駆使して絶妙のコントロールで打ち取るタイプである。性格も、優しくて穏やかだ。
 同じチームには剛腕タイプの落合英二や岡本真也がいるため、彼らを守護神に起用する選択肢もある。
 それでも落合が岩瀬を守護神に抜擢した理由は、最も打ちにくい投手だから、というものだった。確かに、岩瀬は、それまで通算防御率が1点台であり、中日で最も打たれない投手である。理論的には守護神にふさわしい。落合は、評論家時代からギャラードや大塚よりも岩瀬を高く評価していた。仮にどちらかが中日に残っていたとしても、いずれは守護神岩瀬の決断をしたはずである。

 しかし、岩瀬は、2004年の開幕直前に左足小指を骨折し、前半戦は極度の不振に陥って防御率は5点を超えた。5月11日には延長10回に岩瀬が決勝打を浴びて敗れ、チームも最下位に転落する。その3日後にも9回に決勝打を浴びて敗れる。
 他球団であれば、間違いなく守護神失格の判断を下しただろう。しかし、落合は、岩瀬の降格を否定し、その後も守護神の座から降ろさなかった。故障が完治し、抑えの役割に慣れれば、必ず結果を残すことを見抜いていたからである。
 落合の期待通り、岩瀬は、6月以降、立ち直って守護神の座を自分のものにし、守護神岩瀬は、落合政権の8年間の象徴となった。2003年まで通算6セーブだった岩瀬は、2004年からの8年間で実に307セーブを稼ぎ出した。その間、プロ野球記録となるシーズン46セーブ、前人未到の3年連続40セーブ以上・40セーブ以上5度・通算300セーブまで達成したのである。
 落合は、年に何回か岩瀬が打たれて負ける試合があると、決まってこうコメントした。
「岩瀬で負けたら仕方ない」
 どんな状況にあっても決して岩瀬を責めない落合に、岩瀬は、落合退任後、感謝の言葉を述べている。


 10.はじまりは開幕投手川崎憲次郎〜2004年〜

 もはや世間で語られ尽くした感のある開幕投手川崎憲次郎。しかし、監督落合を語る上で、この話題を避けて通ることはできない。
 その大きすぎるインパクトのせいで、中日では落合が先発投手をすべて決めていたと誤解している人々もいるが、8年間の中で落合が先発投手を決めたのは2004年開幕投手の川崎憲次郎ただ1度のみである。
 あとは、投手コーチの森繁和が決めていた。
 なぜ、この試合だけ落合が先発投手を決めたのか。それは、様々なメディアによって明らかになっている。
 落合が川崎先発を本人に言い渡したのは、2004年1月2日である。

 かつてヤクルトのエースだった川崎は、2000年にヤクルトで8勝を挙げた後、2001年から中日へFA移籍したものの、開幕前に右肩を故障して1軍登板は3年間なかった。4年契約であったため、川崎は、この年に成績を残さなければ、引退するしかない。
 2003年、川崎は、2軍で13試合に登板し、59回2/3で4勝4敗、防御率5.58の成績しか残していない。右肩故障の影響で往年の球威はない。
 それどころか、2年以上1軍登板をせず、年俸2億円をもらい続ける川崎に対する反感から、ネット上では「見せしめとしてオールスターゲームに出場させよう」という運動が起こった。メディアが乗っかるようにそれを煽った。そして、ついに2003年7月2日にはオールスターゲームの人気投票で1位に選出されるという異常事態となったのである。
 川崎は、ファン投票1位選出が決まった日に辞退届を出したが、その心中は、苦悩に満ちていた。故障から元の状態まで回復せず、思うように投げられず、それでも契約上払われ続ける高年俸。まさにFAが生んだ最大の悲劇だった。

 落合は、そんな川崎を外部から3年間、見続けてきた。落合自身も、故障で戦列を離れた経験を持ち、メディアにさんざん叩かれてきただけに川崎の気持ちを理解していた。このままなら、屈辱的なオールスターファン投票1位選出という事実が川崎の現役最後の記録になってしまいかねない。
 だからこそ、2004年の川崎を何とか後押ししたかった。それは、中日の選手たちの多くが抱いている想いでもあった。
 
 それならば、川崎をどこで起用するか。落合にとっても2004年は、プロ野球の監督1年目なので、最も重要な年である。使いどころを誤って、優勝争いから脱落するようなことがあってはならない。
 熟考の末、落合が下した決断は、川崎の開幕戦先発だった。

 落合は、川崎復活のため、最大限のサポートをした。2月1日の紅白戦で先発させた後、オープン戦では中9日で登板させるなど万全の調整をさせたのである。
 そして、開幕3連戦での3連敗を避けるためにエース川上を第3戦で起用するという秘策もあった。
 すべてが極秘で行われたため、開幕投手を事前に知っていたのは、選手では川崎と谷繁だけだったという。

 2004年4月2日、開幕の広島戦に先発した川崎は、あえなく1回2/3で5失点を喫してKOされた。しかし、ここから中日の選手たちは、川崎の負けを消すために必死の反撃を開始する。のちに大リーグでも安定した活躍を見せる広島のエース黒田博樹を攻め、2回裏に2点を返すと、5回に1点、6回に2点を挙げて同点に追いつく。そして、7回裏には立浪の犠牲フライで勝ち越し、さらに2点を追加して一気に試合を決めたのである。
 落合は、著書『采配』(ダイヤモンド社 2011.11)の中でこう振り返っている。
「何よりも、春季キャンプから復帰を目指す川崎の背中を全員が見て、開幕戦では何とか川崎を助けようとプレーしてくれたのが大きかった。」
 故障からの復活に向けてもがき苦しむ名投手をチーム全員で盛り立てようとして勝ちに行く姿勢こそ、落合がチームに求めたものだった。
 開幕戦に全員で協力して勝ち取った勝利は、開幕3連勝という相乗効果を生んだ。2004年の命運を決めた試合にもなり、落合政権を象徴する試合ともなったのである。
 落合は、2011年11月22日の監督退任会見で最も印象に残った試合として、この開幕戦を挙げている。

 残念ながら、川崎は、復活できなかった。その後、川崎は、4月30日の横浜戦で先発するも、1死もとれずに4失点で降板した。 
 川崎は、この年、2軍で11試合に登板している。48回1/3投げて4勝2敗、防御率3.54。2軍では何とか通用しているが、1軍では通用しない状態である。
 中日のリーグ優勝が決まった翌日の10月2日、落合は、川崎に自ら戦力外であることを告げ、川崎は、他球団移籍を検討せず、即座に引退を申し出た。
 翌10月3日、川崎は、古巣ヤクルト戦で先発登板する。これは、川崎の引退試合であり、多くのファンに見守られながら1回を投げて三者三振で締めた。
 しかし、今となっては、ヤクルトで一時代を築いた名投手川崎憲次郎の壮大な引退試合は、この試合ではなく、あの2004年4月2日開幕戦だった。そして、その開幕戦先発のおかげで、川崎は、屈辱のオールスターファン投票選出投手から、落合政権最初の開幕投手として知名度を上げ、華麗な引退試合で有終の美を飾ることができた。
 それとともに、開幕投手川崎起用は、落合が選手想いで、選手の気持ちを大切にする監督であることをチーム内外に知らしめ、中日は、リーグ制覇に向けて確かな歩みを進めることになったのである。


 11.2004年は独走優勝〜2004年〜

「井端のサードゴロが収穫といえば、一番の収穫」
 これは、2004年5月11日にヤクルトに敗れて最下位に沈んだ試合後、落合が発したコメントである。
 井端は、この試合で5打数無安打に終わり、0−2で迎えた6回裏1死1塁の場面では、サードゴロ併殺打に終わっている。
 当時、落合の意味不明発言として一部メディアでは話題になった。何せ、最悪の結果とも言える併殺打を褒めたのである。このようなコメントを出した監督は、プロ野球史上前代未聞だった。
 
 確かに井端は、好調ではなかった。この試合を含めて直近5試合で15打数3安打。左方向へのヒットもなかった。この試合も、サードゴロ併殺打のあと、2打席を凡退している。結果だけ見れば、褒める要素は、どこにもなく、けなす要素しかないのである。
 落合は、選手を決してけなさない。どれだけふがいない結果を出したとしても、なじろうとはしない。選手が怒られるのを避けようとプレーするのを防ぐためでもあり、選手を守るためでもある。選手の結果が出ないのは、起用した監督が悪いのだから監督がすべての責任をとる。それゆえに、目先の結果だけにとらわれず、その前後の流れまで見ることができるのだ。
 結果は、最悪であったとしても、間違ったことをしていなければそれを認めるという姿勢を落合は、マスコミを通じて選手たちに知らしめようとした。

 落合が井端のサードゴロを褒めたのは、不振に陥りかけていた井端だけでなく、チームの打線自体が低迷しかけていたからである。そんなときに積極的にバットを振り、強いサードゴロを打った井端を評価したのである。
 その言葉は、早くも翌日に実を結ぶ。井端は、左方向への安打を3本放つなど4打数4安打と調子を取り戻し、打線は15安打を放って大量9得点で勝利したのである。この年、井端は、初のシーズン打率3割超えを記録し、リーグを代表する打者へと成長を遂げていくことになる。

 この年の中日は、6月22日に首位に浮上すると、安定した戦いぶりを見せる。危機があったとすれば、7月29日から31日にかけて3連敗を喫し、2位と2.5ゲーム差で8月に入ったときだろう。
 しかし、その3連敗目でも、落合のコメントは、他の監督では決して出てこないものだった。
 その試合は、中日が1点を先制したが、6回表に英智が捕れそうなレフトフライを落としてしまい、逆転を許す。記録ではエラーにはならなかったものの、明らかなミスである。中日は、再逆転できないまま、3連敗を喫することになったのである。
 当然、試合終了後、記者たちは、戦犯とも言える英智に対するコメントを求めた。
 落合は、穏やかにこう答えている。
「あいつが捕れなきゃ、誰も捕れない」
 この言葉こそ、私が8年間で最も衝撃を受けた言葉である。他の監督なら、厳しく叱責する、スタメン落ちをほのめかす、といった主旨の言葉が並ぶはずである。
 しかし、英智の突出した守備力と走力を高く評価していた落合は、どこ吹く風の前代未聞なコメントを残したのである。当時、レギュラーを捕る勢いだった英智のミスを完璧なまでにかばい、翌日は、何もなかったかのようにスタメンで起用した。
 結果的に、英智は、その後も素晴らしいプレーを見せて、福留がアテネ五輪で抜けた穴を必死に埋め、リーグ優勝に貢献するとともに、ゴールデングラブ賞を獲得したのである。

 中日は、3連敗で7月を終えたものの、8月に入ると他チームが失速する中、厳しいキャンプで培った猛練習の成果が出て安定した強さを見せる。アテネ五輪で守護神岩瀬と4番打者福留が抜ける状況でも、8月を15勝8敗の好成績で終える。岩瀬の穴を投手陣では岡本真也・落合英二・平井正史らが埋め、福留の穴は、アレックス・英智・井上一樹・大西崇之らが埋めたのである。
 さらに、9月にはアテネ五輪から戻った4番打者福留が骨折して離脱し、球団再編騒動で2試合がストライキで中止になるというハプニングがあったものの、13勝8敗で切り抜け、10月1日の広島戦では敗戦しながらもリーグ優勝を決めた。
 落合野球は、1年目から投手を中心とした守りの野球を貫いた。打率はリーグ5位で本塁打数は最下位ながら防御率はリーグ1位を記録。1年が終わったとき、首位に立っているように、少ない得点を投手陣と守備陣が守りきる野球を1年間実践したのである。
 日本シリーズでは3勝2敗と王手をかけながら、西武の松坂大輔・石井貴の好投によって連敗を喫し、50年ぶりの日本一は逃したものの、監督1年目の成績は文句のつけようがなかった。

 補強なしで勝てるはずがない、という前評判を覆し、リーグ優勝を果たしたため、もはや補強なしで次の年もいける。周囲は、そう考えてしまうものだが、落合は、ある部分の補強を断行する。


 12.初めての補強〜2005年〜

 右の日本人四番打者を育てる。それは、落合が就任時に発した公約の1つであった。それは、いわば三冠王を3回獲得した落合自身の後継者を作ることでもある。
 外国人選手でも右の四番打者は任せられるが、外国人選手の日本での野球生活は、一部の例外を除いてほとんどが5年に満たない。
 安定して四番を任せられることを最優先で考えれば、日本人の若手の中から四番打者を作り上げることである。数多くの右打者がいる中日で、その中から四番打者を、という理想は、選手を横一線でスタートさせた落合政権にとって大きな活性化材料となった。

 現有戦力の中から右の四番打者候補として、落合は、田上秀則、高橋光信、桜井好実、幕田賢治、仲澤忠厚、前田章宏らに期待をかけた。しかし、若手の中から四番打者を短期間で作り出すのは容易ではない。それまでくすぶっていた選手が突然開花することもないわけではないが、通常は、2軍で実績を残し、1軍で徐々に出場機会を増やしていき、レギュラーを勝ち取って大打者へと成長していく。  落合も、それを分かっていながら、若手を成長させるため、あえて四番打者という最大の目標を掲げて鼓舞したのである。

