アマチュア選手の大リーグ挑戦に規制は不要
〜プロ野球界を揺るがした田沢問題〜
犬山 翔太
 
 1.アマチュアの田沢純一が大リーグ挑戦

 2008年秋のドラフトは、ドラフト会議そのものよりも、ドラフトで指名されることを辞退した1人の投手に多くの人々が注目した。
 2008年9月11日にアマチュアながら大リーグ挑戦を表明した田沢純一である。
 田沢は、学生時代にそれほど全国から注目を集めた投手ではない。横浜商業高校で2年生の時、夏の甲子園に出場しているが、このときは2番手投手であり、登板の機会はなかった。
 田沢は、高校卒業後、社会人野球の新日本石油に入ってから、徐々に全国の注目を集めるようになる。2006年には社会人野球日本選手権でベスト4に進出し、2007年にはIBAFワールドカップ日本代表に選出される。
 2007年秋にはプロ野球のドラフトの上位指名候補として名前が挙がるものの、もう1年間アマチュアで実績を残してからプロに入ることを決意し、プロ入りを断念する。
 そして、2008年、田沢は、都市対抗野球で新日本石油を見事な活躍で優勝に導き、事実上のMVPに当たる橋戸賞を獲得してプロ入りを決断する。
 しかし、田沢が表明したのは、日本のプロ野球入りではなかった。日本のプロ野球に一度も籍を置かず、一気に大リーグに挑戦するという究極の決断だった。

 そして、12月4日、田沢は、大リーグの名門レッドソックスと3年間のメジャー契約を結ぶ。3年間の年俸総額は、約330万ドル(約3億円)。内訳は契約金が180万ドル、年俸が2009年から45万ドル、50万ドル、55万ドルで出来高もあるという。
 松坂大輔や黒田博樹といったプロ野球選手のメジャー契約の金額と比較するとかなり抑えられた年俸ではあるが、日本プロ野球の新人選手と比較すると破格である。
 年俸だけでなく、アマチュア選手がメジャー契約という事実が日本のプロ野球界に与えた衝撃は大きい。日本のアマチュア野球が大リーグにも認められるレベルにあることを証明したからである。
 これを受けて日本プロ野球では、プロ野球機構がアマチュア野球3団体に対して6項目の要望書を提出し、田沢のような選手が続出しないよう規制を求め、プロ野球界としても流出に歯止めをかける規制を示した。
 そして、プロ野球実行委員会は、ドラフト対象選手が海外プロ野球でプレーした後、日本プロ野球では大学・社会人出身選手が3年間、高校出身選手が2年間契約できないという厳しい制限を設けたのである。

 田沢の契約は、日本プロ野球界が国際化の中で過渡期に入ったことを暗示している。
 翌年以降、田沢に続く選手が次々と現れた場合、日本プロ野球の空洞化を生むことになるからである。
 私は、イチローや松井秀喜が大リーグに移籍した頃から、いつかアマチュアの名選手が日本プロ野球を経ずに大リーグの球団に入団する日が訪れるだろうと予測はしていた。日本の大学生でも、日本企業へ就職せずにアメリカ企業へ就職していく人々が少しは存在するのだから、アマチュア野球選手が大リーグと契約する日が訪れても何の不思議もない。
 しかし、アマチュアから直接の大リーグ挑戦が高い確率で成功できるのかと言われれば、私は、疑問符を付けざるを得ない。これまでの歴史を振り返れば、そう甘くはないはずだからである。
 そして、日本プロ野球界がアマチュアからの大リーグ挑戦に対して、これほどまで敏感になる必要があるかと言えば、それにも疑問符を付けたくなるのである。


 2.マック鈴木と多田野数人の大リーグ挑戦

 野茂英雄が大リーグに挑戦した当時、同じ日本人で大リーグに挑戦している1人の投手が話題になった。マック鈴木である。
 マック鈴木は、高校野球の名門滝川第二高校に進学したが、体育会系の上下関係に馴染めず、1年で中退する。高校1年で中退した選手の受け入れ先はまずない。マック鈴木は、単身でアメリカに渡り、1Aのサリナスに入団する。そして、1993年にはマリナーズ傘下のサンバーナディーノで4勝12セーブの成績を残し、1994年には2A、1996年にはついに大リーグのマウンドに立つ。
 そして、1998年9月14日のツインズ戦で先発し、7回途中まで3失点の内容で初勝利を挙げたのである。

