出場停止処分の前に規定の作成を 
〜根拠のない処分を下された朝青龍と織田信成〜


山犬
 
  1.出場を取り上げる処分は、必要なのか

 スポーツは、一瞬の輝きを楽しむものである。たとえば、投手が球を投げてから打者がスイングし、打球がバックスクリーンへ飛び込むまでの時間は、わずか数秒にすぎない。
 それが逆転満塁サヨナラ本塁打だった場合には、すべての流れを一気に手繰り寄せるほどの衝撃を観衆に与えることができる。記憶に焼きついた光景は、おそらく一生忘れることができないはずである。

 そう考えるならば、スポーツの敵は、その機会が失われることである。これまでも戦争や政治によって、オリンピックの舞台を奪われたスポーツ選手がいた。国籍や人種によって活躍する舞台へ上げてもらえなかった選手もいた。
 プロ野球で言えば、第二次世界大戦の戦局悪化に伴い、1944年のシーズンはわずか35試合で途中打ち切りとなり、1945年のシーズンは開催すらされなかった。巨人を初優勝に導いた沢村栄治は、1944年に3度目の召集で戦死することとなった。もし、戦争さえなければ、戦争にプロ野球選手が召集されずにいれば、どのような記録や伝説が生まれていたか。私は、歴史を追うたび、失われた試合や選手たちに想いをはせるのである。

 しかし、スポーツにおける喪失は、過去だけのものではない。現在であっても、同様の感情を引き起こす事態には幾度となく直面する。
 私は、常々、高校野球で不祥事があったときにチームに対して長期間の対外試合禁止処分が課せられるのに反対してきたが、そこには、やはりそのときでしか味わえない一瞬の輝きを奪ってほしくないという想いが強いからである。
 ゆえにチームに対する禁止処分は、不当であり、あくまで個人の処分にとどめるべきだ、という意見を持ってきた。
 しかし、ここのところ、世間を騒がせている2つの処分を見るにつけ、そもそも試合禁止処分や出場停止処分といったものは必要なのか、という疑問にとらわれている。試合の中で行われた不正、つまりルール違反や暴力行為といったものに対してであれば、まだ出場を取り上げる余地はある。だが、試合以外の道徳違反、交通違反といったものに対してまで、出場を取り上げる必要が本当にあるのだろうか。


 2.朝青龍と織田信成の重い処分の理由

 日本相撲協会から重い処分を受けて以降、連日ニュースを賑わしているのが朝青龍である。
 処分の原因は、腰と腕を痛めて、巡業不参加が認められたにもかかわらず、モンゴルで親善サッカーに参加していたためだ。
 その事実が判明すると、朝青龍は、あまりにも重い2場所連続の出場停止処分を受けた。

 どうして、ここまで重い処分が朝青龍に課せられるのか。
 それは、朝青龍が一人横綱でなくなったため、2人横綱になっても磐石の強さを見せつけたねたみのため、これまでの不祥事も累積した処分にしたため、そして、彼が日本人でないため、といった様々な理由が重なっている。
 白鵬が横綱になったとはいえ、朝青龍がこのままの調子を保てば、30歳になるまでには千代の富士や大鵬を抜いて、歴代1位の優勝回数を誇ることになるのはほぼ疑いない。
 国技で、伝統ある大相撲に外国人が歴代最高の力士の称号を得る。ここに、古くから大相撲をとりしきる人々が懸念を抱いていることが今回の処分で明らかになってきた。

 なぜなら、朝青龍は、犯罪を働いたわけではない。仮病を使っていたわけでもない。
 朝青龍の側に立ってみれば、あくまでモンゴルという国のため、そして少年たちのために無理をして親善サッカーに参加した。モンゴルで突出した英雄である朝青龍は、静養のために帰国してもゆっくりさせてもらえる立場ではないのだ。

 しかし、新横綱が誕生したのがいいことに、相撲協会は、朝青龍潰しを画策した。その強さと諸刃の剣である荒々しさを逆手にとったのだ。つまり、相撲協会は、品行方正を盾に犯罪ですらない親善サッカー参加を、犯罪者のように扱ったわけである。
 大相撲は、国技であるためか、必要以上の品行方正を求める。特に横綱に対しては、それが度を越している。近年の曙や若乃花が大横綱でありながら相撲の道を外れていったのは、その堅苦しさが一因と私は考えている。