 結局、2004年のシーズンを通して、若手の中から日本人四番打者は現れなかった。四番打者は、既に実績を残してきた左打者の福留に頼るしかなかった。いきなりリーグ優勝を果たしたものの、リーグ覇者として研究され、追いかけられる身となれば、さらにチームを強化する必要がある。
 2004年は、自らの目ですべての選手の実力を見極めていないからこそ、解雇と補強を凍結して1年間、様々な選手を起用して試した。その結果、落合は、2004年の反省を踏まえた練習の強化だけでは、まだ足りないと考えた。そこで、落合は、解雇を解禁するとともに、チームに欠いている右の四番打者補強を進めたのである。

 そして、獲得に動いたのが、タイロン・ウッズである。ウッズは、横浜で四番を打ち、本塁打王を獲得しながら複数年契約が叶わず退団していた。突出した飛距離を誇るスラッガーでありながら、広角に打てる技術を持ち、打率もいい。2003年から2年連続で40本塁打以上を記録しており、まさに落合が理想とする右の四番打者である。守備に不安こそあったものの、それをカバーして余りある打撃は、チーム最大の得点源となる可能性を秘めていた。
 落合は、理想のチームを作り上げるため、アメリカ人であるウッズを四番に据え、球団史上初となるリーグ連覇と51年ぶりの日本一を狙いに行く強い姿勢を示したのである。


 13.2つの失敗〜2005年〜

 2005年、中日は、セリーグチャンピオンとして順調ななスタートを切った。開幕の横浜戦ではアレックスのサヨナラ満塁本塁打で川上が4−0の完封勝利を挙げ、そのまま交流戦の開始前の5月5日まで20勝9敗で2位に5ゲーム差をつける独走態勢を築いていた。
 ウッズを四番に据えた打線が順調に機能し、投手陣も安定した投球を続けた。マスコミは、今年も中日がこのまま優勝するのではと書き立てていた。

 しかし、このとき、中日は、2つの失敗を犯していた。私は、落合の8年間をすべてが完璧で、落合の采配に何のミスもなかった、と称賛するつもりはない。
 どんな名監督で優れた理論や計画を持っていたとしても、必ず失敗はある。想定外の出来事が起こって、理論や計画が破たんしてしまうことがある。
 それが悪い方向に出てしまったのが2005年5月だった。
 まず、5月5日のヤクルト戦で、四番打者として活躍していたウッズが試合中に暴行を働き、10試合の出場停止処分を受けてしまったのである。10試合離れるということは、試合勘が戻るまでさらに5試合ほどかかると考えれば、15試合を不完全なチーム状態で戦わざるを得なくなったということである。

 それだけではなかった。2005年5月6日からは、プロ野球史上初のセパ交流戦が始まることになっていた。
 やってみなければ、ペナントレースにどのような影響が出るかわからない交流戦について、落合は、インタビューでこんなコメントを出した。
「交流戦は、5割でいけばいい」
 こんな余裕のコメントが失敗だった。タイロン・ウッズを欠き、交流戦の目標を低く見積もった中日は、初戦に完封負けを喫すると、最初の10試合で2勝8敗と大きく負け越し、交流戦開始から20試合で5勝15敗というありえない成績を残してしまう。
 そうしているうちに、交流戦で勝ち星を重ねて上がってきた阪神に5月22日には首位を明け渡すことになる。

 交流戦の終盤には若干盛り返したものの、結局、中日は、15勝21敗の9位に終わる。逆に阪神は、21勝13敗2分のセリーグ1位、全体でも3位の好成績を収め、中日に2ゲーム差をつけてセリーグ首位に躍り出たのである。


 14.敗北感なき敗北〜2005年〜

 交流戦は、想定以上の惨敗だった。横浜より下位に沈み、中日より下にいたセリーグチームは広島だけだった。落合は、その後、2度と「交流戦は5割でいい」という発言はしなかった。
 翌年以降、落合は、この年の反省を踏まえて常時10人を超えるスコアラーにパリーグ6球団を徹底的に研究させ、2006年以降は交流戦でも安定した成績を残していくことになる。
 しかし、この年だけは、もはや取り返しがつかない失敗となってしまった。何せ中日は、5ゲーム差をつけたセリーグ首位で交流戦に入りながら交流戦終了後には阪神を2ゲーム差で追う展開となり、実に交流戦だけで7ゲーム差をつけられた計算となる。

 それでも、逆転でリーグ優勝を果たすチャンスがなかったわけではない。中日は、8月に2度、首位阪神まで0.5ゲーム差に詰め寄っているからである。
 1回目は、8月9日の直接対決に勝利して8月10日を迎えたときである。この日も、直接対決で、中日は、先発朝倉、阪神は、先発福原で始まった。ナゴヤドームでの試合であり、追い詰めた中日優位な状況の中、朝倉が金本に初回から3ラン本塁打を浴びるなど、5回4失点と崩れ、3−5で試合を落とす。
 そして、2回目は、8月31日に中日が直接対決で勝利し、0.5ゲーム差で9月1日の直接対決を迎えたときである。この試合は、甲子園で行われ、中日が先発山本昌、阪神が先発下柳で始まり、中日が幸先よく初回に1点を先制する。しかし、3回に山本昌が今岡に逆転3ラン本塁打を浴び、結局、1−8で大敗してしまった。

 この2試合は、勝っていれば、中日が逆に0.5ゲーム差をつけて首位だっただけに、ペナントの行方を占う重要な1戦と言えた。ここで勝っていても、リーグ優勝できたとは限らないが、勝っていれば、少なくとも最終的に大差がつく展開にはなっていなかったはずである。

 9月1日の敗北後、阪神が加速したのに反し、中日は足踏みを続け、結局9月29日には阪神に8ゲーム差をつけられ、リーグ優勝を奪われてしまう。この年の阪神は、J・ウィリアムズ、藤川球児、久保田智之が台頭してきて、いわゆるJFKの強力3枚救援陣が誕生し、その勢いは最後まで衰えなかった。

 しかし、仮に交流戦の7ゲーム差がなければ、どうなっていたか。結果が出た後に、過去の過程を語るのは野暮だが、計算上は阪神がリーグ優勝を決めた9月29日時点でもまだ0.5ゲーム差しかなかったことになる。それ以前に、8月31日の段階では6.5ゲーム差をつけて首位を走っていた計算になり、阪神が勢いづいてリーグ優勝に突き進む展開にはならなかったはずだ。仮に2005年の交流戦が2004年以前のように存在しなければ、中日が連覇を果たしていた可能性は限りなく高い。

 阪神が優勝を決めた9月29日までなら、中日のシーズン成績は、77勝61敗。交流戦の成績を除けば62勝40敗。交流戦抜きで見れば、中日が優勝していてもおかしくない成績であったことが分かる。

 2005年の中日は、敗北だったのか。その問いに私は、敗北ではなかったと答えたい。
 セリーグでの戦いは、限りなく勝利に近い成績を残した。にもかかわらず、パリーグとの戦いでは惨敗した。
 まさに、中日は、敗北感なき敗北を喫したのである。それだけに、交流戦に入る前の2つの失敗はあまりにも代償が大きかったのである。
 落合は、ナゴヤドームでの最終戦後、選手の健闘を称え、ファンに対しては、V逸を自らの責任と謝罪した。そして、2006年に向けての準備をすぐに進めていくことを誓った。
 どのチームよりも、早く2006年に向けて動き始めた中日。完全制覇のため、一切の妥協はなかった。


 15.交流戦でのリベンジ〜2006年〜

 落合にとって2006年のリーグ優勝は、必須条件だった。監督1年目の2004年にリーグ優勝してしまった以上、それと同等かそれをしのぐ成績を残すしか、2007年以降へつなげる道はない。落合にとって最もプレッシャーのかかる年になる。
 落合は、前年のX逸により、さらなるチーム力強化を図った。ただし、前年のウッズ獲得のような補強はなかった。ドラフトで、後に落合政権で台頭してくる吉見、平田、藤井といった選手を獲得したのが目立つくらいである。現有戦力をさらに鍛え上げることによって、完全優勝できるチームを作り上げようとしたのである。

 しかし、2006年は、前年とはうって変ってスタートダッシュはできなかった。巨人が好調に勝ち星を積み重ねて首位に立ったからである。
 それでも、中日は、慌てなかった。地道な戦いぶりで貯金6、首位と3ゲーム差で交流戦に突入したのである。

 当時、前年の悪夢を思い起こして、中日の失速を心配する声は多かった。しかし、落合は、前年のような失態を繰り返すことはなかった。「5割でいい」発言はせず、主力選手を欠かすことなく、万全の状態で交流戦に突入させたのである。
 中日は、交流戦5試合目から5連勝するなど、セリーグ相手と同様に勝てる試合を堅実に勝つ野球で、交流戦を20勝15敗1分で4位というまずまずの成績を残す。前年に借金6を背負ったチームが貯金5を稼いだのである。その中でうれしい誤算として、若手投手の佐藤充が5勝0敗、防御率0.91という圧倒的な成績を残して台頭してきた。
 中日の成績も、前年とは逆になる。セリーグ2位で交流戦に突入した中日は、交流戦が終わったとき、2位阪神に1ゲーム差をつけてセリーグ首位に立っていたのである。

 この年も、前年同様、交流戦の成績がペナントレースの明暗を分けたと言っても過言ではない。
 交流戦まで首位を独走しようとしていた巨人は、交流戦を13勝23敗の11位と一気に負けこみ、ペナントレースから脱落する。一方で阪神が交流戦を21勝15敗の3位という好成績を残し、その後は首位の中日を阪神が追いかける展開が続くことになる。


 16.立浪から森野への世代交代〜2006年〜

 2006年は、落合政権の中で最も戦力が充実していた年と言っても過言ではない。投手陣も野手陣も、多くの選手が全盛期を迎えようとしていた。
 そんな中で、あるポジションのレギュラー争いだけがし烈になってきていた。
 サードである。
 サードには、長年、中日を攻守の要として支え、ミスタードラゴンズとも称賛された立浪が守っていた。しかし、立浪も、肩に故障を抱え、2005年は打率.253、エラー12と年齢による衰えも見られるようになってきた。
 それでも、打撃面では、立浪を凌駕する技術を持つ選手は、なかなか現れず、通常であれば、このままレギュラーでも問題はないはずだった。

 しかし、投手を中心とした守りの野球を掲げる落合にとって、立浪の守備の衰えは、深刻だった。
 それゆえに、交流戦から、落合は、まだ充分に使える立浪を控えに回して、森野と渡邊を先発サードで起用し始める、という決断を下した。

 この決断には大きな批判がつきまとった。立浪は、この年、37歳になるシーズンとはいえ、中日では最も安打を量産してきた天才打者である。ファンも多く、立浪のプレーを見たいがために、球場に足を運ぶ人々も数多くいる。
 中日スポーツやネット上にも「立浪を干すのか」「引退させる気か」といった投書・投稿をよく見かけた。打撃の成長株で、守備範囲も立浪より広く若い森野をサードのレギュラーに据え、チームを強化してリーグ優勝への足掛かりにする、という落合の戦略が立浪を愛するファンからの大きな反発になって返ってきたのである。それでも、落合の信念は、揺らがなかった。
 渡邊と森野の併用は、明らかに渡邊をつなぎとして、森野の成長を待つという体制だった。そして、8月に入ると森野は、持ち前の打撃力を生かして、レギュラーを獲得することになる。

 この年、もしリーグ優勝を逃していれば、立浪のレギュラーはく奪は、大きな落合批判となって、落合を退任にまで追い込んでいたかもしれない。
 しかし、落合は、チームのさらなる強化を図るために、森野をサードで起用し、ミスタードラゴンズを代打の切り札に転換させる。そして、驚くべきことに、これが落合政権最初で最後のシーズン中世代交代となったのである。


 17.阪神の追撃を振り切る〜2006年〜

 この年の中日は、打率・防御率ともにセリーグ1位を記録し、全5球団に勝ち越しという、いわば完全リーグ優勝であった。
 しかし、2位阪神とは打率で3厘、防御率で0.03しか違わない。そのわずかな差が3.5ゲーム差になった、とも言えなくはないが、その差以上に優勝争いはし烈を極めた。

 この年も、阪神は、井川・下柳・福原・安藤を中心に安定した先発陣とJFKの圧倒的な投手力によって、前年同様の強さを見せた。打線も赤星・金本・鳥谷・シーツを中心につながりがあった。
 しかし、中日も、川上・朝倉・山本昌・佐藤充・中田といた投手陣が充実し、リリーフも平井・岡本・岩瀬でJFKに匹敵する成績を残した。打線ではウッズ・福留・荒木・井端・森野・アレックス・井上らが安定した成績を残した。
 そんな拮抗する戦力の中で中日がリーグ優勝できたのは、勝つべき試合を確実に勝ったことにある。
 オールスター前に首位中日と2位阪神は1.5ゲーム差しかなかった。しかし、オールスター直後のナゴヤドーム直接対決3連戦で中日は投打に圧倒して3連勝を飾り、4.5ゲーム差に広げる。この3タテが中日の独走を加速させたと言っても過言ではない。

 ここで阪神との勝負を分けたのは、福留がオールスター後、初戦の阪神戦から3試合連続お立ち台の活躍を見せたことである。
 それは、右膝故障から1軍復帰に向けて2軍で調整していた福留が万全でないことを理由にオールスターゲームを辞退したことに端を発する。オールスターゲームを辞退すると、通常は10試合出場停止処分なのだが、特例規定で故障によるやむを得ない場合は処分の対象外になるのだった。
 ペナントレースを第一と考える落合は、福留に出場辞退を指示し、福留は、特例が適用されたオールスター直後の阪神3連戦にスタメンで大活躍して、首位争いをしていた阪神を3タテで突き放したのである。
 これは、阪神首脳陣や阪神ファンを中心に物議を醸し、結局、翌年以降、特例が認められないことに決まった。
 とはいえ、2006年は、ルールを熟知した落合がルールの範囲内でこの特例を巧みに有効活用した。リーグ優勝のために、些細なルールも見逃さない落合の緻密な戦略がペナントの行方を決したのである。