 野茂が1995年に大リーグに挑戦してその年に13勝を挙げて新人王と最多奪三振のタイトルを獲得したのに対し、マック鈴木は、大リーグに挑戦した1992年から初勝利を挙げるまで7年近い歳月を要した。まるで階段をゆっくり上っていくように、マック鈴木は、成長を遂げてきたのだった。
 1999年途中にはロイヤルズに移籍し、2000年にはローテーション投手として8勝10敗、防御率4.34というまずまずの成績を残す。
 しかし、翌年以降は不振に陥り、2002年に7試合登板したのを最後に帰国して日本のオリックスに入団する。
 マック鈴木の経歴を見て行くと、もし高校を中退していなければ、アメリカに渡ることはまずなかったのではないか、と思えてくる。マック鈴木ほどの球威を持っていれば、日本のプロ野球界が放っておくはずもない。今となっては、アマチュアから大リーガーとなった先駆者ではあるが、それは、本人が望んだ形ではなく、状況がそうさせてしまったと言わざるを得ない。

 マック鈴木の次に、日本プロ野球を経ずに大リーグで勝利を挙げたのは、多田野数人である。
 多田野は、アマチュア野球界でエリートコースを進んできた投手である。多田野は、八千代松陰高校3年のとき、エースとして東千葉大会を制して夏の甲子園に出場する。甲子園では初戦でPL学園に敗れたものの、その後、立教大学に進学し、立教大学でも1年からエース級の働きで立教大学を優勝に導く。そして、大学通算20勝を挙げるとともに、歴代4位の334奪三振でプロ野球界からも注目を集め、2002年秋のドラフトでの自由獲得枠指名は確実だった。

 しかし、多田野は、ドラフト直前にゲイ向けのAVに出演していたことが発覚する。そのイメージを憂慮した各球団が指名を回避して多田野は、プロ入りできない事態となったのである。
 多田野は、仕方なくアメリカに渡り、インディアンスとマイナー契約して1Aで野球を始めるのである。それでも、大学時代は、和田毅と同等の評価を受けていただけあって、1年目から登板すればことごとく好投を続け、1Aキンストン、2Aアクロン、3Aバファローと順調に昇格していく。そして、渡米2年目の2004年には大リーグに昇格し、その年の7月にはレッズ戦に先発して、7回2失点で初勝利を挙げるのである。
 大リーグではこの1勝に終わったものの、その後もマイナーリーグで経験を積んだ多田野は、2007年秋に日本ハムから1巡目で指名を受け、ようやくにして日本のプロ球団に入団を果たした。
 多田野についても、もし各球団が2002年秋のドラフト会議で指名回避していなければ、5年間にわたるアメリカ生活は存在しなかった可能性が高い。
 多田野の場合、日本のプロ野球が即戦力として認めていたわけであり、あのとき入団していれば、和田毅のように1年目から日本プロ野球で大活躍していたのではないかとさえ推測できる。

 仮にアマチュアからの大リーグ挑戦が純粋に大リーガーへの憧れを正当な目的とするならば、マック鈴木と多田野数人の大リーグ挑戦は、明らかに正当な目的ではない。
 マック鈴木と多田野は、いずれも行き場を無くした窮余の策としての渡米だったからだ。
 そういう意味では、田沢が大リーグで勝利を挙げることができれば、アマチュアから純粋に大リーグに憧れて目的を達成した第1号となる。


 3.厳しい規制は不要、外国人選手枠拡大で空洞化阻止を

 では、もし田沢が大リーグで1年目から活躍を見せたなら、日本のアマチュア選手がこぞって大リーグ挑戦を表明する事態になるのか。
 私は、一時的にはそうなることはあっても、それが長く続くことはないと考えている。

