2007年11月30日、高野連は、2009年度入学者から3年間の暫定措置として特待生を容認する決定を発表した。特待生の人数は、「各学年5人以下が望ましい」との努力目標付きである。
 これは、特待生問題有識者会議という第三者機関の答申を受けてのものだという。確かに、高野連が特待生の対外禁止処分を発表してから、高野連は、世論とマスコミから集中砲火を浴びた。あまりにも突然で公平を欠く独断的な処分だったせいで、特待生自体よりも、高野連が反省をしなければならない事態に発展してしまった。
 ゆえに、特待生の容認は、当然と言えば、当然の結果である。

 しかし、私が残念に感じるのは、高野連が春に下した「特待制度適用選手が受けた2007年5月末までの対外試合禁止処分」に対する謝罪がなかった点である。今回、半年前とは手のひらを返すかのような高野連の方針転換が正しいとするならば、誤っていたと言える処分を甘んじて受けた特待生たちの1人1人に対し、高野連は何らかの謝罪が必要なはずである。

 権力のない者は、些細なことで謝罪や謹慎を強制され、権力のある者は、過去の罪を償わない。
 そんなことが最近のスポーツ界では、顕著に見られる。そんな風潮は、教育に極めて大きな悪影響を及ぼすはずである。権力を持てば、何をやっても許されると言っているようなものである。実際、日本社会全体がそうなのだからいいではないか、と見逃してはならない。
 権力者こそ、謙虚な姿勢を見せることこそ、教育のあるべき姿だと私は、考えている。

    2007年12月 山犬

特待制度認可と日本学生野球憲章第十三条の改善を
 〜高校野球の特待制度騒動〜


山犬
 1.不条理な高野連の措置

 なぜ、高野連は、高慢に、そして一方的に、学生の野球生活をぶち壊す措置を繰り返すのだろうか。暴力や飲酒、喫煙、窃盗といった不祥事から長期間の対外試合禁止になる措置が徐々に改善の方向に進んでいるように感じていた私も、さすがに今回のような暴挙とさえいえる措置には閉口してしまった。

 発端は、たまたま2007年3月に発覚したプロ野球の栄養費問題からである。アマチュア選手に栄養費を渡していたことが明らかになった西武が、高校生にも渡していたことを白状したのだ。
 まるで雪崩のように、次々とアマチュアとプロとの金のつながりが明るみになり、アマチュア野球界を震撼させた。それでも、プロは、西武だけがそのような行為をしていたとは思えないのだが、なぜか西武だけで沈静化の方向に進んでいる。過去を洗い直せば、12球団すべてに波及して、収拾のつかない状態になることは明らかなのだから、あまり過去を詮索するのが得策でないことだけは確かだ。

 そんなとき、高野連が突如として、特待制度の取り締まりに乗り出したのである。
 高野連が全国に対して行ったのは、日本学生野球憲章第十三条に違反する特待制度の調査である。それまで、ほとんどの人々が憲章の存在すら知らなかったであろう、日本学生野球憲章第十三条とはこのような条文である。

第十三条 選手又は部員は、いかなる名義によるものであっても、他から選手又は部員であることを理由として支給され又は貸与されるものと認められる学費、生活費その他の金品を受けることができない。但し、日本学生野球協会審査室は、本憲章の趣旨に背馳しない限り、日本オリンピック委員会から支給され又は貸与されるものにつき、これを承認することができる。

A選手又は部員は、いかなる名義によるものであつても、職業野球団その他のものから、これらとの入団、雇傭その他の契約により、又はその締結を条件として契約金、若しくはこれに準ずるものの前渡し、その他の金品の支給、若しくは貸与を受け、又はその他の利益を受けることができない。

 私は、この条文を読んだとき、「他から」というのは、校外、つまりプロ野球球団、社会人球団等から選手や部員が学費や生活費を受け取っていた場合が違反なのかと思ったが、全国の多くの高校に存在する特待制度そのものが違反なのだ、ということで目を丸くした。