 この年は、2位阪神と3位ヤクルトの差が14.5ゲームあった。つまり、圧倒的に中日と阪神が強かったのだ。
 しかも、ペナントレースの鍵を握る9月は、中日が14勝9敗と好調であったが、阪神は、17勝4敗という中日をしのぐ成績で追い上げた。これほどまでの追い上げは、落合の想定以上で、8月には9ゲーム差あったのが10月7日には2ゲーム差まで縮まった。
 仮に10月8日の横浜戦で敗れれば、そのまま阪神に逆転を許しかねない状況にまで追い詰められたが、落合は、どんなに差を詰められても泰然自若とした余裕のコメントを貫いた。
 それは、投攻守すべての面で中日がわずかに阪神を上回っていることへの自信でもあり、監督が焦りや恐怖心を見せては選手の士気に影響することを知っていたからだ。
 中日は、ここでも10月8日から横浜・ヤクルト・巨人に3連勝し、阪神とのゲーム差を4に広げてリーグ優勝を果たす。重要な試合にことごとく勝利できた理由を求めるならば、落合のシーズンをトータルで考えた戦力配分が構想通りに実現したからである。

 それでも、10月10日のリーグ優勝後に見せた落合の涙は、阪神の追い上げがいかにすさまじかったかを物語る。
 10月8日の横浜戦は、一時は2−0とリードしながら、7回裏に3点を奪われて逆転を許し、8回表に2点を入れて再逆転するというシーソーゲーム。10月10日の巨人戦も、一時は3−0とリードしながらも3−3に追いつかれて、岩瀬を2回投げさせた挙句、延長12回に福留の決勝打とウッズの満塁本塁打で何とか勝つという苦しい試合であった。
 想定外の阪神の追い上げがありながら、構想通りの戦略で阪神をかわした落合会心のシーズンとなった。

 この年は、打線が爆発して圧勝する試合も数多くありながら、接戦も粘り強くものにするという勝ち方も多くあり、まさに落合が理想とするチームが出来上がった印象が強い。87勝54敗5分で貯金を33も作り、日本シリーズも圧勝に終わりそうな気配があった。


 18.最強でも日本シリーズ敗戦〜2006年〜

 充実した戦力でリーグ優勝を勝ち取った中日。日本シリーズは、日本ハムとの対戦が決まったが、下馬評は圧倒的に中日だった。
 ニュース報道は、セリーグがどうしても中心になる。そうであるがゆえに、6月後半以降、1度も首位を譲らずにリーグ優勝した中日の強さがあまりにも強烈だった。

 しかし、冷静に見てみると、日本ハムは82勝54敗で貯金を28作り、チーム打率やチーム防御率も、中日とほぼ互角なのである。今、振り返れば、日本ハムが日本一になる可能性もかなり高かったわけだが、私は、中日が圧勝すると信じ込んでチケット入手に躍起になっていた記憶がある。

 第1戦は、下馬評通りだった。ダルビッシュを序盤で攻略した中日が川上・岩瀬のリレーで4−2と勝利を収めたからである。
 第2戦も、6回まで2−1とリードする展開となる。しかし、日本シリーズで1勝も挙げていない山本昌が稲葉にエラーで出塁を許すと、新庄に安打を許し、盗塁を決められたことにより、調子を崩してしまう。そして、金子の逆転タイムリーで痛い星を落とすことになるのである。
 この場面は、シリーズの流れを大きく変えた。稲葉・新庄という攻守の要となっている選手を調子に乗せ、山本昌は、またしても日本シリーズで勝てないという状況に陥ってしまったからである。

 ナゴヤドームから敵地札幌ドームに移った3戦目以降は、完全に押され続ける展開となり、打線が沈黙したまま、投手が持ちこたえられず敗戦を喫する展開が3試合続いた。
 圧倒的に勝利するはずが、新庄の引退祭りで盛り上がる日本ハムに圧倒される結果となったのである。5試合で稲葉には打率.353、2本塁打、新庄には打率.353、森本にも打率.368と打ち込まれ、投手陣は防御率3.86、打撃陣も打率.232と精彩を欠いたまま、シリーズが終わっていった。

 短期決戦に勝つことはペナントレースで勝つよりも、時の運に左右される分、確実性が低い。弱いチームが強いチームに7試合中4試合に勝つ、という結果を導き出すことは、さほど困難ではないのだ。
 私が確実視していた52年ぶりの日本一は、第2戦からの呪縛されたような試合運びによって、無残にも消えていった。どんな状況においても、力を発揮できる精神力。それだけが欠けていたように見えた。

 中日球団は、半世紀以上遠ざかる悲願の日本一を達成するため、落合と2007年から2年契約を結ぶ。白井オーナーも、落合に指揮を執らせておけば、日本一は時間の問題という見込みを立てていたのだ。こうして、2007年からの2年間で日本一を達成することが落合に課せられた使命となり、運命としか言いようのない2007年日本シリーズ第5戦へつながっていく。


 19.育成選手中村紀洋〜2007年〜

 2007年は、まず外国人選手の入れ替えから始まった。この年、35歳となり、守備と打撃で衰えが見え始めていたアレックスに変わって、中日は、韓国のスター選手李炳圭を獲得する。中日球団は、以前から韓国人選手の補強に積極的で、過去には宣銅烈、サムソン・リー、李鍾範らを獲得している。その延長線上にある獲得だった。
 中日入団後、落ちる球に滅法弱く、日本野球に適応しきれなかった李の成績を考えると、これが補強だったと言うべきかどうかは迷うが、中日球団が補強したのは、李のみだった。

 しかし、意外なところから新たな補強が生まれる。近鉄・オリックスで活躍したスター選手中村紀洋が自由契約選手となっていたためである。
 中村は、オリックスの主砲として年俸2億円を稼いでいたが、その年の試合中に左手首を故障して不振に陥った。挙句の果てに、シーズンオフにはオリックスから年俸を野球協約の限度40%を超える60%減の8000万円と提示され、契約交渉が決裂したのだ。
 自由契約となった中村の獲得に動く球団はなかった。金髪だった近鉄時代の言動、メッツとの契約決裂、そして、オリックスとの契約決裂といった悪い評判が中村獲得を見送らせたのである。

 落合もまた、中村獲得には慎重だった。なぜなら既に三塁には若手の森野将彦がレギュラーとして成績を伸ばしていたからである。
 この年は、日本ハムの小笠原道大も、FA宣言で他球団移籍を目指しており、「師弟関係にある落合がいる中日へ移籍するのでは」という憶測も流れた。しかし、落合は、三塁には既に森野がいるため、獲得に動かなかったのだ。

 とはいえ、中村の場合は状況が違った。巨人が大金を積んで獲得に動いた小笠原とは異なり、中村は、このままいけば野球浪人が確定する状況だった。そして、キャンプも中盤にさしかかろうとしていた2月12日、落合は、ついに重い腰を上げる。
「才能ある選手から野球を奪ってはいけない」
 それが理由だった。落合は、中村を中日のキャンプにテスト生として参加させ、入団テストを経て育成選手として年俸400万円で契約したのである。

 この決断は、落合が師弟関係にある中村の技術を認めていたからこそである。野球浪人をさせるのはプロ野球界にとって大きな損失だ、という心情が獲得慎重姿勢から獲得強行へと動かせた。
 そして、皮肉にも、その決断こそが相反する2つの結果を生んだ。1つは、中村が日本シリーズMVPになるほどの目覚ましい活躍を見せて、中日に53年ぶりの日本一をもたらしたことである。
 もう1つは、中村と森野を両方レギュラーで起用するために森野を外野に回し、レフト・センター・ライト・サードとめまぐるしく起用しているうちに、2008年5月、森野が左ふくらはぎ肉離れという大きな故障をしてしまい、その後の選手生活に影響してしまったことである。

 落合自身も、あとから振り返って、森野の故障を「大きな代償」と述べているが、あのとき中村獲得に最後まで慎重だったのは、森野に及ぼす影響を懸念していたからだろう。
 結果的に懸念は現実のものとなったが、落合政権唯一の日本一を勝ち取ることもできた。失ったものも大きかったが、得たものも大きかった。
 あの決断が正しかったのか、誤っていたのか。そこには、結果が出た今も、まだ答えはない。ただ、言えるのは、落合が中村と森野という2人の選手に対する強い思いやりが生んだ苦渋の決断だったということだけである。


 20.リーグ優勝を犠牲にして2位〜2007年〜

 この年の中日は、前年に増して戦力が上がったため、前評判ではリーグ優勝確実の声は高かった。
 だが、巨人も、日本ハムの看板打者小笠原道大とオリックスの看板打者谷佳知を獲得する大型補強をしていた。JFKを中心に安定した戦いぶりを見せる阪神も侮れなかった。

 大方の予想通り、この3球団が三つ巴の優勝争いとなっていく。中日は、開幕ダッシュで首位に立ったものの、混戦から抜け出せないまま、2位で交流戦に入る。交流戦では一進一退の攻防で12勝11敗と今一つの成績で終える。一方、巨人は交流戦を15勝9敗と貯金を蓄え、波に乗ることに成功する。
 この年の巨人は、新戦力を中心に多くの選手がシーズンを通して好調を維持していた。小笠原と谷がともに素晴らしい活躍を見せ、豊田の代役として抑えに回った上原が完璧な投球で守護神の役割を果たした。

 巨人・中日・阪神の投手力は、防御率を見るとほぼ互角である。差があるのは打撃力で、大型補強に成功した巨人の打撃陣が打率・本塁打数ともに他球団を圧倒している。
 それでも、リーグ優勝した巨人と中日の差は、1.5ゲーム差である。
 この年、仮にリーグ優勝しようと思えばできた。落合は、そう振り返っている。
 なのに、なぜ落合は、リーグ優勝を捨てたのか。
 その理由は、2007年シーズン終盤の投手起用に見ることができる。他球団がリーグ優勝のために、好投手を酷使する中、中日は、余裕のあるローテーションを組み、中継ぎ投手の酷使も避けた。
 なぜなら、この年からセリーグにも、クライマックスシリーズ導入が決まっていたからである。

 落合は、クライマックスシリーズ導入には反対の立場をとっていた。1年間かけて戦うペナントレースこそ、最高の価値があり、あくまで日本シリーズは、リーグ優勝したチーム同士が戦うべきだと考えているからである。
 それでも、クライマックスシリーズ導入が決まった以上、落合は、規則に従わざるをえない。その規則内で最善の手段を考えたとき、落合は、中日が53年間遠ざかっている日本一を勝ち取るために、最悪の場合はリーグ優勝を犠牲にせざるを得なかった。最悪の場合とは、あくまでリーグ優勝を狙いはするが、選手を酷使せず、普段通りの戦いを貫いて、リーグ優勝できなければ、2位からの日本一に賭けるという戦略である。

 当時、リーグ2位であっても、1位とのアドバンテージがまだなかった。そうなると、日本シリーズへ進むためには2位から勢いをつけて勝ち上がった方が有利という見方もできる。
 落合がリーグ優勝をあえて犠牲にしたのは、この年が最初で最後である。この年は、あくまで球団悲願の日本一こそが最大の目的だったからだ。
 そして、2位でペナントレースを終えた後、伝説の快進撃が始まるのである。


 21.先発小笠原の奇襲〜2007年〜

 クライマックスシリーズ第1ステージは、ナゴヤドームで2位中日×3位阪神という組み合わせとなった。先に2勝した方が第2ステージへ進むことができる。
 10月13日の第1戦は、中日のエース川上が7回無失点に抑え、打線も7点を奪って7−0で快勝する。翌日の第2戦も、1回裏に中日が5点を奪って早々と試合を決め、先発中田の好投もあって5−3で2連勝を飾り、第2ステージへ進んだ。

 そして、問題の10月18日、中日×巨人の第2ステージ第1戦が行われる。巨人は、予定通りエース内海。中日の先発は、巨人の予想では右の山井だった。常識的には山井の他に考えられるのは、3本柱の1角である朝倉、そして、中4日で川上である。
 いずれにせよ、右の先発と読んだ巨人は、7人の左打者を並べた。
 しかし、そこで中日が先発として送り込んだのは、左投手の小笠原孝だった。小笠原は、故障明けで3か月間白星から遠ざかっていたが、巨人とは相性が良かった。とはいえ、クライマックスシリーズ第1ステージの第2戦で中継ぎとして2回を投げており、この試合に投げるとなると、中3日しか空かない。小笠原が先発に回ると予想する者はいなかった。短期決戦では、最初に中継ぎ起用されれば、その後も中継ぎをする、というのが常識だったからだ。
 しかし、落合と森の考えは違った。まず中継ぎでテストしてみて、調子が良ければ、次の試合に先発で起用しよう、という戦略だったのである。

 完全に読みを外された巨人は、打線が沈黙し、小笠原に5回1失点に抑えられた。中日は、小刻みな継投によって5−2で逃げ切り、翌日の第2戦ではエース川上が満を持して中5日で先発し、7−4で勝利。さらに第3戦は中田が先発して4−2で勝ち、一気に3連勝で日本シリーズ進出を決めたのである。