 しかし、こういう外国人潰しは、野球では既に何度も見られてきた話である。外国人選手がタイトルを日本人と争うと、日本人にタイトルを取らせようと露骨な外国人潰しが始まるからだ。野村克也との壮絶なタイトル争いの渦中に敬遠攻めに遭ったダリル・スペンサーは、抗議するためにバットを逆さに持って打席に入ったほどである。
 そして、本塁打55号の日本記録更新潰しについては、もはや語るまでもないだろう。ランディ・バースが、タフィ・ローズが、アレックス・カブレラが勝負を避けられることによって、日本記録更新を阻止されたのである。
 
 朝青龍は、不幸にも、こうした日本の伝統を守ろうとする保守的な人々によって、独特の処断が下されることになった。そこには、事前に何の規定もなかった。
 あくまで、巡業を休んでモンゴルでサッカー、という事態を受けてから、何の規則も基準もないまま、あまりにも主観的な意見を集めて処分が決まって行ったのである。それもまた、国際的には通用しない、極めて日本的なやり方だった。

 織田信成の場合、朝青龍と異なるのは、明らかな法律違反だったという点である。一般社会でも酒気帯び運転は、解雇を含む重い処分を会社規則に載せているところもある。いくらアマチュアスポーツ界だからとはいえ、処分を避けることは困難である。
 では、どの程度の処分が適切なのか。そこには、これまた全くといっていいほど、何の規則も定められていなかったのである。当然の如く、意見を集めると軽い処分から重い処分まで様々な意見が出て、結局、主観的な国際競技会5ヶ月間の出場停止、国内競技会3ヶ月間の出場停止という重い結論に至った。


 3.出場停止処分が抱える問題の解決には

 朝青龍と織田信成の処分が発表になって以降、巷では処分が重いか、軽いか、妥当かといった議論が続いている。
 どうして、一旦処分が出たにも関わらず、様々な意見が入り乱れて、収拾がつかなくなるような事態になるのか。
 それは、いずれの処分にも主観が入る余地が大いにあるためである。

 朝青龍の出場停止処分も、別の人々が審査したなら遥かに軽い処分で済んだ可能性がある。たとえば、私に審査させれば、10日間の謹慎程度で済ますだろう。もっと寛大な人々が審査すれば、あるいは、注意のみ、または何の処分もなし、といった形をとられたかもしれないのである。
 サッカーをしていたことについて、故障の状態が大の男が激しくぶつかり合う大相撲は無理でも、軽く動き回るだけの親善サッカーであれば可能という判断が成り立つなら、何の問題にもならない話なのである。
 今回は、たまたま日本相撲協会の現在のメンバーだったからこそ、こういう厳しい処分になったというわけである。

 織田信成の場合も、法によって裁かれた上に、日本スケート連盟が何らかの処分を下そうとしたところから迷走が始まっている。
 つまり、法律との連関規定がないために、処分の基準はあいまいで、下される処分自体が何の根拠もないような代物になってしまっているのである。

 ゆえに、彼らの処分には、周囲の人々や社会情勢によっても大きな揺れを生む。
 人気があって国民への影響力が大きいから処分を重く、または、過去の行為も考慮に入れて処分を重く、はたまた社会情勢がそういう風潮にあるから処分を重く、といった、行き当たりの判断がまかり通ってしまうことになるのだ。仮に選手が強盗という罪を犯したとしたら、処分する人々の気分次第で永久追放にすることもできれば、1ヶ月間の謹慎で済ますこともできるのである。

 そういったことは、プロ野球にも言えて、かつて江川卓が「空白の一日」で2ヶ月間の出場停止になったことや、東尾修が麻雀賭博容疑で半年間の出場停止になったことは、今考えてみると、全く根拠のない基準の上に成り立っていたものだということが明らかになる。そういう観点から見ると、この問題は、大相撲やスケートだけに言えることではなく、スポーツ界全体が抱える問題のようでもある。
 スポーツ選手は、現役の全盛期で輝けるときを過ごす期間が短いがため、わずか数ヶ月という期間も非常に重要である。歴史に残る栄光の記録があいまいな基準による処分で奪われているかもしれないという現実は、あまりにもやるせない。

 今後、織田信成と同様の事例で、世間の物議を醸さないようにするには、法律との連関規定をしっかり設ける必要がある。完璧に規定することは不可能だとしても、ある程度の大枠を作るのは、それほど困難とは思えない。
 また、朝青龍と同様の事例で、世間の物議を醸さないようにするには、巡業の休場理由にきっちりした規定をまず設けるべきである。そして、休場した場合、どのような行為をとれば、どのような処分となるかを大枠で規定し、それに沿った判断ができるようにしなければならない。
 主観の入った処分によって、スポーツ選手の競技人生を奪ってしまうようなことは避けなければならないのである。



(2007年9月作成)

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