 特待制度というものは、私が高校受験をした頃からあって、特定のスポーツで優秀な成績を残してきた中学生を特別待遇する制度である。それは、入学試験も受けず、スポーツ推薦という形で入学が認められ、さらには学費も免除され、生活費も負担してもらえる、という優遇もあれば、学費の一部負担のようなごく一部の優遇にとどまるケースまで様々だった。
 そんなことが全国ほぼすべての私立高校に存在することは、小学生でも知っていて、それを目指して野球に打ち込む子供たちもいるくらいである。今回、違反がほぼなかったとして話題に上がらない県立高校でも、スポーツ推薦というものは存在するし、私が受験をした当時でも、内申書にスポーツの郡大会や県大会での優秀な成績を記入すれば、受験がかなり有利になると教師から教えられていた。
 特待制度は、私たち受験生の誰もが正当な制度だととらえていたし、まさか高校野球だけが特待制度を禁止している、などということは想像すらしなかった。

 2007年5月3日、高野連が発表した特待制度の実態調査最終結果は、制度を実施しているのが実に46都道府県で計376校、制度の適用を受けていた野球部員は7971人だった。当然のことながら、調査を知って、ひたすらその実態を隠したり、すべてを明かさなかった高校もあるだろうから、この調査結果は氷山の一角と考えていい。

 この実態調査の結果、野球部員7971人が5月中は対外試合に出場することができなくなった。まるで突然襲ってきた災害のような措置により、7971人の貴重な1ヶ月間が奪われた他、高校自体が春季大会への出場を辞退して、全く無関係の生徒たちまでもが被害を被ったのである。
 このような迫害にも似た不条理な措置が果たして現代日本で認められてしかるべきものなのだろうか。


 2.悪いのはどこか

 暴力や喫煙等に対しては、該当高校の対外試合禁止という処分に同調の意を示すことが多いメディアも、今回は、さすがに高校生に罪を被せるのは不当だという論調になりつつある。それもそのはずだ。
「この高校が規則として特待制度で入学金や学費を免除してくれることになっていますが、日本学生野球憲章ではそれを禁止する条文がありますから、私は特待制度を受けません」
 などと言う高校生など、いるわけがない。そんな学生がいたら、気が狂っているのかと馬鹿にされるだけだろう。
 学校が認めていた制度を生徒が正しいと判断するのは、当然の結果であって、生徒には一切の過失もない。

 県立高校が今回の特待制度問題で表に現れてこないのは、一律化された安い学費と利益の追求が不要なせいである。県立の場合、人気や実力が低迷し、入学者が減少して行っても、死活問題になることはほとんどない。
 しかし、私立高校の場合は、入学者の減少が死活問題となる。ただでさえ、現在は、少子化の影響で私立高校は、生徒集めに必死になっている。生徒を集めるためには、まず知名度を高める必要がある。学業で有名な難関私立はいいが、そうでない高校にとっては、様々な方策を練らなければならないのだ。
 その最も有効な方策の一つが野球を強くすることである。強くなれば、その地域、さらには全国の注目を集めることができる。さらに、斎藤佑樹のような才能も容姿も兼ね備えた選手が1人でも在籍すれば、それだけで学校の知名度や人気は格段に上昇するのである。
 そのうえ、野球は、日本のスポーツの中で最高の人気を誇っており、プロ野球は、圧倒的な知名度を誇る。もし、その高校の出身者がプロ野球で一流プレーヤーになれば、それだけで高校のランクが上がるのである。

 今回、高野連がとった措置は、現在の私立高校の状態を全く無視した独断的なものである。しかも、他のスポーツとは違って野球は特別、という独善的な思考の下に成り立っているため、他のスポーツとの制度上の矛盾さえも孕んでしまっている。日本学生野球憲章の第十三条を大学野球側がどう解釈するかによって、今後の自体はさらに拡大する可能性もあるが、仮に大学野球は、現状通り、特待制度を容認することになれば、大学との制度上の矛盾さえも孕んでしまうのである。
 高野連は、そうした周囲に視野を広げることなく、井戸の中だけで物事を考える蛙のように、高校野球という枠の中だけで措置を講じたことが大きな犠牲を生んだのである。

 そして、犠牲にする部分さえも、高野連は、大きく誤っている。仮に日本学生野球憲章が現在でも遵守されるべき価値を持っているのであるとすれば、本来、罪を被るべきなのは、高野連の幹部と、特待制度を行っている高校の校長であるべきだろう。彼らが辞任、もしくは減給、謹慎といった処分を自ら受ければ済む話なのである。
 それを、たまたまこの時期に在籍している高校生に罪を被せるというのは、あまりにも的外れで、不公平の極みではないか。勝手に罪を被された高校生たちの気持ちを全く考慮に入れていないのではないか。
 高校で特待制度の恩恵を受けて、現在は、大学野球で、社会人野球で、プロ野球で活躍している選手は数多く存在する。そういった選手たちには何のお咎めもなしで、現在高校に在籍している最も立場の弱い生徒に罪を被せるやり方は、あまりにも非道が過ぎるのである。
 つまり、今回の特待制度騒動において、最も悪いのは、突如として特待制度を悪の根源として、大問題にでっち上げた側にあるのだ。