 クライマックスシリーズ初年度のこの年は、1位に何のアドバンテージもなかった。第1ステージから勝ち上がった球団は、エースが第2ステージ第1戦に登板するなら中4日で投げなければならない、というのが唯一のアドバンテージと言えた。
 ただ、中日は、そこを逆手にとって奇襲の小笠原先発で逆に1位球団を混乱させ、一気にクライマックスシリーズの流れを引き寄せたのである。

 クライマックスシリーズをセリーグにも導入させたのは、パリーグの成功例も要因だが、それ以上に巨人が中日・阪神にペナントレースで勝てなくなってきた、という側面も大きかった。それが1位にアドバンテージをつけなかった要因なのだが、2007年は巨人が予想に反して優勝してしまったため、逆にアドバンテージなしが仇となって墓穴を掘ることになった。
 巨人は、この失態に対し、翌年から慌てて1位にアドバンテージをつけて、4戦先勝制という1位有利の制度に変えさせることとなる。


 22.日本シリーズ第5戦に至る流れ〜2007年〜

 2007年の日本シリーズは、2年連続で中日×日本ハムとなった。しかし、状況は、両チームともに少しずつ違っていた。 
 まず、中日は、アレックスがいなくなった代わりに中村紀と李炳圭が入り、打線が変わった。また、日本ハムは、新庄が引退して小笠原が巨人に移籍したため、打線に迫力がなくなったものの、ダルビッシュ・武田勝が成長した上にグリンが加わり、鉄壁の投手陣となっていた。

 札幌ドームで行われた第1戦では、中日打線がダルビッシュにわずか4安打に抑えられ、エース川上もセギノールに3ラン本塁打を浴びて1−3で敗れる。
 この日本シリーズは、第5戦のみが語られることが多いが、日本シリーズの流れを見ると、中日は、早くも第1戦で追い詰められたのである。
 なぜなら、第2戦に勝たなければ、ナゴヤドームで日本一を決める可能性がなくなる。この日本シリーズは、札幌ドームが4試合、ナゴヤドームが3試合であるだけに、中日にとって第2戦を落とすと日本一の可能性が極めて低くなる。
 そういう意味で、第2戦は、重要だった。中日の先発中田は、期待に応えて8回1失点と好投し、日本ハムのグリンが4回に四球を連発して崩れたため、中日が8−1で勝利する。この大勝は、いったん日本ハムに行った流れを引き戻した。

 1勝1敗となった中日にとって、第3戦からのナゴヤドーム3連戦で1試合でも落とすのは避けたかった。何としてもナゴヤドームで日本一を決めたかったのである。1試合でも落とした場合、第6戦からは札幌ドームへ移るため、日本ハムに2連敗して逆転されてしまう可能性が高くなる。そのため、落合は、第6戦以降にもつれたときのことも考えながら、第5戦で日本一を決めるという戦い方を強く推し進めていくことになる。

 何せ、中日は、1954年に日本一になって以降、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年と、ことごとく日本シリーズで敗れている。2分の1の確率で勝てる勝負に6回連続で敗れたのである。ここぞという勝負どころで勝ちきれない精神的なもろさを抱えたチームだったのだ。

 だが、そんな懸念を吹き飛ばしてくれたのがシリーズ新記録となる7打数連続安打だった。4番打者のタイロン・ウッズがセンター前にタイムリーヒットを打った後、中村紀・李・平田・谷繁・荒木・井端とヒットが続いたのである。
 先発朝倉の好投もあって、この試合を9−1で圧勝した中日は、波に乗る。小笠原が先発した第4戦でも先制・中押し・ダメ押しという理想的な展開に持ち込み、4−2で接戦をものにして3勝1敗と王手をかける。

 この3連勝は、粘り強く投げた先発投手陣と3試合で1点も与えなかった救援投手陣の踏ん張りと谷繁のリード面も大きかったが、それをしのいで大きかったのがことごとくチャンスで打ち続けた中村紀の存在である。
 中村紀は、この年から中日の選手となっただけに、中日がずっと持ち続けていた日本シリーズアレルギーとは無縁だった。しかも、野球浪人寸前の育成選手から日本シリーズの大舞台に主軸として立つという奇跡的な運を持ち合わせていた。
 もはや、流れは、完全に中日の方にあった。
 そして、中村紀もまた、第5戦という宿命の試合で重要な働きをすることになる。


 23.社会現象となった山井交代賛否の裏で〜2007年〜

 日本シリーズ史上、江夏の21球と並んで最も有名な試合となった2007年日本シリーズ第5戦。
 私は、この試合を見るために仕事を無理やり定時で切り上げてテレビの前に座ったことを覚えている。ただ、私は、この試合で勝てる可能性はかなり低いと見ていた。

 後のない日本ハムは、札幌ドームへ戻りたいからエースのダルビッシュを先発させてくる。それに対し、決して先発投手に無理をさせない中日は、5番手の投手を先発させる。そうなれば、いくら流れが中日にあって、ナゴヤドームの試合だからと言っても勝つのは容易でない。

 中日は、五番手の山井大介を先発に立てた。
 この年、山井は、シーズン後半からローテーションに定着し、6勝4敗、防御率3.36を残していた。山井の投球スタイルは、伸びのある直球と鋭いスライダーのコンビネーションである。83回で32四球という適度に荒れるコントロールが打者を幻惑させる。
 好調なときは、相手打者が手も足も出ない完璧な投球をする反面、球威がないときやコントロールが定まらないときは序盤から崩れるという極端さを併せ持つ。

 幸い、この日の山井は、好調だった。1回表の上位打線をあっさりと3者凡退で片付けた。
 打線も、2回にダルビッシュからウッズがレフト前ヒットを放ち、続く中村紀が右中間を破る2塁打を放って、無死2、3塁のチャンスを作る。そして、平田が先制の犠牲フライを放つのである。
 中村紀の2塁打がこの先制点を生み出したと言っても過言ではなく、中村紀は、4勝すべてに貢献したことでシリーズMVPを獲得することになる。

 山井は、好調ではあったが、内容を見ていると安打になってもおかしくない場面が2度あった。
 まず最初は、2回1死から工藤が放った3塁線へのゴロである。このゴロに対して3塁手の中村紀は、斜め上にジャンプして捕球するや、ノーステップで1塁へ矢のようなノーバウンド送球を見せてアウトにした。
 さらに、4回表には森本の痛烈な二遊間への打球を荒木が横っ飛びで補球し、これもノーステップで送球してアウトにした。
 しかし、この2度の場面が仮にヒットになっていたとしても、山井の投球は、危なげないものだった。山井が好調で、守備も完璧だったことに加え、3勝1敗と余裕があること、ナゴヤドームであること、そして、相手投手ダルビッシュも好調で、リズムよく試合が進んでいたこと。そうした様々な要因が重なって、山井は、難なく8回までを無安打無四球で切り抜けたのである。 

 日本ハムは、試合を動かそうとしたのか、8回裏には投球数が100球を超えたダルビッシュに代えて、セットアッパー武田久を送り込んできた。その武田久も、簡単に中日打線を3者凡退で退けて、ついに9回表が訪れる。

 球場が山井の完全試合を期待して騒然とする中、山井が登場しない。球場にはファンからの山井コールが響き渡った。
 そして、代わりに落合と森コーチが出てきた。落合が投手交代を告げる。
「ピッチャー岩瀬」
 そのコールで、球場がどよめく。歓声と、ブーイングと、驚きと、悲鳴が入り混じったかのようなどよめきだった。

 この投手交代は、試合終了後に物議を醸した。中日ファンは、53年ぶりの日本一になったことに満足している印象が強かったが、それ以外のプロ野球ファンにとっては、山井が史上初の日本シリーズ完全試合を達成するのを期待していたからである。
 東京を中心とするマスコミは、こぞって山井交代の采配を批判した。ただ、一部の現役監督と監督経験者は、その采配を擁護した。

 山井の交代については、落合の『采配』、森の『参謀』で詳しく語られているように、山井が右手のマメをつぶして投げており、8回を投げ終えた時点で森コーチに岩瀬への交代を申し出て、落合監督が了承して投手交代を告げた、というのが真実である。山井が交代を申し出なければ、落合監督も森コーチもそのまま投げさせざるをえないと考えていたわけだが、山井は、この試合で必ず日本一を決めなければならないチーム事情を理解して自ら交代を申し出たのである。
 落合は、そういった内情は、包み隠したまま、そのシーズンオフの間、自らが批判を浴び続けた。そういう形ですべての責任を負ったのである。この一連の結束こそが中日の強さの象徴だった。

 交代を告げられた岩瀬もまた、プロ野球史上最高の守護神にふさわしい働きを見せる。小走りに出てきた岩瀬は、緊張した表情ながら、普段通りの投球を披露していく。金子を三振、代打高橋をレフトフライ、小谷野を2塁ゴロに打ち取った。あっさり3者凡退で切り抜け、ついに中日は、53年ぶりの日本一を達成したのである。

 この投手交代から試合終了までの経過の中で、私は、1つ見逃していたことがある。通常であれば、最後の守りを固めるということで、レフトに上田が入り、レフトの森野がサードに入り、サードの中村紀がファーストに入るという守備固めがあるはずだった。守備に難のあるウッズは、ベンチに退くのである。
 実際、第2戦から第4戦までの3試合は、いずれもその守備固めで守り切っている。
 しかし、この第5戦では、落合が9回に代えたのは、投手だけである。緊迫が続く1点差だけに、4番打者ウッズをベンチに下げなかったのだ。つまり、岩瀬で確実に勝ちに行く投手起用をしながら、野手は、1点を失って9回裏が訪れてもいいように手を打ったのである。

 そこには、おそらく次のような目論見があったはずだ。
 岩瀬ならファーストにウッズがいたとしても0点で抑える可能性が高い。なぜなら岩瀬は、これまで日本シリーズで11回1/3連続無失点中だからだ。しかし、万が一、岩瀬が1点を失った場合、延長戦を考えると相手投手の武田久は2イニング目に入らざるをえない。そうなると、投球の精度は落ちるから、9回裏の先頭打者となるウッズは、そのまま残しておいて、9回裏にサヨナラで勝てる確率を上げる。山井・岩瀬のリレーで完全試合を成し遂げるよりも、まず勝利を最優先させたのだ。
 落合の采配は、岩瀬投入という究極の選択をしたときでさえ、冷静に野手と試合状況を見極めていた。そして、完全試合を逃して、さらに試合を落としてしまった場合、日本ハムの本拠地で行う第6戦・第7戦に勝つ可能性はますます低くなる。
 岩瀬投入を決断したとき、落合は、9回裏であっても、延長戦に突入しても、この試合を決死の覚悟で勝ちに行く采配を選択したのである。

 結局、岩瀬が尋常でない緊張感をものともせず、並外れた集中力で2人の投手リレーによる完全試合を成し遂げたため、9回裏以降は存在しなかった。マスコミは、いまだに投手交代ばかりに目を向けているが、落合が見ていたのは、さらにその先があった場合の展開なのである。
 この試合では、あえてウッズを下げないことで、9回裏の攻撃というプレッシャーを日本ハムに与え、日本ハムを逆に追い込む効果を作り出した。
 結果は、4勝1敗であったが、その差以上に緊迫したぎりぎりの戦略によって、生み出された日本一なのである。


 24.53年ぶりの日本一、初のアジア一〜2007年〜

 試合後、世間では、<山井が日本シリーズ初の完全試合達成>という大記録がなくなったことに対する失望の声が大きかった。
 2007年時点で完全試合を達成した投手は、過去15人しかいない。すべて公式戦での達成であり、日本シリーズでの達成はまだない。
 それだけにプロ野球ファンにとっては、史上唯一となるであろう山井の日本シリーズ完全試合達成を見たかったのだ。

 しかし、山井・岩瀬の継投で達成した完全試合は、日本シリーズだけでなく、プロ野球史上唯一の記録である。継投でのノーヒットノーランは、公式戦で3度達成されているが、継投での完全試合はない。
 つまり、1人で完全試合を達成するよりも、遥かに価値が高いのである。
 さらに、山井が1回から8回まで打者24人を連続パーフェクトに抑えたのも、日本シリーズ新記録である。

 そして、おそらく今後、継投での完全試合が見られることもないだろう。通常なら、完全試合をしている先発投手を代えることはまずない。突如故障をして交代し、次の投手がそのまま完全に抑えて完全試合というのは起こる可能性はあるが、ほんのわずかな確率でしかない。
 この試合で8回まで完全に抑えた山井も、2010年8月18日の巨人戦では8回まで無安打無失点3四死球に抑えるノーヒットピッチングを見せながら、9回表の先頭打者坂本勇人にレフトスタンドへ本塁打を浴びてノーヒットノーランを逃した。そのとき、私は、これがあの2007年日本シリーズ第5戦だったら、と背筋が凍る思いをした。

 球史をひも解いてみると、他にも8回までノーヒットピッチングを続けてきた投手が9回に打たれたり、0点に抑えてきた投手が9回に失点する事例は、数えきれないほどある。それだけに、1点差しかないあの試合で、勝つ可能性が最も高い方法は、岩瀬への継投だった。それが奇跡的に、あのタイミングで完全試合になってしまっただけなのである。完全試合というインパクトに惑わされるか、惑わされないか。その違いが続投派と継投派に分けたのだ。

