一振りの神様 〜神の役割を担った八木裕〜

山犬
 
  1.神様の引退

 2004年10月10日、甲子園で行われた阪神×巨人最終戦は、試合自体について言えば、単なる消化試合の一つで、これといって注目すべき見所はなかった。ただ神様の引退試合であることを除いては。
 「代打の神様」と呼ばれた八木裕は、この日をもって現役18年に別れを告げることを決めていた。それを一目見ようと集まったのは実に4万8千人。その大部分の人々が八木を見るためだったと言っても過言ではないだろう。
 8回裏、いつものように代打で打席が回ってくる。だが、場面は8−3とリードした1死ランナーなし。勝利は濃厚である。普通であれば、神様が必要とされる場面ではなかった。
 それでも、神様は、自らが神様であることを証明するかのようにバットを握り、しぶとくライト前にヒットを放った。

 神様と呼ばれる域に達した人物は、さまざまな分野に存在する。もちろん野球も例外ではない。
 「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治や「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた稲尾和久は誰もが知っているはずだ。
 最近では「大魔神」と呼ばれる佐々木主浩が記憶に新しい。そうでなくとも、リリーフエースは守護神と呼ばれる神であったりする。
 いずれにも共通するのは、超一流の成績を残したプレーヤー、という点だ。川上は史上初の2000本安打達成、稲尾はシーズン42勝、佐々木はシーズン46セーブポイントという大記録を樹立している。
 だが、阪神の八木裕の場合は、これとは一線を画している。
 仮に「レギュラーとして活躍した」という基準をシーズン300打席以上とするならば、彼がレギュラーとして活躍したのはわずか5シーズンでしかない。
 そして、八木は、一度もシーズン3割以上を記録することもなかった。現役を通じての話である。規定打席に達したシーズンのうち、最高打率は.267、最多安打数は118、最多本塁打数は28、最多打点は66。どれをとっても一流と呼べなくはないが、決して超一流の成績ではない。
 なのに、彼は、阪神ファンから「神様」と呼ばれた。彼は、いかなる理由で神様になってしまったのだろうか。多くの人が疑問を抱くに違いない。


  2.1992年の衝撃

 八木は、岡山東商業高校から三菱自動車水島を経て1987年にドラフト3位で阪神に入団する。21歳のときである。即戦力として1年目から69試合に出場するが、打率.175に終わっている。ただ、この年、放ったプロ初安打が本塁打であり、しかも打った相手は巨人のエース江川卓だったことを知る人はかなりの阪神通だろう。天才打者イチローがプロ初本塁打をあの大投手野茂英雄から放ったように、八木に神様の片鱗を探すならこのプロ1号本塁打ということになる。
 八木が入団した年の阪神は、日本一となってから2年しか経っていないにも関わらず、チーム力は弱体化の一途を辿っていた。41勝83敗で最下位。借金42という無惨な姿は、2年前に貯金25で優勝したチームとはとても信じられない凋落ぶりだった。
 阪神は、この年から5年間で4回が最下位、1回が5位という泥沼にはまる。そんな中で若手の成長株といえば、まず「掛布二世」と名付けられた八木が挙がってきた。八木は、1989年にシーズン16本塁打を放ち、レギュラーの座を獲得する。1990年の28本塁打、1991年の22本塁打は、いずれもチームトップ。打率は低いが、ここ一番というところで一発が打てるスラッガー。阪神ファン好みのバッターでもあった。

 1992年の阪神は、突如快進撃を始める。終盤まで優勝争いに絡み、最後はヤクルトに2ゲーム差で優勝を逃したものの、2位に躍進したのだ。八木は、このシーズン、打率.267、21本塁打、60打点とまずまずの成績を残してチームの躍進に貢献する。オマリー、パチョレックといった外国人野手が目立ったものの、日本人野手としてはやはり八木の活躍が大きかった。
 その中で特に衝撃を持って語り継がれている伝説がある。9月11日のヤクルト戦で放った「幻のサヨナラ2ランホームラン」である。その試合は、ペナントレースの流れの中でとりわけ重要だった。阪神が首位ヤクルトを破ると阪神が首位に立ち、7年ぶりのリーグ優勝が現実味を帯びてくるからだ。9回裏、同点で2死1塁という場面で八木に打席が回る。八木は、ヤクルトのエース岡林洋一からレフトスタンドへ打球を運んだ。劇的なサヨナラ本塁打か、と阪神ファンは歓喜した。
 しかし、審判は、最初「ホームラン」の判定を下したものの、ヤクルト側の抗議と審判団の協議の結果、「エンタイトルツーベースヒット」と判定を覆した。八木の打球は、外野の壁のラバー上部に当たってから、その上にあった金網を飛び越えてスタンドに入っていったという。神業としか思えない打球だった。これまで、そのような打球を放った選手は、1人もいなかった。当然、どう判定すればいいのかルールブックにも載っていない。仮に審判が協議で「ホームラン」と判定すれば、サヨナラホームランになっていたのだ。
 だが、残念ながら1人のホームインも認められなかった阪神は、後続が絶たれて得点を挙げることができず、延長15回引分けに終わって、結局リーグ優勝も逃す。
 もし、八木のあの打球がホームランと判定されていれば、あのときの勢いからして阪神が優勝していただろう。阪神ファンの多くは、いやプロ野球ファンの多くは未だにそう信じている。そうして、八木の「幻のサヨナラホームラン」は野球ファンの間で忘れることのできぬ伝説になった。
 

