何ゆえ故意四球は社会を揺るがすのか
                                  
山犬
  1 最優秀勝率をかけた先発 

 2001年9月30日。この日、福岡ドームで行われたダイエー×近鉄戦は、歴史に残る1戦となった。
 ダイエーの先発投手に起用された田之上慶三郎は、最優秀勝率のタイトルがかかっていた。田之上は、2000年に8勝を挙げてダイエーのパリーグ2連覇に貢献し、ローテーション投手に成長してきた投手である。
 もちろん2桁勝利は、自己初の記録であり、タイトル争いも初めてだった。
 1986年以降、パリーグの最優秀勝率の規定は13勝以上となっている。
 田之上は、このとき12勝7敗。
 西武の西口文也が既に14勝9敗の成績で勝率.609を残していた。
 だから、田之上がこのまま12勝7敗で終わると勝率は.632で西口を上回りながらタイトルは逃してしまう。そのうえ、ダイエーは、この試合を除くと残りが中2日空けてオリックスとの1試合のみ。
 つまり、田之上がタイトルを獲るためには、何としてもこの試合に勝つ必要があった。
 しかし、この試合は、もう一つの偉大なる記録がかかっていた。
 そのことがこの試合をより重大なものにしてしまったのである。


  2 日本新のシーズン56号をかけた1番スタメン

 タフィ・ローズは、2001年が来日6年目になるアメリカ人選手である。その試合が始まるまでにシーズン55本塁打を記録していた。これは、あの王貞治と並んで歴代1位タイの記録だった。
 そして、ローズは、日本新記録の56号本塁打を狙って残り3試合に賭けていた。シーズン55本塁打の日本記録を持つ王貞治は、この試合の対戦相手ダイエーの監督を務めている。その目の前でローズが56号本塁打を放つ。そんな伝説をファンは期待していた。
 近鉄は、既に4日前の9月26日にリーグ優勝を決めていた。タイトルや記録に関係も興味もない者から見れば、この試合は単なる消化試合にすぎなかった。
 だが、集まった観客は4万8千人。満員である。田之上の最優秀勝率の決定を期待して見に来た者もその中に多少は含まれていたかもしれない。しかし、そんな人はかなり熱烈な田之上ファンだろう。
 観客のほぼすべてのファンがローズの56号を期待して集まったに違いなかった。
 近鉄の梨田昌孝監督は、ローズを1番打者として起用していた。普段は4番中村紀洋の前を打つ3番打者。1番での起用は、少しでもローズが本塁打を放つ機会を多くするための配慮であった。
 しかし、それを上回る配慮をダイエーが用意していたとは梨田監督も予想していなかったに違いない。
 ローズへの四球攻撃である。
 少なくとも、ローズへ四球攻撃をするという風潮は、この年に限ってはまだどこからも上がっていなかった。だからこそ、ローズは1番打者として起用されたのだ。
 試合前、ダイエーの王貞治監督は、ローズと会話を交わしている。
「ぜひ新記録を達成して欲しい」
 王監督は、ローズにそのような激励をしたと言われている。王監督は、その日のローズの攻め方に対して何も指示を出していなかった。
 だが、王監督のいないところで陰謀は進められていた。


  3 大記録を守るための陰謀

 王監督不在のミーティングで若菜嘉晴バッテリーコーチは、投手陣に四球攻撃を指示した。
「ON(王・長嶋)はプロ野球の象徴で、うちの監督は記録で残る人。それを守ってやらないと。おれたちにできるのは、それしかないんだ。監督は勝負しろというが、監督と同じユニホームを着ているんだ。そこで反発しても、あの人の下で働いているものとして許されるだろう」(サンスポ2001/10/2)
 王貞治がシーズン55号本塁打を達成したのは1964年。東京オリンピックが行われた年である。巨人は、意外にもその年、優勝を逃している。ONを中心に、奇跡の巨人V9が始まるのはその翌年からのことだ。
 2001年は王貞治の記録達成から、はや37年が経過していた。37年間もの間、守られてきた大記録が破られる瞬間が来るなら、それは極めて歴史的な出来事だった。
 先発した田之上は、若菜コーチの指示に従って投げた。コーチの指示は、絶対的な意味を持っており、そう容易に反攻できるものではない。1回表、先頭打者でバッターボックスに入ったローズへいきなり故意に四球。3回表の第2打席も故意に連続四球。
 ダイエー側の姿勢に憤慨したローズは、第3打席・第4打席では、無理やりボールを振りにいって凡退し、憮然とした表情を浮かべた。
 この日、田之上がローズに投げた18球のうち、ストライクはわずか2球。ファンからは容赦ないブーイングが浴びせられた。
 田之上は、試合後のインタビューでこう答えている。
「(監督不在の)バッテリーミーティングでローズを歩かせるというのが決まってました。そりゃあ、嫌でしたよ。ローズも嫌でしょうし、投げるほうもつらい。そもそも無死からランナーを出すなんて、セオリーじゃない。それで勝ったんだから、ラッキーでした」(サンスポ2001/10/2)
 試合は、ダイナミックな展開を見せた。1回表にローズの四球を足がかりに近鉄が2点を先制。4回までに4点を奪って4−0とリードした。 
 しかし、7回裏にダイエーは4点を奪って同点に追いつき、8回に8点を奪って逆転を果たし、12−4で勝利を収めている。
 9回を投げきった田之上は、13勝目を手にし、13勝7敗、勝率.650とした。この時点で西武は残り1試合しかなかったため、西口がもし勝ち星を挙げても勝率は.625にとどまる。田之上の最優秀勝率のタイトルが確定した。
 ローズへの四球から序盤は崩れた田之上。近鉄の先発はエースの前川。優勝決定後の消化試合。0−4のまま敗れたとしても何の不思議はなかった。
 それでも田之上は味方打線の援護で勝ってしまい、最優秀勝率のタイトルを手にした。ローズの56号を未然に防いだ。まさにラッキーな結末だった。