 史上初の継投による完全試合で53年ぶりの日本一を決めた中日は、初めてアジアシリーズに出場することになった。
 しかし、アジアシリーズの位置づけは、クライマックスシリーズや日本シリーズに比べると、極めて低い。中日は、右肩に不安を抱える川上を休ませ、アメリカ人選手のタイロン・ウッズは帰国させる、という飛車角落ちの戦力で挑むことになる。
 エースと主力抜きの戦いは、総当たりの予選から苦戦を強いられる。初戦の韓国SKワイバーンズ戦でで早くもその影響が出て、先発中田が崩れ、打線はSK先発金に7回途中3安打に抑えられた。そして、試合は、3−6で敗退するのである。
 2戦目の台湾統一ライオンズには朝倉から岩瀬まで5人の継投で4−2と勝利する。そして、中国チャイナスターズ戦では、4回まで0−1とリードされながら、先発小笠原の踏ん張りと5回以降の打線奮起により9−1で勝利する。

 上位2チームが争う決勝では、予選で敗れたSKワイバーンズとの対戦となった。ここでも、中日は、先発山井が日本シリーズに比べると、目に見えて不調で、4回まで1−2とリードを許してしまう。その後、、いったんは5−2とリードしたものの、8回に中継ぎが打たれて5−5に追いつかれるという苦しい戦いを強いられる。それでも、9回表に井端のセンター前タイムリー安打が出て、何とか岩瀬で逃げ切る、という薄氷の勝利でアジア一の称号も手に入れた。

 クライマックスシリーズ以降の12勝2敗という成績だけ見れば、圧倒的な強さでアジア一まで走り抜けたように見える。しかし、現実は、苦しい戦いの連続だった。大補強で強力な戦力を誇る阪神や巨人に比べ、最小限の補強しかしてこなかった中日は、投手を中心とした守りの野球で接戦をものにしていく勝ち方で戦い抜いた。その象徴が日本シリーズ第5戦であり、アジアシリーズ決勝でもあった。

 また、この年は、二軍の中日も日本一になるなど、若手の成長も著しい年となった。ファーム日本選手権では、平田と堂上剛裕が本塁打を放つ大活躍を見せ、投手は川井が3回を投げて自責点0でしのぎ、そのあと8回までを吉見が無失点に抑えて7−2で快勝する。MVPは、吉見が受賞するなど、その後の中日を暗示させるような成績を残している。

 落合が望むチームがついに出来上がった。これで当分は、中日の黄金時代が続くのだろう。私は、日本一のパレードを見ながらそう考えていたが、2008年、その想いは、無残にも砕かれることになる。


 25.流出した中軸打者とセットアッパー〜2008年〜

 前年に日本一になったとはいえ、中日は、圧倒的な戦力で勝つチームではなかった。そのうえ、主力外野手の福留孝介が大リーグのカブスへ移籍することになった。幸いなことに西武の外野手和田一浩がFA宣言で中日移籍を希望したことで、福留が抜けた穴を和田が埋める、という形は整った。しかし、今度は逆に和田の人的補償として不動のセットアッパー岡本真也が西武に移籍することになったのである。

 現代野球にとってセットアッパーは、重要である。もちろんクローザーが最も重要なのは変わりなかったが、それに匹敵するほど8回を投げるセットアッパーの存在は大きくなっている。
 岡本は、落合監督が就任後、セットアッパーとしての素質が開花し、2004年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。2007年にも5勝2敗38HP、防御率2.89で中日の日本一に大きく貢献した。岩瀬の前の8回を主に投げて、剛速球と鋭いスライダーを武器に奪三振が多く、中日の勝ちパターンと言えば、平井・岡本・岩瀬のリレーだった。

 にもかかわらず、人的補償をするときのプロテクト枠28人に岡本が入っていなかったのは、相手チームの西武ですら驚きを隠せなかった。このとき、不動のセットアッパー岡本がプロテクト枠を外れた理由は一切明かされず、いまだに明かされていない。
 様々な憶測が飛び交い、年齢による衰え、安定感に欠けること、世代交代、球団との確執、和田と釣り合う選手の西武への譲渡、といった説が流れた。
 岡本のプロテクト洩れがたった1つの要因によるとは考えにくく、おそらくは複数の要因が重なった結果そうなってしまったのだろう。2004年の段階であればプロテクト洩れすることはなかったであろうし、和田が入団しなければ放出されることもなかったはずである。

 ただ、この当時、西武は、中継ぎ投手が弱体化して苦しんでいた。そのため、落合は、和田をもらった代わりとして中継ぎエースの岡本を提供した、という考え方が最も納得できる。2007年終了当時、岡本は、中日にとって、どうしても抜けられては困る存在ではなかった。また、今後のさらなる成長が見込める存在でもなかった。ゆえに、どうしても抜けてはならない選手と若手の有望選手を中心にプロテクトした結果、岡本の順位が28位を下回ってしまったのである。

 岡本は、2008年に西武で47試合に登板して16HPを上げる活躍を見せたものの、翌年からは不振に陥り、韓国プロ野球を経て2011年に楽天で引退する。
 一方、中日は、岡本が抜けた穴に2008年は苦しむ。8回を投げるセットアッパーを固定できなかったことがチームが優勝できなかった要因の1つともなった。とはいえ、岡本が抜けたことによって浅尾拓也、小林正人、高橋聡文、鈴木義広らが成長して2009年後半になって8回のセットアッパーに浅尾が固定できるようになる。
 結果的に見れば、岡本の放出は、チームのターニングポイントであり、2009年後半までセットアッパーを固定できなかったことで、中日は、2008年を犠牲にした形となった。
 しかし、それが後の球団2連覇につながるのである。


 26.事前の北京五輪対策成功、しかし〜2008年〜

 落合にとって、2008年は、2人の中心選手が抜けた他に、もう1つの懸念があった。それは、2008年8月にある北京五輪である。ペナントレースの佳境に入る最も踏ん張りどころで約1か月間、主力選手が抜けることになるだけに、この年のプロ野球最大の懸念でもあった。

 2月2日、落合は、キャンプを視察に訪れた根来泰周コミッショナー代行に北京五輪対策の救済措置を提案する。それは、北京五輪日本代表に3人以上選出された球団には外国人選手枠を1人増やして5人にしてほしい、というものだった。
 中日は、2007年オフに行われたアジア予選に5人の選手を派遣していた。そのため、中日が五輪本選の日本代表に3人以上を派遣するのは確実だった。
 落合は、既に五輪で荒木・井端が抜けた場合を想定して内野手のデラロサを獲得、川上・岩瀬が抜けることを想定して剛腕投手ネルソンを安価で獲得していた。

 キャンプで落合が提案した案は、その後、プロ野球実行委員会で承認され、6月にはNPBと選手会で合意に達した。
 これにより、中日は、北京五輪期間中に5人の外国人選手を1軍に置くことができるようになる。
 実際、五輪本選は、中日から4人が日本代表に選出となった。エース川上、守護神岩瀬、走攻守の要荒木、内外野双方をこなせる主力打者森野の4人である。北京五輪日本代表監督が元中日監督の星野仙一であったため、星野は、古巣の選手たちを重用した。
 中日の選手たちは、前年に日本シリーズで日本一、アジアシリーズでアジア一、さらに五輪アジア予選に出場と厳しい戦いが続いた。そのため、シーズンオフがほとんどなく、中日の選手たちは、調子がいまいちであった。そんな選手たちを星野が酷使したことによって、北京五輪では「金メダルしかいらない」と豪語しながら、銅メダルすら逃してしまう、という皮肉な結果となった。

 その五輪中、中日は、5人の外国人選手を1軍に置くことができた。しかし、中日に大きな誤算だったのは、この年、チェンが先発・中継ぎとして台頭して好成績を残し、北京五輪の台湾代表に選出されてしまったことである。
 そのため、外国人選手枠5人の1人として想定していたチェンが抜けて、実質4人と同じ状況になった。主力選手が5人抜けたうえ、外国人選手枠5人があまり意味をなさなくなってしまったのである。

 この年のペナントレースは、北京五輪が勝敗を分けたと言っても過言ではない。
 シーズン序盤から首位を独走していた阪神は、北京五輪に守護神藤川、攻守の要矢野、主軸打者新井の3人が選出された。
 一方、巨人は、守護神上原と攻守の要阿部の2人が選出された。

 3強と言われる巨人、阪神、中日において、北京五輪に選出された人数がそのまま順位として返ってきた。それほど、北京五輪は、ペナントレースに大きな影響を及ぼしたのである。


 27.メイクレジェンドの陰で〜2008年〜

 この年のペナントレースは、のちにメイクレジェンドと呼ばれるほど劇的な結末を迎えることになる。
 開幕当初から主導権を握ったのは、阪神だった。広島から主砲新井、オリックスから内外野をこなせる平野を獲得して補強して開幕ダッシュに成功する。
 圧倒的な強さで4月から7月までを駆け抜け、7月22日には優勝マジック46を点灯させたのである。
 一方、中日は、5月半ばまでは阪神を僅差で追いかけたものの、森野の左ふくらはぎ肉離れによる離脱もあって徐々に突き放され、7月19日には14ゲーム差をつけられてしまう。
 それは、巨人も同じだった。7月8日には阪神と13ゲーム差を付けられ、リーグ連覇は風前の灯となってしまったのである。

 それでも、8月に入り、各球団から北京五輪日本代表選手が抜けると、2人しか選出されなかった巨人が一気に独り勝ちの様相を見せ始める。その一方で阪神は失速し、中日は足踏みするという三者三様のチーム状況に分かれた。
 この年の巨人は、ヤクルトから主砲ラミレス、エースのグライシンガーを獲得し、さらに横浜から守護神クルーンを獲得するという信じがたい大型補強によって、チーム力は圧倒的だった。さらに、大量に保有する育成選手の中から成長した山口鉄也が急成長し、選手層が分厚くなっていた。
 そのうえ、北京五輪で2人しか抜けなかった状況も味方し、巨人は8月から圧倒的な強さを発揮する。8月を12勝7敗で加速すると、9月を17勝6敗で一気に首位と0.5ゲーム差まで詰め寄る。そして、10月8日の直接対決で勝利してついに阪神を逆転して首位に立つのである。

 その陰で、中日は、昨年の日本シリーズ、アジアシリーズ、北京五輪予選をフルで戦い抜いた主力選手が疲弊し、さらに8月には北京五輪で主力選手が抜け、調子を崩して帰ってきた。大型補強をせず、必要最小限の選手で戦い抜いてきた中日にとって、この状況は、壊滅的と言う他なかった。
 その結果、主力選手のほとんどが過去最低とも言える成績にあえいだ。チーム打率は、リーグ最低の.253、チーム防御率も3位とはいえ3.53と沈んだ。特に同じようなチーム形態をとる阪神とは対戦成績6勝17敗と屈辱的な惨敗に終わった。再起を図るクライマックスシリーズこそ、阪神に2勝1敗で制したものの、この年からアドバンテージ1勝分がついた巨人には1勝3敗1分で敗れた。

 その結果、残ったのは落合政権唯一となった3位という最低成績である。他の7年間がすべて2位以上であったため、一般的にはまずまずの成績であるにもかかわらず、この年があまりにも不本意な成績であったように映る。
 この年の中日は、岡本が抜けたセットアッパーを除いて、レギュラー選手を完全に固定して戦える体制が整っていた。確かにレギュラー選手は、年齢的にも、心技体においても、充実した選手で固めることができていたのだ。
 落合も、この年の初めに、自らが技術を認める選手が揃ったことで「理想的な戦いができる」と意気込んでいた。
 私も、シーズン当初は完全優勝を信じて疑わなかった。にもかかわらず、結果は、残酷なまでに落合政権最低の成績に沈んだのである。
 そんな結果を生んだ要因を一言で語ることはできない。前年に日本一、アジア一に上り詰めた達成感と疲労感、そして、北京五輪アジア予選と本選での主力離脱がまず浮かぶ。レギュラーが固定されたことによりチーム内競争力が低下が低下したこともある。
 チーム外では、巨人・阪神が大型補強したのに対し、中日は流出の方が多く、選手層に差がついてしまったこともある。

 2006年にシーズンを通した強さでリーグ優勝を果たし、2007年に日本一、アジア一となったことで、チームとしては完成の域に達していた。しかし、それを固定して維持しようとしたとき、思わぬほころびが顔を出して、2008年は、積み上げたものが難なく崩壊してしまったのである。
 2009年、落合は、巨人・阪神という大型補強球団に対抗するため、周囲の想像を超える形で新しいチーム作りに取り組むことになる。


 28.主軸3人が抜けて低い下馬評〜2009年〜

 2008年オフは、衝撃的な退団が相次ぐ騒動となった。
 四番打者タイロン・ウッズ、エース川上憲伸、中軸打者中村紀洋が相次いで退団したのである。
 タイロン・ウッズは、高年齢がネックとなり、球団が提示した大幅減俸で決裂し、退団となった。また、川上は、かねてより大リーグ挑戦の意志があり、この年に取得したFA権を行使して、大リーグのブレーブスへ移籍した。さらに、森野のサード再転向によってファースト転向を伝えられた中村紀洋がサードでのレギュラーにこだわるため、FA権を再行使して楽天へと移籍した。

 落合は、彼らの退団に対して慰留しなかった。福留の大リーグ挑戦のときもそうだったように、落合は、選手の希望を最大限に尊重し、口を挟まない。
 それがときに非情に見えたりするが、あくまで選択権のある選手たちには、自分のことは自分で決めるべき、というプロ意識を求めている。

 落合自身も、北京五輪で主力が疲弊した状況があったとはいえ、監督生活最低の3位となったことで、一転して苦境に立たされることになった。そこへ主力の大量流出が重なった。それでも、白井オーナーは、このチーム状態を立て直せるのは、落合しかいない、という全幅の信頼の元、落合と3年契約を結ぶ。