  3.代打の神様へ

 「幻のサヨナラホームラン」の後の八木は、まるで運を失ったかのように失速を見せる。新庄剛志や桧山進次郎ら若手選手の台頭もあって、徐々に出場機会を減らして行くのだ。
 そして、1996年には左膝を傷め、それが治りきらないうちに今度は右肩を傷めてしまった。八木にとってプロ生活初の1軍出場なし、という屈辱の年となった。
 故障後の1997年、八木は、外野から1塁にコンバートされた。度重なる故障で、負担の大きな外野や三塁は避けざるをえなかった。
 主砲クラスが座ることが多い一塁手へのコンバートにより、八木は、必然的に代打での出場が増えた。だが、八木は、代打で主力級以上の成績を残してしまう。1997年の代打成績は、42打数17安打17打点。実に打率.405、出塁率.500という驚異的な成績を残したのである。
 このとき、八木は、「悲劇の主力打者」から「代打の神様」へ転身を遂げた。
 ここぞという場面で打ってくれる。スタメンで出場したときは、それほど高い打率を残さないが、代打で登場すると、ファンが打って欲しい場面で打ってくれる。その勝負強さは、ファンを引き付けるには充分だった。
 いつしか1985年に日本一となったときのレギュラーはすべて去り、1992年のレギュラーで尚、活躍している数少ない選手の一人となっていた。
 1985年にバックスクリーン3連発をぶち込んだバース・掛布雅之・岡田彰布が特別な存在として語られるのと同じように、八木もまた特別な存在となりつつあったのだ。
 阪神ファンは、1990年代で唯一Aクラスとなった1992年を知る八木にその再現を託していたと言っても過言ではない。


  4.伝説の代打

 代打八木を語る上で忘れてはならない選手が2人いる。高井保弘と川藤幸三である。大選手が晩年の数シーズンを代打生活でつなぐケースは多くあるが、この2人は、現役生活のほとんどを代打生活に費やした。
 高井は、現役16年で年間300打席以上はわずかに3回のみ。そのうち2回は打率.300以上を記録しているから常にレギュラーとして出場していてもそこそこの成績は残していた可能性が高い。だが、高井が現役生活を送ったのは阪急の黄金時代だった。
 高井が守る一塁は、強打者の指定席になっていた。1967年から強打の外国人選手スペンサーが入り、1971年からはのちに通算2000本安打を達成する加藤英司が一塁手として入った。高井は、他のチームではレギュラーになるだけの実力を持ちながら、この大打者たちの陰に隠れる格好になった。
 それでも代打中心ながら高井は、1972年に打率.271、15本塁打、1973年には打率.281、8本塁打を残す。
 そして、伝説となった1974年が訪れる。相変わらず、代打稼業を黙々と続ける高井を南海の野村克也監督がオールスターゲームに監督推薦で選出したのだ。
 高井は、オールスター第1戦の9回裏1死1塁、スコア1−2とリードされた場面に代打で登場する。このとき、高井は、パリーグのナインに「帰る用意をしとけや」と言い残してバッターボックスに入ったと言われている。
 高井は、自らの予言通り、豪快にレフトスタンドへ放り込んだ。スコアは3−2。劇的な代打逆転サヨナラ2ラン本塁打であった。高井は、その一振りでオールスターMVPを手にしたのである。
 そして、この年は、シーズン代打本塁打6本の日本記録も樹立した。
 その後、1975年からパリーグに指名打者制度ができたことによって、高井のスタメンでの出場機会が増える。しかも、その指名打者制度の導入も、強打者高井を無駄にベンチへ置く日本野球を批判した外国人記者の記事が元となっての改革だったという。この年、高井は、通算代打本塁打19本目を放ち、世界記録を樹立する。
 1977年から1979年まで指名打者として3年連続で規定打席に到達。指名打者制度がもう少し早く導入されていれば、高井の野球人生はもっと違ったものになっていただろう。
 結局、高井は、2軍での通算本塁打71本、1軍での通算代打本塁打27本という圧倒的な日本記録を残して1982年に引退したのである。