 大リーグで成功するには、日本プロ野球で成功するよりもはるかに困難だからである。
 マック鈴木も、多田野も、大リーグで成功したかと言えば、長年にわたって活躍することができなかったわけで、成功とは呼びがたい。
 野茂英雄やイチロー、松井秀喜ら、日本の超一流選手が活躍したため、日本で通用すれば、大リーグでも通用すると考えられがちだが、実情はそうではない。
 たとえば、井川慶や中村紀洋、藪恵壹、小宮山悟、薮田安彦、福盛和男らは、日本では通用していたが、大リーグでは適応に苦しみ、満足な成績を挙げられていない。
 大リーグ移籍前年と大リーグ移籍1年目の成績を比較してみると、下記のようになる。

選手名 大リーグ移籍前年(日本) 大リーグ移籍1年目
井川慶 14勝9敗、防御率2.97 2勝3敗、防御率6.25
中村紀洋 打率.274、19本塁打、66打点 打率.128、0本塁打、3打点
小宮山悟 12勝9敗、防御率3.03 0勝3敗、防御率5.61
藪恵壹 6勝9敗、防御率3.02 4勝0敗、防御率4.50
薮田安彦 4勝6敗4S、防御率2.73 1勝3敗、防御率4.78
福盛和男 4勝2敗17S、防御率4.75 0勝0敗、防御率20.25

 日本の超一流選手であっても、日本にいた頃より成績が上がった選手は、ほんの一握りであり、概ね成績は日本にいた頃よりも低下してしまう。
 大リーグでそこそこ出場機会を与えられていた新庄剛志も、帰国後、大リーグに挑戦するメリットについては否定的な発言を繰り返している。
 これらを考慮すると、日本プロ野球で新人王を獲得できるほどの逸材であったとしても、大リーグで1年目から活躍できる可能性は低いのである。
 
 確かに大リーガーとして成功すれば、日本より遥かに高い年俸や老後に高い年金を手にすることもできるし、日本にはいないような強打者、好投手と対戦することもできる。
 しかし、環境面では日本との大きな違いに戸惑わねばならない。野球ではボール、投球パターン、打者のパワー、作戦、練習方法の違いなど。生活では、言葉、食べ物、長距離移動、交友関係の違いなど。
 日本にいたときには、気にせず当たり前にやっていたことにまで気を配らざるを得なくなるのである。

 また、アメリカでアマチュア時代に作り上げた自信やスタイルを一旦崩されてしまうと、日本に帰国したとしても、それをひきずってしまうことになる。
 日本でまだプロとしての経験もないうちに、異文化の地で高みに挑戦することは、数多くのデメリットを含んでおり、高いリスクを伴っている。
 純粋な憧れだけで、アマチュアから大リーグに挑戦するには、自らの野球人生を台無しにしてしまうかもしれないという相当な覚悟が必要となる。

 ゆえに、私は、アマチュア選手が日本プロ野球を経ずに大リーグと契約してしまうことについて、日本のプロ野球界が過剰に懸念する必要はないと考えている。
 アマチュア選手がまず順序として目指すのは、日本のプロ野球というのが今後も主流となるはずである。
 しかし、今回、日本のプロ野球界が過剰に反応して、アマチュア球界に要望書を提出したり、アマチュアから直接海外プロ野球へ入った選手の日本球界復帰を2〜3年間禁止したりした。その行為は、鎖国政策に近く、あまりに行き過ぎだったように感じる。
 特に日本球界復帰を2〜3年間禁止したことで、逆に帰国し辛くしてしまうし、浪人状態となって才能を無駄に浪費させてしまう結果を生む懸念もある。
 今回、日本プロ野球界がとった規制は、日本野球が国際化を目指し、五輪の正式種目復帰を願うという方針とは矛盾するものでもある。
 私は、アマチュア選手の大リーグ挑戦や帰国後の日本プロ野球入りに制限など設けず、逆に国際的に開かれた競技として野球の発展を目指すため、外国人選手枠を拡大して、ドラフトの目玉選手が何人か大リーグへ流れても、プロ野球のレベルを低下させない方策を示してほしいと考えている。





(2009年2月作成)

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