活気を与える魔術師再到来  〜バレンタインのロッテ監督復帰〜

山犬
 
  1年きりの奇跡

 「1995年」と聞いて、何を思い出すだろうか?
 この年は、いろんなことが起こった。いろんなことが、というよりは大きな出来事が、と言った方がいいかもしれない。  たとえば阪神大震災が起こった。地下鉄サリン事件が起こった。不況がどんどん色濃くなってきており、長年敵同士だった自民党と社会党が組んだ連立政権がなぜか続いていた。混沌とした社会状況は、世紀末思想で人々を不安を陥れることを望んでいるかのようだった。
 そんな年に、初めて大リーグ監督経験者が日本のプロ野球監督になる、という大きな出来事は起こった。
 プロ野球界で、この出来事は、プロ野球史に燦然と輝く画期的な大ニュースであるべきだった。しかし、それは、周囲の大きすぎるニュースにかき消されていく。なぜならロッテだったから。ロッテのそれまでの成績を考えて、少し失礼な言い方をすればそういうことになる。

 ロッテは、1986年オフに落合博満を放出して以降、8年連続5位以下という悲惨なチーム状態に陥っていた。ロッテは、組織を大きく改革し、西武の監督として名声を得た広岡達朗をゼネラル・マネージャー(GM)に据えて、球団全体の統括者という役割を与える。そして、広岡は、大リーグ監督経験のあるボビー・バレンタインを監督に据えた。
 バレンタインは、ロッテの閉塞した状況に風穴を開ける。
 ロッテは、例年になく好調を持続して1985年以来、10年ぶりにAクラス入りを果たし、2位に躍進する。優勝まであと一歩というところまで迫ったのだ。
 しかし、それは、わずか1年きりの奇跡だった。
 その1年だけでバレンタインを解任したロッテは、再びBクラスの泥沼から抜け出せなくなってしまったのだから。
 2004年、そのボビー・バレンタインが再びロッテの監督として戻ってくる。


  屈辱の17年

 いくら世間が世紀末の様相を呈してきたといっても、ロッテの2位は、確かに事件だった。何せ、今となってみれば、1990年代唯一のAクラス入りという快進撃だったのだ。ただ主役は、阪神大震災の被災地神戸を本拠地とするオリックスに譲ったのだけど。
 それだけの結果を残しておきながら、バレンタインは、解任という形で日本を後にする。
 ロッテの躍進という成果を挙げながら解任。このことは、誰の目から見ても不可解だった。バレンタインは、前年5位のチームを2位に引き上げたのだ。しかも、バレンタインは、歴代のロッテ監督の中でも1・2を争うほどの人気を誇った
 ファンは、彼の解任を惜しんだ。僕も、ハッピーエンドで次の年につなげるべきドラマが一転して悲劇の結末になってしまったのか解せなかった。
 しかし、その悲劇の結末に至る過程は、バレンタインが解任されてから徐々に浮き彫りになってくる。バレンタインの悲劇は、既に就任時点から始まっていたのだ。GMと監督という2大指揮系統を置いたそのときから……。
 ロッテは、1996年に再び5位へ落ちて、今度はバレンタインを解任した広岡達朗GMをも解任する。迷走するロッテは、泥沼にはまる。この年からまたしても8年間Bクラスに低迷することになったのだ。投手の二枚看板だった伊良部秀輝と小宮山悟はチームを去っていった。浮上するきっかけすらつかめないまま、時だけが過ぎてゆく。それが1990年代後半から現在までのロッテだった。

 だが、ロッテは、元々そんな弱小球団だったわけではない。ロッテの前身は、毎日である。毎日は、1950年のセ・パ分立の年にパリーグを制覇し、そのまま記念すべき第1回日本シリーズも勝った。伝統ある名門球団と言って差し支えないだろう。
 そのロッテがここ17年でBクラス16回という屈辱を味わっている。
 そんなとき、ロッテの球団内でついにバレンタイン待望論が大きくなり始めた。
 彼しかいない。彼なら今のロッテを変えられる。
 屈辱の17年のうち、たった1年だけ輝いたあの清涼感を今、再びロッテは求めたのである。
 そして、バレンタインは、再びロッテのユニフォームに袖を通した。ファンは、あの1年を決して忘れていなかった。まるで、水底深くで暮らしている魚が空気を吸うために一時的に水面から顔を出したかのようなあの1年を。
 契約前に来日したときからバレンタインは、多くのファンから歓迎を受ける。そこには、小学生の姿も多くあった。おそらく前回2位になったときには、まだ野球というものすら分からない年齢だったはずだ。それなのに、バレンタインを知っていて、応援している。
 つまり、あの1年は、ロッテファンの間では、既に伝説なのだ。僕は、バレンタインの残した1995年の衝撃の大きさを感じた。
 これほどまでの歓迎を受けたバレンタインは、今度こそ、自らの思い通りにチーム作りをし、指揮を執ってみせようと意気込んでいるに違いない。
 悪夢のような9年前の日米摩擦を繰り返さないために。