 3.そもそも不要な第十三条

 私は、上で「仮に日本学生野球憲章が現在でも遵守されるべき価値を持っているのであるとすれば」と書いた。
 その意図は、江戸時代の法規や帝国憲法が現在、遵守する価値を持たず、何の効力もないのと同様、既に日本学生野球憲章の古典的な条文は、もはや守るべき価値を持たないのではないのかと疑問を呈したいからである。
 守るべき価値を持たないからこそ、今まで誰もが見て見ぬふりをしてきたのであって、ただ改正するのを怠ってきたものを今更、正しいものなのだと持ち出してきた時代錯誤にすぎないように見えるからである。

 日本学生野球憲章第十三条には、特待制度により学業がおろそかになるという学業中心の考え方が根強く残っている。それは、公立高校や公立大学の試験などに根強く残っている。
 かつては、公立重視で5教科きっちりバランスよく好成績を出すことが重視されていたが、それは没個性につながることもあって、近年、私立校では教科を絞り込んだ入試が盛んに行われている。特に私立大学では一芸入試が広がりを見せており、何かの大会で優れた成績を残した者の突出した能力が様々な教科のバランスよりも珍重される時代になりつつあるのだ。平等教育から個々の能力に合わせた教育に進歩である。それゆえに、大学では芸能人であることが一芸として認められる場合だってある。英語の一教科のみで合格できる大学も多くなってきている。
 そうした一芸のうちに、野球も入ってきているのである。

 そうであるならば、高校においても、野球に極めて高い能力を持つ生徒の実力をさらに伸ばす手助けとなる特待制度は、必要不可欠ではないか。プロ野球選手として大成する学生の多くは、金銭的に恵まれた富裕層ではない。むしろ、金銭的に余裕のない生活の中から、それを反骨精神にしてのし上がってくるハングリーさを持ち合わせている選手も多い。
 高校野球から特待制度を奪うということは、そういった選手の可能性さえも奪ってしまうことになりかねないのだ。

 また、特待制度を厳しく取り締まろうという裏には、高校野球が作り上げてきた「健全さ」「ひたむきさ」「さわやかさ」という崇高な精神を守ろうとする他に、暗躍する中学生に触手を伸ばすブローカーの一掃を目的としているとも言われる。
 しかし、大リーグや日本プロ野球を頂点とした職業野球の世界では、一般庶民では手にすることのできない数億、数十億という大金が動く世界であり、年俸は、一流選手のステータスでもある。それだけにアマチュアの世界にも、子供たちにもその価値観が降りてくるのを防ぐことは極めて困難である。それを敢えて防ごうとするところに無理がある。
 現在、プロとアマチュアは、両極に位置するとしか言いようのない価値観で、双方を成り立たせようとしているからである。
 端的に言えば、プロが徹底した資本主義社会の中に価値観を置いているのに対し、高校野球は、教育という名の下に、一種の共産主義とでも言うべき平等性を保とうとしている。プロは、必ずアマチュアを経てきた選手がなるにもかかわらずである。アマチュアとプロとの間で、まるで戦前と戦後のように百八十度思考を転換させなければならないこと自体、異常ではないか。

 高校野球が教育として一律平等の考え方を持ち、その崇高で格差のない精神が一般社会でも通用するものならば、特待制度は廃止すべきだろう。しかし、現在の一般社会は、野球が上手ければ、数十億の大金が手に入り、下手なら一銭の小銭も手に入らない厳しい資本主義社会である。
 特待制度は、そんな資本主義社会の入り口となるにふさわしい教育制度の原点と言っても過言ではない。すなわち、特待制度が教育上に存在することに、何ら問題はないのである。
 こういった観点から私は、特待制度を厳しく取り締まるよりは、日本学生野球憲章第十三条を削除し、特待制度を認める条文を新たに追加すべきだと考えている。
 そのため、私は、特待制度適用を受けていた選手の5月末までの対外試合禁止処分も、解除されることを望んでいる。当然のことながら、特待制度を適用していることによって、該当野球部員や該当高校が対外試合禁止となることなど、決してあってはならないと望むのである。




(2007年5月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.


inserted by FC2 system