 落合も、抜けた選手の穴埋めを行う。タイロン・ウッズに代わる四番打者として、ドミニカから安価でブランコを獲得した。川上の代わりとしては、ドミニカ人のパヤノ、浪人中の河原純一、新人で伊藤準規、岩田慎司を獲得した。森野のサード再転向についても、外野の一角が空くため、アマチュアナンバー1外野手野本圭を獲得する。

 とはいえ、主軸3人が抜けたにもかかわらず、獲得したのはは、実力や状態が未知数の安価な選手ばかりだった。
 下馬評は、当然のように低く、シーズン前のマスコミや野球評論家の評価はほとんどBクラスだった。何せ2008年は、戦力が整っていながら3位であり、チーム打率は、リーグ最低の.253だった。
 単純にデータから分析する人々がBクラスを予想するのは無理がなかった。

 しかし、落合は、強気に優勝を狙う姿勢を崩さなかった。「一番面白いシーズンになる」と、むしろシーズンでの巻き返しを楽しもうとしているようにさえ見えた。
 ところが、WBCで中日選手がすべて不参加だったことがシーズンに大きな向かい風として吹き荒れることになる。


 29.WBC不参加騒動〜2009年〜

 2009年3月は、第2回WBCが開催されることになっていた。2006年の第1回WBCで世界一を獲得した日本代表にとって、2009年はディフェンディングチャンピオンとして望む大会である。
 連続世界一を期待する国民の声は多く、日本代表監督選びから難航する。
 当初、第2回WBC監督には星野仙一が濃厚だった。しかし、北京五輪で不可解な采配が続き、メダルなしの4位に終わってから、世論は、星野外しの方へ動いていった。

 その結果、現役のプロ野球監督に、という案が勢力を強め、日本一になった経験を持つ現役監督が次々と名前が挙がる。まず最初に挙がったのが2007年に中日で日本一を達成した落合である。しかし、落合は、監督就任要請を固辞する。続いて、2008年に西武で日本一を達成した渡辺久信の名前が挙がったが、渡辺は、西武監督1年目でWBC監督に就任することに消極的だった。そして、2008年にリーグ2連覇を達成し、2002年には巨人を日本一にした原辰徳に就任要請が回っていく。結局、原は、監督就任要請を受諾し、第2回WBC監督に決定した。

 その後、原は、WBC日本代表選手を選考したが、そこで第2回WBC最大の騒動が起きる。選ばれた中日の岩瀬・浅尾・高橋・森野・和田の5人がすべて辞退したのである。辞退理由を表明する必要はなかったが、全員が辞退しただけに、マスコミや世間は、中日がWBCをボイコットしたかのように騒ぎ立てた。

 そのため、岩瀬・森野・和田は、体調が万全でないこと、浅尾は、年間通してまだ活躍したことがないこと、高橋は、調整面で不安があること、といった辞退理由を公表させられた。
 だが、実際は、中日の全選手が辞退したわけではなく、台湾代表としてチェンは出場を快諾していた。また、球団や落合が主導でWBC日本代表を辞退させた事実は一切なかったが、マスコミや原は、中日球団を一方的に批判した。

 日本代表は、中日選手抜きでWBC2連覇を達成したものの、WBCで活躍して疲弊した選手たちを抱える球団は、ペナントレースで不利になることが想定できたため、シーズンが始まっても、中日への風当たりは一層増すことになる。


 30.低い下馬評を覆す2位〜2009年〜

 この年も、巨人の戦力は、圧倒的だった。元々突出した戦力にヤクルトからゴンザレスが加わり、さらに、坂本勇人・松本哲也・東野峻が急成長して極めて重厚な戦力が整ったのである。
 特に、この当時の巨人は、山口鉄也が育成選手から台頭して、チームの柱となるセットアッパーに成長したことから、大量の育成選手を保有し、自前で生え抜きの一流選手を育てようという試みをしていた。
 その中から、この年は、松本哲也が走好守にすさまじい働きを見せて新人王を獲得する。
 巨人は、この2人の成功に味を占めて、補強をせずに自前の選手を育てて強くしようとする方針を前面に打ち出したことから2010年、2011年とリーグ優勝を逃すことになる。だが、2009年に限っては、育成選手松本の奇跡的な成功によって圧倒的な強さでリーグ優勝に突き進む。

 一方の中日は、世間の下馬評が低く、久しぶりにBクラスに転落するのではないか、との見方が大勢を占めた。
 それでも、落合は、「面白いシーズンになる」と予測し、リーグ優勝に対する意欲を見せていた。

 その意欲の一端が表れたのが、開幕投手浅尾拓也である。浅尾は、前年に7勝9敗6セーブの成績を残していた。どの球も一級品であり、この年には、さらなる飛躍は確実だった。
 首脳陣は、浅尾にリリーフ投手としての素質を見出していた。しかし、浅尾が希望したのは先発だった。
 そんな浅尾を中日の首脳陣は、開幕投手に指名した。
 中田・朝倉・小笠原・吉見・山井といった先発で実績を残した投手陣を差し置いて、浅尾である。当然のように、浅尾を開幕投手に予想した人々はほとんどおらず、まさにサプライズ登板となった。

 しかし、この浅尾の開幕投手抜擢は、2004年の川崎憲次郎とは全く異なる意図を持っていた。開幕投手浅尾を決断した森コーチは、線が細くスタミナに不安がある浅尾の適性がリリーフであることを早くから見抜いていた。
 そのため、先発を希望する浅尾をいかにしてリリーフに転向させるかを考え、開幕投手に指名したのである。つまり、シーズン序盤をローテーションの先頭で回し、本人を早く納得させたうえでリリーフに転向させるという、誰もが納得できる最善の方式をとったのである。
 浅尾は、開幕試合では8回1失点で勝利投手になった。しかし、その後、試合の中盤から終盤にかけて崩れる場面が目立ち、5月には森の目論見通り、リリーフに転向することになる。

 下馬評の低かった中日だが、主軸3人が抜けた穴を他の選手が埋めて、下馬評を覆していく。主砲ウッズの代わりに安価で獲得したブランコがウッズの穴を埋める活躍を見せた。さらに中村紀の代わりに森野がサードに入り、森野の代わりに外野に入った藤井がまずまずの活躍を見せた。
 そして、エース川上の代わりに吉見・チェン・川井が台頭し、吉見は、最多勝を獲得、チェンは、最優秀防御率を獲得する好成績を残した。

 だが、その一方で、数々の誤算もあった。4月に守備の要である谷繁が故障離脱し、WBC不参加の影響で選手たちへの批判も根強く残っていた。巨人をはじめとする他球団は、そんな中日を相手に目の色を変えて勝ちに来たのである。
 それでも、中日は、ブランコが覚醒した6月からすさまじい勢いで、圧倒的な戦力を誇る巨人を追い詰めていく。5月半ばには最大9ゲームあった差を8月5日には1ゲーム差まで縮めたのである。
 しかし、そんな猛追も、8月25日からのナゴヤドームでの巨人3連戦で3連敗を喫したことで一気に優勝が遠ざかってしまう。この3連戦を機に徐々に後退した中日は、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられて敗れるのである。
 続くクライマックスシリーズも完敗を喫した中日は、2年連続で日本シリーズ進出を逃す、という落合政権最大にして唯一の屈辱を味わうことになる。


 31.巨人が7年ぶりの日本一を謳歌する陰で〜2009年〜

 落合は、この年、初めて負けたという感覚を持ったという旨のコメントを発表する。
 確かにこの年は、チーム打率でも、チーム防御率でも、そして対戦成績でも巨人に敗れた。特に対戦成績は8勝16敗と、落合政権最悪の成績が残ったのである。

 この頃の中日と巨人の違いを見るには、巨人の原辰徳監督がこの年のリーグ優勝時に読売新聞に寄稿した手記で解明できる。

「チームを強くするには、外国人選手、FA、トレードによる補強、全てが必要だ。
 しかし、よみうりランド(ジャイアンツ球場)で泥んこになって鍛えられた選手が、東京ドームのスポットライトの下で大歓声を受ける姿がどれほどチームに影響を与えることか。」(読売新聞2009.9.24)


 巨人は、1990年代半ばから、外国人選手、FA選手、トレードで獲得した選手が中心になって優勝を勝ち取ってきた。

 そして、2009年には外国人選手としてグライシンガー、ゴンザレス、クルーン、オビスポ、ラミレス、李承Yが揃い、FA選手としては小笠原、豊田、トレードで谷、マイケル中村、木村拓、大道、工藤と選手はそろっていた。
 それに加えて、大量保有する育成選手の中から山口、松本の2人が台頭し、ドラフト入団選手の中からも内海、東野、越智、坂本、脇谷といった若手が台頭してきた。
 まさに考えられる限りのあらゆる補強をして作り上げた巨人がこの年のチームだったと言える。
 特に、外国人選手については、他球団で既に活躍していて、実力と日本野球への適性が確かなグライシンガー、ゴンザレス、クルーン、ラミレス、李承Yといった選手を揃えたことで、スカウト陣の目に頼ることなく、確実な補強をしたのである。
 この戦力では、実際のところ、優勝しないことの方が難しい状況ではあったが、シーズン前の世間の想定通り、圧倒的な強さでの優勝という結果とが出た。

 その一方で中日の場合は、落合の希望により、巨人のように莫大な投資はせず、安価な外国人選手と中日入団を希望するFA選手、そして、他球団で出場機会に恵まれない選手による補強が主だった。そのため、所属先無しで浪人寸前だった三塁手中村紀洋を除いてはポジションが被る選手を補強することはなく、あくまでレギュラーが確定していないポジションへの補強にとどめていた。
 さらに、巨人と異なるのは、中日ではレギュラーがいるため、出場機会に恵まれないが他球団で必要とされる選手は、落合が積極的にトレードで放出してきた。鉄平、森岡、新井良などである。
 こうして落合は、無駄を省いた必要最小限の戦力のみでチームを作り、プロ野球全体の活性化への貢献も怠らなかったのである。

 そんな中、原の優勝手記の中で、マスコミ報道によってあまりにも有名になった中日批判は、中日の実情から見れば、完全に的外れであった。

「WBCに中日の選手は一人も出場しなかった。どんなチーム事情があったかは分からないが、日本代表監督の立場としては『侍ジャパン』として戦えるメンバーが中日にはいなかったものとして、自分の中で消化せざるを得なかった。
 野球の本質を理解した選手が多く、いつもスキのない野球を仕掛けてくる中日の強さには敬服するが、スポーツの原点から外れた閉塞感の様なものに違和感を覚えることがある。
 今年最初の3連戦、しかも敵地で中日に3連勝出来たことは、格別の感があった。」(読売新聞2009.9.24)


 この年の巨人は、原の個人的な怨恨から、中日戦に全精力をつぎ込む執念を見せてきた。それが功を奏して圧倒的なリーグ優勝を果たすことにつながりはしたが、見解は明らかに誤りであり、長期的な視野に立つ中日の底力も見誤っていた。
 WBC出場辞退のとき、岩瀬・森野・和田は、体調が万全でないこと、浅尾は、年間通して活躍したことがないこと、高橋は、調整面で不安があること、といった理由を公表した。特に岩瀬と森野は、北京五輪で過激な国内批判を受け、WBCに出場できる精神状態ではなかった。
 中日は、落合就任後、一貫してペナントを勝ち取ることを第一優先としてきた。ゆえに、選手にもそれが浸透していて、自らの状態と立場を冷静に判断したとき、いずれの選手もWBCを二の次とせざるをえなかったのである。
 原は、かつての巨人の栄光を笠に着て、日本人選手は、お国のために全力で戦わなければならない、という軍国主義的な考えの下で『侍ジャパン』を指揮したわけだが、アマチュア中心の大会とは異なり、出場するリスクの大きさに対する考慮と配慮が欠如していた。

 原にとっては、ペナントレースを優先する選手たちや、チームの内情を全くマスコミに漏らさず、故障者情報や先発情報も一切流さない中日のやり方を「スポーツの原点から外れた閉塞感」と表現したが、それは、原自身が戦前から続く高校野球のような爽やかさとひたむきさのスポーツマンシップを理想としているためである。
 しかし、それは、職業野球の世界では通用しない。監督が寝ていても勝てると揶揄される巨大戦力を保持する巨人であれば、正々堂々と試合をしていれば勝てるのだが、他の球団はそうもいかない。自前の選手を鍛え上げて、シーズン通していかに調整をして有利に戦いを進めていくかを綿密に練り上げなければ、巨人の上に行くことはできないのである。
 それは、裏を返せば、巨人が他球団には真似できない資金力と人脈を駆使して、スポーツマンシップに反するほど巨大な戦力を抱えているからに他ならない。
 2009年の中日は、巨人の巨大戦力に屈することにはなったが、落合野球の一貫した信念は、翌年と翌々年にいかんなく発揮されることになる。

 原の手記を読み返してみると、原は、寄せ集めの戦力が個々の実力通りに機能した2009年の圧勝を、自らの指導力、育成力の成果という大きな誤解をしてしまっている。
 巨人は、育成選手2人の奇跡的な活躍により、3連覇が外国人選手と他球団選手を中心とする寄せ集めの賜物であることを忘れて、この年から育成中心へのチーム作りへ切り替えて行こうとする。
 それにより、巨人は、翌年、翌々年とチーム力を落としていき、お家騒動とまで呼ばれた清武騒動へと突き進んでいくのである。