 一方、川藤幸三の場合、ドラフト9位で入団し、最初から最後までほぼ代打稼業に徹した職人だった。守備固めでよく起用されていた時期もあったが、足が遅かったため、レギュラー獲得には至らなかった。
 やはり川藤の持ち味と言えば、闘志を前面に出したバッティングだった。パワフルなフォームは、打席に立つ前にバットを振り回す姿だけでも絵になった。ところが、川藤が1軍で最もよく起用された1974年、川藤の成績は240打席で打率.198。イメージとは合わない犠打20という記録を作り、何とそのシーズンの最多犠打に輝いている。
 1977年までの川藤は、1軍と2軍を行き来する二流選手だった。
 そんな川藤が認められるのは1978年からだろう。シーズンのほとんどが代打生活ながら打率.327を残したのである。翌年も3割を超えた川藤は、1980年には47打数17安打で打率.362という代打専門の打者とは思えない高打率を残してしまう。1981年にも3割を打った川藤は、代打の切り札として確固たる地位を築いた。
 しかし、そんな川藤にも世代交代の波に巻き込まれる。1983年、打率.241という今ひとつの成績に終わった川藤は、球団から引退を勧められたのである。若手が育ってきたから、そろそろ身をひいたらどうだ、という話だった。ところが、雑草のようにしぶとく生き残ってきた川藤の野球に賭ける情熱は、ちょっとのことでは冷めなかった。
「年俸はいくらでもいいから、もう1年野球をさせてくれ」
 川藤の言葉には、もはや給料はただでもいいから、という匂いさえただよっていた。おそらく年俸が0円であったとしても川藤はプレーしたのではないかと思う。
 さすがにそこまで言われると、阪神も、川藤を引退させることはできない。推定年俸1260万円から半額以下となる推定600万円で川藤を残すことにした。
 川藤の球団との交渉は、全国に知れ渡り、関西のファンや著名人は、カンパを行って川藤の年俸の足しにしようという運動まで起こした。川藤は、そうして集まった資金を年俸の足しにしようとはせず、恵まれないファンのために甲子園の席を用意したという。
 川藤は、この出来事を機会に「浪花の春団治」として全国に認められるプロ野球選手となった。1985年には阪神のリーグ優勝のときには、吉田義男監督に続いて胴上げをされ、新たな伝説を作った。そして、1986年には吉田監督の推薦で初のオールスター出場を果たし、左中間を深々と破るヒットを放つ。しかし、普通の選手なら楽に2塁打になる当たりだったにも関わらず、2塁のはるか手前で簡単にタッチアウト。その足の遅さすら伝説になった。
 川藤は、現役18年で16本塁打放ったうちの5本を引退する1986年に打つという離れ業を残して惜しまれながらもバットを置いた。

 八木が「代打の神様」としてファンから愛されたのも、関西で代打男として名を残したこの2人に重なるものを感じさせたからに違いない。たとえ、代打本塁打13本で高井の27本には遠く及ばなくとも、「幻の逆転サヨナラ2ラン本塁打」の印象が「浪花の春団治」に及ばなくとも、八木は、黙々とファンの期待を実現してくれる神様のような存在となっていたのだ。


  5.2003年、神様としての役割を果たす

 2003年、星野仙一監督となってから2年目のシーズンは、阪神の独走でペナントが進んだ。八木は、依然として代打の切り札だった。64試合に出場して打率.286、21打点を叩き出した。
 87勝51敗という圧倒的な成績でのリーグ優勝。下柳剛、伊良部秀輝、アリアス、金本知憲、片岡篤史、矢野輝弘など、他球団から移籍してきて活躍する選手達の陰で目立ちはせぬが、生え抜きのベテラン選手といえば、まず八木だった。
 1985年に爆発的な打撃力で日本一になって以降、阪神は18年間リーグ優勝から遠ざかっていた。八木にとっては、1987年に入団してからプロ17年目にしてようやくつかんだ優勝だった。プロ6年目に「幻の逆転サヨナラ2ラン本塁打」という神様のいたずらによって優勝を逃した八木は、自らが神様になることによって最後の輝きの中で優勝を手に入れた。
 八木は、この年、やり残した仕事をすべてやり遂げてしまったのだろうか。
 2004年、ついに引退を決意する。
 引退試合の後、八木は、ナインの手によって胴上げされ、5回宙を舞った。長い間、代打稼業を続けてきて、最後にこのような形で有終の美を飾れる選手は、ほとんどいない。
 おそらく阪神でも、ここまで惜しまれて辞める代打屋は、川藤と八木くらいだったにちがいない。実は、この2人には奇妙なつながりがある。川藤が引退した翌年、入れ替わるように八木が阪神に入団しているのだ。まるでバトンを渡すように引き継がれた阪神の「代打の切り札」は、一体誰に引き継がれるのだろうか。今年のドラフトで入団してくる新人選手がその系譜を引き継いで「代打の切り札」となってゆく。そんな伝説を僕は、見てみたい気がする。





(2004年11月作成)

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