  ロッテの誤算

 今となっては輝かしく映る1995年。しかし内情は、大きな分裂を含んでいたとしか言いようがない。
ロッテの誤算は、指揮系統を二つ持ってしまったことだった。
 ロッテは、バレンタインの上に広岡達朗をGM(ゼネラルマネージャー)として置いた。それが双方の確執を生むことになる。あまりにも方針に格差がありすぎたのである。
 バレンタインがロッテの監督を引き受けたのは、広岡達朗の国際化を望む方針に賛同したからだった。
 しかし、そうした考えを持っていたのは広岡だけで、周囲の体制は全く整っていなかった。
 その上、広岡でさえ、指導方針は自らが以前から貫いてきた日本式の管理野球を基本としていた。
 バレンタインの著書『1000本ノックを超えて』(永岡書店1996年)には、日本式のやり方に戸惑いの連続だったバレンタインの嘆きが記されている。
 バレンタインのアメリカ式の合理的なやり方は、まずキャンプ開始から非難の的となる。一・二軍を長期間、一緒に練習させ、チーム内競争を激化させるやり方は、ベテランを優遇し、競争を好まずに序列を作る日本では批判の対象となる。
 それだけではない。消極的な犠牲バントより積極的なセーフティーバントを重視させる戦略や、単に長時間練習するよりも質の高い練習と休養を重視したコンディショニングは、広岡や彼直属のコーチが執拗に反発した。
 そうなると、状況は、日を追うごとに悪化していく。一度狂い始めた歯車は、どんどん狂いを大きくしていくものだ。
 ペナントレースが進むにつれて、広岡とバレンタインのコミュニケーションは希薄になっていく。
 バレンタインが貴重な人材と高く評価していたコーチや通訳を広岡は2軍に回したり、アメリカに左遷したりする。広岡の側近であるコーチ達は、監督の出すサインを故意に間違えたり、広岡の指示だけに従うという嫌がらせに出る。
 その上、広岡は、選手起用まで自分と結び付きの強い選手を使うよう指示を出し、バレンタインから一軍と二軍の選手入れ換えの権利を取り上げる。
 ここまでくると、もはや組織として成り立っているとは言えない。まるで、リストラをするために特定の人物をいじめているようなものだ。

 シーズン終盤の9月、広岡は、前日の試合でミスが多かったのは集中力が足りないせいだと決めつけ、練習させる。しかし、バレンタインは、そのような精神主義は意味がないと考え、ミスは選手達の疲労のためとして連戦の前なので休日にすることを主張した。でも、バレンタインの意向は完全に無視された。もはや話し合うところにすら辿り着けない
 2003年に中国の西安大学で、日本人留学生が大学祭で演じた寸劇の内容をめぐって、中国人が「自分たちを侮辱した」と騒ぎ立てて、留学生宿舎が襲撃されるほどの大騒動に発展したが、言葉が正確に伝わらない悲劇は、接点を見出すことなく終わっていくことが多い。
 1995年のロッテもバレンタインと広岡の指導方針は、食い違ったまま、シーズンが終わって行った。そのような状況で2位になったこと自体が奇跡だったのかもしれない。
 広岡GMは、シーズン終了後、バレンタインを解雇する。
 内情を知らない僕にとって、解雇は衝撃だった。傍目からおしどり夫婦と見えていた家庭が突如離婚で離散してしまったときのような……。何せ成績を見れば、ありえない話なのだから。
 実のところ、野球ファンの僕たちが成功と確信していたものは、内部では既に崩壊していた。そのことを僕が知ったのは、かなり後のことである。


  魔術師バレンタインの実績とロッテ再生

 バレンタインがアメリカで頭角を現したのは選手としてというよりは、むしろ監督としてだ。実績に大きな差がある、と言って差し支えないだろう。
 バレンタインは、1968年から1979年まで現役でプレーしている。ドジャースにドラフト1位で指名を受けて入団。1971年には大リーグに昇格している。大リーグではチームを転々としながら通算で打率.261、12本塁打という成績を残しただけである。故障の影響もあって、決して満足がいく現役生活ではなかったらしい。
 1977年に現役を引退すると、バレンタインは、コーチとしてアメリカ球界に残る。マイナーリーグやメジャーリーグのコーチを経て1985年、35歳の若さでレンジャースの監督になる。リーグ最年少の監督だった。そして、2年目の1986年にはレンジャースを地区2位に引き上げ、アメリカンリーグの最優秀監督賞を獲得する。
 1994年は、ニューヨーク・メッツの3Aノーフォーク・タイズの監督をしていた。このままあと数年すれば、今度はメッツの監督になることが有望視されていた。
 そこで日本のロッテから声がかかったわけである。

 1995年にロッテを5位から2位に躍進させる、という実績を置き土産に、バレンタインは、再びアメリカに戻ると、またしても指導者としての名声を築き上げる。3Aノーフォーク・タイズの監督を経て、大リーグのメッツの監督に就任し、2000年にはメッツの監督としてチームをワールドシリーズにまで進出させたのだ。
 その手腕は、もはや疑いようのないものだった。
 バレンタインは、選手の能力を引き出すことや、選手とのコミュニケーション、そして、選手を一つに統率して行くことに優れた力量を発揮する。そのことは、ロッテの選手の多くが1995年にベストに近い成績を残していることから推察できるだろう。

 ロッテで現役時代に3度3冠王に輝き、最近、中日の監督になった落合博満は、ルーキーたちの入団発表の席でこう述べた。
「首を切られる選手じゃなく、自ら辞めていく選手になってほしい」
 周囲を納得させる成績を残して、解雇ではなく、自ら引退を決められる選手となれ、という至高の激励だ。
 バレンタインも、前回にロッテで監督をしたとき、自ら辞めていけるだけの成績を残した。しかし、彼は、その機会を奪われた。あのとき、1万5千人のファンがバレンタインを惜しんで残留の署名を行ったという。それは、奪われた「自ら辞めていける機会」に対するファンのささやかな代弁だった。
 バレンタインが今度、ロッテの監督を辞めていくときを僕は今から想像してみる。
 弱かったロッテを日本シリーズに導いた監督として、ファンに惜しまれながらも自ら勇退して行く。僕は、あの悲劇を知った者として、そういう結末であってほしいと強く願っている。




Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.


inserted by FC2 system