 32.リーグ優勝だけを目指して〜2010年〜

 落合の監督としての力が最も発揮できた年を聞かれたら、私は、2010年を挙げる。他の年には、様々な外部要因があって、大きな騒ぎで野球どころではなくなるような出来事も多かった。
 しかし、2010年は、無風だった。制度が大きく変わるでもなく、五輪やWBCがあるわけでもなく、ストや震災もなかった。
 大型補強で得た強力な戦力を保持する巨人や阪神と、自前の戦力でそれに対抗する4球団という図式も変わらなかった。

 前年に巨人が圧倒的な強さで日本一に登り詰めたこともあって、世間の見方は、巨人が圧倒してセリーグ四連覇だった。2010年を迎える巨人に不安があったと言うならば、わずかに原監督が優勝手記で見せた有頂天なうぬぼれくらいである。
 少なくとも2010年は、巨人が優勝する。私も、そう高を括っていた。

 この年、落合は、巨人圧勝の前評判の中、リーグ優勝奪還だけを目標に掲げた。クライマックスシリーズも、日本シリーズも捨てる。ペナントレースに全精力を注いで燃え尽きる。
 すべては、リーグ優勝のためだけに。そんな強い決意がにじみ出ていた。
 しかし、中日は、これといった補強をしたわけでもなかった。新人以外では、ソフトバンクで鳴かず飛ばずとなった三瀬幸司を獲得し、ドミニカから未知数のセサルとバルデスを安価で獲得したにとどまった。セサルは、抜けた李炳圭の穴埋め、バルデスと三瀬は、抜けたパヤノの穴埋めである。

 巨人は、大リーガーのエドガー、小林雅英を獲得し、シーズン途中には楽天の朝井秀樹も補強してさらなる強化を図った。さすがに2009年に万全の戦力を保持しただけに、例年に比べると補強は小さかった。それに、巨人は、育成選手を大量保有しての補強方針へ転換しようとしていた。
 一方、阪神は、大リーガーの城島健司、マートン、メッセンジャー、フォッサッムを獲得、それ以外にも、元ソフトバンクの投手だったスタンリッジと、海外から大型補強をしてきた。

 戦力を見る限り、中日が巨人や阪神に勝てる見込みはなかった。柔よく剛を制す野球がここから2年間見られるとは、私も、このときは予想だにしなかったからである。


 33.予想通りの展開から予想外の混戦へ〜2010年〜

 世間の予想通り、巨人は、圧倒的な戦力を武器に横綱相撲で4月10日に首位に躍り出ると、その後も安定した戦いぶりで勝利を重ねていく。6月30日には、2位阪神に5ゲーム差、3位中日に8ゲーム差をつけて、独走の気配が漂ってきた。
 一方、中日は、一進一退の試合状況で6月も11勝11敗と煮え切らない試合が続く。

 この年の序盤で目立っていたのは、荒木・井端の二遊間コンバートと、冷静に試合を俯瞰する落合の逸話くらいである。
 その有名は逸話は、4月27日の巨人戦で起きた。
 この試合は、森健次郎球審で試合が始まったが、2回表の巨人攻撃中、落合は、森球審の元に突如歩み寄り、交代を勧めた。これは、ダイヤモンド全体を視野に入れて野球を見ていた落合が球審の様子をいつもと違うと気付き、その理由が体調不良にあると見抜いたのである。
 実際、森は、このとき、風邪による発熱により、体調が著しく悪化していた。
 事情を飲み込めない巨人の原監督は、何事かと球審のところに飛んできて確認し、テレビ中継者や観客も訳が分からず、騒然となった。他の人々にとっては、その程度の認識しかなかったのだ。

 しかし、落合は、グラウンドの隅々までに目を凝らして、普段とどこか異なるところはないかと日々研究を重ねる。選手たちがフォームを崩していないか、どこか故障をしてしまっていないか、疲れで動きが鈍くなってないかなど、あらゆる情報をグラウンドから読み取るのだ。それゆえに、球審の体調不良に気づいてしまったわけである。
 戦力で劣る球団が巨大化した球団を相手に長いペナントレースを勝ち抜くには、そうした細かい研究の積み重ねで、自他のチームの状況を的確に把握し、相手の隙を見つけては、そこに付け込んでいく緻密な野球が必要なのである。そのためには相手にも隙は見せない。
 たとえ、部外者には「閉塞感」ととらえられようとも、そこを崩せば、勝つことができないからこそ、落合は、自らの方針を決して曲げようとしなかったのだ。

 この試合は、先発朝倉が崩れたこともあって、0−8で巨人に敗れるが、中日が巨人に与えたダメージは、それ以上に大きかったと言える。
 私も、後で知って驚いたのだが、この試合の後、中日は、巨人戦に14勝6敗と大きく勝ち越すのである。
 この年のターニングポイントは、巨人戦だった。
 8ゲーム差ついてから、最初に対戦した7月9日からのナゴヤドーム巨人3連戦は、7.5ゲーム差で迎える。ここで、中日は、吉見・山井・チェンをつぎ込み、3連勝を果たすのである。
 この年、中日は、巨人戦にチームの柱となる投手をぶつけるローテーションを組んでいた。巨人の戦力があまりにも強大なため、直接巨人を倒さなければ、優勝は難しいからだ。
 中日は、巨人戦に右の吉見と左のチェンという左右両エースをぶつけていった。特に後半戦では安定してきた山井を入れて、完全な表ローテーションで巨人を徹底的に叩いていく。

 7月9日からの巨人戦3タテは、チームにさらなる波及効果をもたらす。打線も投手も好調となって波に乗り、7月16日の広島戦で山井が完封したのを皮切りに、中田・チェン・岩田・ネルソンが先発で好投し、チームとして5試合連続無失点勝利という快挙を達成したのである。
 その勢いで7連勝した中日は、これで一気に首位巨人に2.5ゲーム差にまで迫り、優勝が現実味を帯びてきた。
 中日が得意とする混戦に持ち込んだことで、巨人と阪神にも焦りが出てくる。シーズン前の巨人独走という前評判は、もはや風前の灯となり、7月後半には巨人・阪神・中日が2.5ゲーム差にひしめく予想外の展開となったのである。


 34.落合の計算通りのリーグ優勝〜2010年〜

 相変わらず、巨人と阪神が中日の上にはいたが、この2チームは、首位を争いながら、投手陣を酷使して徐々に疲弊の色が濃くなってきていた。
 個々人の才能と実力は、巨人や阪神の方が圧倒的ではある。しかし、中日は、投手や野手を適材適所で起用し、しかも、無理をして目先の1勝にこだわることは避けていた。
 そして、質量ともに豊富な中日キャンプの成果が表れるのは、シーズン後半戦である。
 8月は、目先の優勝争いにこだわりを見せた巨人と阪神が粘りを見せ、8月末時点で1位阪神、2位が1ゲーム差で巨人、3位が2位と1.5ゲーム差で中日という混戦は続いた。とはいえ、中日は、8月17日からの巨人戦でまたしてもチェン・山井・吉見の3人で3タテを記録していた。
 打線では、和田・森野・ブランコを中心とした打線が機能し、投手陣も、吉見・チェン・山井を中心にリリーフの高橋・浅尾・岩瀬も好調を維持している。

 もはや中日が首位に立つ日が近いのは明らかだった。私も、さすがにこの頃には中日のリーグ優勝を確信した。
 シーズン前やシーズン序盤から見れば、まったく予想外の展開ではあったが、3つ巴の接戦は、中日にとって理想的な展開でもあった。落合の我慢強い采配が勝負の9月に生きてくるからである。まさに、落合の計算通りのシーズンとなった。

 9月3日からの巨人3連戦は、吉見・山本昌・中田を先発に立て、調子を上げてきたベテラン山本昌と中堅中田が期待に応えて3度目の巨人戦3タテに成功する。これで2位に上がった中日は、9月10日の横浜戦に勝ち、阪神を抜いて首位に浮上する。
 そうなると、もはや中日が首位の座を明け渡すことはなかった。9月末には2位阪神に2.5ゲーム差をつけて、10月1日には2位阪神が敗れたことにより、4年ぶりのリーグ優勝を決める。
 驚くべきことに、シーズン79勝という優勝ラインは、落合と森が想定していた優勝ラインとぴったりと一致していたという。打率はリーグ5位ながら、防御率は、他チームを圧倒して1位、広く守りやすいナゴヤドームを中心とするホームゲームで53勝18敗1分と圧倒的な強さを誇った。まさに落合が目指していた投手を中心とした守りのチームで勝ち取ったリーグ優勝だった。


 35.ロッテに史上最大の下剋上を許す〜2010年〜

 この年の中日は、最大の目標であったセリーグ優勝を果たし、その後の試合には大きな重点を置いていなかった。
 それは、短期決戦があくまで時の運であることを落合は、身をもって知っていたからだ。いかにペナントレースで勝った強いチームとはいえ、短期決戦ではあっけなく敗れることもある。
 2人の投手が好調で、2・3人の打者が好調であれば、短期決戦で先に4勝することは難しくない。
 よほどの力の差がない限り、勢いに乗った選手の多い方が勝つ。短期決戦とはそういうものだからだ。

 とはいえ、完全優勝は、落合の悲願であるだけに、落合は、貪欲に日本一を狙いに行った。
 その1つ目が選手全員を登録抹消という方策である。10月2日にシーズン最終戦を終えた後、クライマックスシリーズのファイナルステージまでには18日間ある。そうなると、全員を登録抹消しても、10月20日までに再登録できる。つまり、競争心をあおり、見極めた万全のメンバーをクライマックスシリーズ直前に登録し、それまでに故障しても、出場するときに登録できるというメリットがある。1回抹消すると10日間再登録できないだけに、そのリスクを回避したわけである。中日は、心理的にも優位な中で、クライマックスシリーズへ突入する。

 クライマックスシリーズは、4年連続でファイナルステージが中日×巨人の戦いとなった。
 2007年とは異なり、1位に1勝のアドバンテージがある効果は大きい。しかもシーズンに圧倒的な強さを誇ったナゴヤドームだけに、中日の勝利は、明らかだった。
 1勝のアドバンテージを含めて4勝1敗で中日は勝ち抜いていく。

 問題は、パリーグ3位から勝ち上がってきたロッテだった。ロッテは、首位と2.5ゲーム差で3位となったものの、2位西武との第1ステージを2戦連続延長戦で勝ち抜き、1位ソフトバンクとのファイナルステージも、1勝3敗とリードされる絶体絶命の状況から3連勝して日本シリーズに駒を進めていた。
 ロッテは、チーム打率がリーグ1位ながら、チーム防御率はリーグ5位という打撃のチームである。
 前評判は、中日投手陣×ロッテ打線。有利なのは、強力投手陣を持ち、リーグ優勝した試合巧者の中日というものであった。

 日本シリーズ前での監督会議でも、主導権は、中日が握った。矢継ぎ早に落合が質問を投げかけたのだ。
 その中で有名なのが「7試合引き分けで第14戦までもつれこんだらどうするのか?」である。会議のメンバーは、そんなことなどありえないという表情を浮かべていたそうだが、第7戦までは延長15回引分制で、第8戦以降が延長無制限であるだけに、理論的には起こりうる。現実的には第7戦の11月7日で決着がつかなければ、第8戦以降はナゴヤドームで試合を行う。仮に第13戦までもつれ込んだとすると、試合日の11月13日は、既に組まれている日韓クラブチャンピオンシップと重なってしまうのである。
 落合は、今年の対戦なら、そこまでもつれることがありうるという見解を示した。だが、日本プロ野球機構は、あまりに予想外の質問に絶句してしまい、結局はお茶を濁された形で終わる。

 しかし、落合の発言が現実味を帯びてまさかと思わせたのが、この日本シリーズが3回も延長戦に突入したからである。第4戦は、延長11回で中日が4−3で勝ち、第6戦は、球史に残る5時間43分の激闘の末、延長15回引き分け。第7戦は、延長12回までもつれ込んだのである。結局、ロッテが延長12回に勝ち越し、4勝2敗1分で日本一になったが、延長15回までもつれて引き分ければ、第9戦まで行く可能性が高かった。
 落合は、延長15回までの試合が増え、第8戦以降がありうることを示し、それに対応できる選手枠25名の拡大、そして、延長無制限の検討を促す意図があったのである。ただプロ野球界に落合の洞察力を見抜ける人物がいるはずもなかった。

 こうして落合が緻密に練り上げた戦略をもってしても、中日は、「史上最大の下剋上」と称して勢いに乗るロッテの快進撃を食い止めることができなかった。
 短期決戦は、よほどの実力差がない限り、どこが勝ってもおかしくない。ロッテの勝利は、世間で想定外の快進撃ととらえられたが、落合にとっては、想定内の敗戦であった。それゆえに、落合は、2011年の目標をリーグ2連覇に定めるのである。


 36.落合退任後の展望〜2012年〜

 2011年11月22日、落合は、中日監督の退任会見を開いた。
 このとき、落合が後継者に指名したのは、谷繁だった。振り返ってみれば、8年間、投攻守の3方面から落合野球を実践してきたのは、谷繁ただ1人である。
 落合や森の意図を素早く汲み取り、ダイヤモンドの中でチームを動かしてきたのは、まぎれもなく谷繁だ。それゆえに、落合政権の8年間が終わったとき、谷繁は、チームの浮沈を左右する存在となっていた。
 逆に言えば、谷繁が元気であれば、チーム成績が大きく崩れる心配はなかった。それに、落合が8年間鍛え上げた選手たちがそろうだけに、年が明けただけで一気に弱体化してしまうことも考えにくい。

 2011年に打撃陣が苦しんだ統一球への対応さえ、上手くいけば、打線も、2010年以前の勝負強さを取り戻すはずである。
 2010年がチーム打率.259、2011年が打率.228と3分以上も落ち込んだのは、過度に統一球を意識しすぎて各選手が打撃を大きく崩してしまったのが原因だった。特に和田は、2011年に腰への負担軽減と理想のフォーム追求に向けてオープンスタンスからスクエアスタンスに変えるという打撃改造を行っていた。それが統一球導入と重なったことで、和田は、長いトンネルに入り込んでしまったのである。打撃フォームと統一球という大変革に対応するには、酷な年齢にさしかかっていることも事実だった。

 落合は、2011年中日打撃陣が統一球に苦しんだ理由を「統一球を意識しすぎて、ボールを振りすぎ」と指摘している。これは、おそらく落合が中日に言い残した最後の指導発言である。中日の打撃陣が本来の姿に戻るためには、統一球への対応だけが課題だった。
 打線は、2011年よりはよくなる。落合も、予測していたように、2012年には統一球にそれなりに対応できることは目に見えていた。
 また、大島、平田、堂上兄弟、野本ら、若手野手も、順調に成長してきており、今後に期待が持てた。

 投手陣も、左のエースだったチェンが大リーグ移籍のために抜けることになったが、代わりに大リーグに移籍していたかつてのエース川上憲伸が中日に復帰した。そして、大リーグで通算44勝を挙げた投手ソーサも、入団テストで獲得した。
 そのうえ、若手投手の山内、岩田、大野らが順調に成長しており、上手くいけば2011年以上の強力投手陣となる。
 それぞれの投手が実力通りの働きをしてくれれば、投手陣は万全である。

 むしろ不安の種は、ほとんどが入れ替わった中日首脳陣にあった。前回監督時にリーグ優勝の経験がない高木守道監督と、73歳の権藤博投手コーチ。そして、中日OBで固められたその他コーチ陣である。リーグ連覇を達成した首脳陣を一掃して、あくまで観客減を防ぎ、「Join us ファンと共に」というキャッチフレーズで観客動員増を目的とした布陣である。

 そんな中日にとって、例年以上に脅威となるのが巨人だった。巨人は、2011年の日本シリーズ前日にお家騒動とまで言われた清武代表の電撃辞任があった。これにより、巨人は、育成によるチーム作りから、かつての資金力を生かした大型補強によるチーム作りへと転換を図る。
 そして、日本一となったソフトバンクからエースの杉内俊哉、最多勝のホールトンを獲得し、横浜から不動の四番打者村田修一を獲得したのである。さらに、高年齢のラミレスを放出して、大リーガーの外野手ボウカーを獲得し、MAX163キロの剛腕投手マシソンも獲得する。
 獲得した選手たちが実力通りの働きをすれば、独走する可能性を秘めていた。
 
 巨人を中心にペナントレースが進み、それを追うのが3連覇を狙う中日、2011年2位のヤクルト、4位の阪神。この4チームのいずれかがリーグ優勝する可能性は高かった。


 37.2012年巨人独走優勝の陰で〜2012年〜

 首脳陣が高木守道監督と権藤博投手コーチの体制となって、中日の戦い方は、大きく変わった。その戦いぶりには、8年間にわたって落合野球に慣れてきたせいもあって、大きな違和感を持たざるを得なかった。
 まず2012年の中日は、シーズン序盤から目先の1勝だけにこだわり、長期的な展望を欠いた戦いに終始した。先発投手を見切るのが早く、早い回から中継ぎ投手をつぎ込む試合が増えた。さらに、中継ぎ投手も、好調な投手には連投を強いて、かなりの登板過多となる状況を作り出した。
 また、四番打者には、衰えの隠せない山崎武司を据え、不調な野手を途中交代させる采配も頻繁となった。
 どことなく、落ち着きがなく、その場その場をしのいでいく戦いぶりが目についた。
 それらの反動がシーズン終盤に出てくることも分かっていた。それだけに、2010年と2011年に見せたシーズン終盤の圧倒的な強さが影を潜めるのも明らかだった。

 それでも、中日は、シーズン序盤から投手陣が好調で、野手陣も統一球に対応し始めたこともあって、順調に勝ち星を重ね、4月と5月を首位で切り抜ける。中日の要となる谷繁も、元気だった。
 しかし、巨人がシーズン終盤も好調を維持して貯金を積み重ねていく一方で、中日は、6月以降、失速ともいえる足踏み状態に陥る。そして、7月1日に首位を明け渡してからは、徐々に巨人に引き離されていくばかりで、何の見せ場を作ることもできず、巨人の独走優勝を許す。
 そして、8月22日から9月21日の巨人優勝決定日までのちょうど1か月で中日が残した成績は、13勝12敗2引分である。2011年の中日が優勝を決める前の1か月間が17勝6敗3引分であったことを考えれば、その落差は歴然となる。
 「Join us」で増員を図った肝心の観客動員も、東日本大震災の影響を受けた2011年の214万人から、2012年は208万人へと減少してしまった。

 シーズン序盤から中日は、明らかにおかしかった。昨年MVPの浅尾は、見るからに投球フォームが崩れているのが分かったし、先発投手をすぐに交代させるため、中継ぎ陣は、酷使されていた。
 そして、浅尾が調子を修正できないまま、2軍落ちになって2軍で故障し、今度は、岩瀬にまで過度の負担がかかっていた。
 それでも、中日は、全試合を勝ちに行く作戦を変えなかった。驚くべきことに6月28日に岩瀬がシーズン25セーブ目を挙げた阪神戦は、シーズン67試合目だった。このペースで投げ続ければ、シーズン54セーブを達成できてしまうという驚くべき登板過多になっていたのである。
 これでは、さすがの鉄腕岩瀬も、いい状態が続くはずがなかった。7月半ばから8月1日にかけて3度の救援失敗。左肘を故障してしまい、球威が落ちた上に、精密なコントロールさえ狂い始めていたのだ。そして、岩瀬は、登録抹消となった。

 それでも、この年は、奇跡的に新人の田島と、テスト入団で獲得したソーサ、そして、先発から中継ぎに回った山井がフル回転して穴を埋めていく。そして、田島も、シーズン終盤には故障してしまうのである。
 その状況は、リリーフ陣だけでなく、先発投手陣にも負担がかかることになった。この年は、シーズン前に故障したネルソンに始まり、吉見やソト、川上、中田といった主力先発陣も、次々と故障で離脱してしまう。落合政権下では考えられなかった異常事態が次々と起こっていったのである。
 そういう状況に陥った中日は、チーム防御率を2.46から2.58に落とした。

 逆に、統一球にようやく対応した打撃陣は、前年の不振から脱却する。2012年の和田は、2011年のスクエアスタンスから2010年との中間にあたるオープンスタンスにまで戻し、調子を取り戻していった。和田以外にも、2011年に大きく打率を落としていた井端、大島、森野も、打率を上げて、ようやくにして統一球に慣れた野球ができるようになった。特に、ドラフト5位入団ながら、落合がルーキー時代から開幕1番センターで起用し、「打撃・守備ともに頭一つ抜け出している」と評価していた大島が打率3割と盗塁王を獲得する活躍を見せた。
 そのせいもあって、チーム打率は、2010年と2011年の中間にあたる打率.245まで回復したのである。

 私は、5月頃、巨人が独走優勝する情景が目に浮かんでいた。その理由は、まず変わり果ててしまった中日の戦いぶりがあった。そして、前年に明日なき戦いを挑み続けたつけで、故障者が続出しているヤクルトの疲弊ぶりがあった。さらに、主力選手の高齢化による衰えと若手有望選手不在による阪神の弱体化が目に余ったからである。
 7月以降、セリーグのペナントレース観戦は、極めて退屈だった。中日は、独走する巨人に引き離されていくのをただ見送るばかりで、3位のヤクルトも追ってくる気配がない。まるで序盤で各選手の差が大きく開いてしまったマラソンレースを見ているようだった。
 私が2012年のセリーグをあまりにも退屈に感じてしまった理由は、1位・2位間、2位・3位間だけでなく、5・6位間に至るまで、すべての隣り合う順位のチームのゲーム差が5ゲーム以上開いてしまったというところに集約できる。中日から落合をはじめとする首脳陣が抜けたことで、近年に例がないほど、緊迫感のないペナントレースとなってしまったのである。


 38.あとがき

 落合監督が中日監督を務めた8年間は、奇跡のようなサプライズの連続に映った。
 何せ、就任1年目に補強せずに現有戦力の10%底上げでリーグ優勝を果たし、その強さを8年間維持し続けたのである。しかも、8年間、補強と呼べるのはタイロン・ウッズと和田の獲得程度であり、それ以外は、自前の選手と安価な選手を育て上げて、常勝チームを作り上げた。
 これは、FA移籍や海外移籍、大型補強が盛んになった現代では特筆に値する。
 巨人や阪神、ソフトバンクなど資金力にものを言わせた補強によって1990年代以降も黄金時代を築いた例はあるが、それ以外では、野村克也がヤクルトで9年間で4度優勝したことが目立つくらいである。

 落合が指揮を執った8年間の成績を一覧にすると下記のようになる。
 年 ペナントレース CS   日本S  
順位  勝 結果 結果
 2004 79 56 3  優勝    3 4   敗退
 2005 79 66 1  2位
 2006 87 54 5  優勝 1 4 敗退
 2007 78 64 2  2位 5 0 優勝 4 1 日本一
 2008 71 68 5  3位 3 3 1 第2S敗
 2009 81 62 1  2位 3 4 第2S敗
 2010 79 62 3 優勝 3 1 優勝 2 4 1 敗退
 2011 75 59 10 優勝 3 2 優勝 3 4 敗退

 それぞれの年については、既に語ってきたので省略するが、1990年代以降、14年間で1回しか優勝していなかった中日を、8年間で4回優勝させた。
 そして、8年間を通してすべての年でAクラスに入り、2007年から始まったクライマックスシリーズも12球団で唯一5年連続で第2ステージ進出を果たした。
 どうして8年間、すべての年でAクラスに入れたか。
 落合は、その回答を著書『采配』の中で、こう述べている。
「選手時代に下積みを経験し、なおかつトップに立ったことがあるから」(2011.11.17 ダイヤモンド社)
 落合は、高校時代も大学時代も無名の存在だった。社会人野球で頭角を現したものの、プロ1年目はほとんど2軍で過ごす。レギュラーとして活躍するのはプロ3年目からであり、エリート選手とは異なる社会人生活、下積み生活がある。そのため、まだプロのレベルに達していない若手選手の苦労を知り尽くしているのである。
 
 そして、自らバッティング技術を研究して独自のフォームを身に着け、3度の三冠王に輝き、長年最高年俸の選手として活躍した。そして、4球団を渡り歩いて、様々な指導者を見てきたのである。
 それらの豊富な人生経験から導き出したのが、豊富な練習量で鍛え上げた「投手を中心とする守りの野球」だったのである。

 しかし、8年間の好成績は、落合1人の力で成し遂げることが可能だったか。
 その問いに対しては、否定せざるを得ない。プロ野球は、監督1人の力で勝ち続けられるほど甘くはない。落合にとって、幸運だったのは「投手を中心とした守りの野球」を実践できる人材を最初からそろえられたことである。
 それが森繁和投手コーチであり、谷繁捕手であり、川上・山本昌・岩瀬らの好投手であり、荒木・井端の名内野手であり、高代延博コーチであり、福留・英智・アレックスの名外野手だった。指導力の高いコーチをそろえ、素質の高い選手たちを徹底的に鍛え上げることによって、チーム力を強化した。そして、豊富なコーチ陣、スカウト陣をそろえていき、体力・知力・技術力といった様々な面から強化して、安定した常勝チームを作り上げたのである。

 監督として、これだけの実績を残したからには、今後、いずれはどこかの球団で監督を務めることもあるだろう。
 そうなれば、中日監督就任のときと同じようにコーチの人事権を契約条件とするはずである。
 果たして、落合がどこの球団で監督をしても、中日と同じような成績を残せるか。
 その答えは、これまでに見てきたとおり、落合がたどり着いた「投手を中心とした守りの野球」を正確に実践できるコーチ、選手がいるかどうかにかかっている。中日での8年間を見る限り、特に重要なのは、投手コーチと捕手である。

 1980年代以降、名監督として偉大な実績を残したのは、まず西武黄金時代を築いた森祇晶とヤクルト黄金時代を築いた野村克也が挙げられるが、2人とも、弱小球団では苦労を重ねている。
 森は、横浜で最下位となるなど、優勝を果たすことができずに退任し、野村も、阪神では3年連続最下位、楽天でもついには優勝を果たすことができなかった。
 あまりにも、弱体化した球団で監督をするとなると、チームを立て直す時期が訪れる前に退任を余儀なくされることもありうる。

 それでも、私は、落合が弱小球団の監督をしてほしいという願望がある。たとえば、長年優勝から遠ざかっているオリックスや横浜、あるいは未だ優勝経験のない楽天などである。
 そういった球団で、落合が描く「投手を中心とした守りの野球」をどこまで作り上げることができ、どれだけ強くなるのかを見てみたい。その過程で凡人には考えつきもしない采配や言動をきっとこれまで以上に楽しめるはずだからである。










(2013年2月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.


inserted by FC2 system