  4 あのとき

 あのときと同じだ。
 長年野球ファンを続けている方は、そう感じたのではないだろうか。
 ランディ・バースの二の舞だと。
 1985年、10月16日に阪神タイガースを21年ぶりのリーグ優勝に導いたバースは10月20日に54号を放ち、2試合を残してシーズン最高記録に挑戦することとなった。
 しかし、くしくも残り2試合は王貞治監督が率いる巨人との対戦となる。
 最初の試合は、江川卓がバースに勝負を挑んだため、最初の3打席は2打数1安打1四球だった。だが、江川が降板した後の4打席目は敬遠気味の四球。
 最終試合では第1・第2打席ともにホームプレートをはるかに外れるボールで四球。
 第3打席は3球ボールのあと、4球目に投手の手元が狂ってバットを伸ばせば届くボールとなった。バースは、このボールを強振。バース本人は「本塁打を狙った」と回想しているが、残念ながらセンター前ヒットとなった。
 第3打席の失敗を繰り返すまいとした巨人投手陣は、第4・第5打席をすべてバースのバットが届かないボールばかりを続けて歩かせた。
 巨人のコーチは、最終戦の前、「バースにストライクを投げた投手には罰金を課す」と言ったと伝えられている。
 このときも、王監督は、バース攻めについて選手・コーチに対して何も指示を出していない。
 だが、バースへの四球攻撃は、それほど問題視されることはなかった。バースがいずれはアメリカに帰る外国人だったこともあるだろう。最後に巨人戦が2試合残ってしまった運の悪さということで片付けられていった感が否めない。
 そして、この話にはまだ続きがある。
 翌1986年、6月18日のヤクルト戦で本塁打を放ったバースは、そこから6試合連続本塁打を放ち、またしても王貞治が1972年に打ち立てた7試合連続本塁打の日本記録を脅かし始めたのだ。
 そして、バースが7試合連続本塁打をかけた試合は、あろうことか王貞治監督率いる巨人戦。この巡り合わせの悪さは、運命としか言いようがなかった。巨人の先発は、江川卓。バースが55号に挑戦したときもただ1人勝負を挑んだ投手である。そんなプロフェッショナルとしての誇りを持つ江川は、果敢にもバースに勝負を挑んだ。
 おそらく他の投手なら無理に勝負をすることは避けただろう。だが、江川は、真っ向から勝負を挑んだ。
 バースもそれに応えた。江川の投げ込んだ直球をバースはものの見事に後楽園のライト場外に運ぶ7試合連続本塁打を放ったのである。江川は、当時のプロ野球界で、本当に野球を愛するファンの夢を叶えてくれた唯一の投手だったのかもしれない。
 ただ江川1人の力でそれまで培われてきた日本の野球そのものが変わることはなかったのである。


  5 故意四球の歴史

 いつから、ファンの目に醜いと映る四球攻撃が平然と行われるようになったのだろうか。
 おそらく野球が始まった頃から多少はあったのだろうが、1959年に四球攻撃を巡って、世論を真っ二つに割った論争が起こっている。
 巨人の長嶋茂雄は、その年、開幕から打ちまくり、5月中旬には4割5分に届こうかという驚くべき高打率を誇っていた。長嶋を恐れた他球団は、こぞって四球攻撃に出る。そのせいで調子を崩した長嶋は、6月中旬には3割前半まで打率を落としてしまった。
 巨人の創設者正力松太郎は、その光景に怒り、「敬遠策廃止論」を出してきている。
 大スター長嶋を巻き込んでいるだけに、この四球攻撃は社会問題になったが、結局、敬遠策は勝つための重要な戦術の一つである、という意見が勝ち、元のさやに収まっている。
 しかし、長嶋は、そうした四球攻撃に嫌気がさしていたようで、1968年5月11日の中日戦では2死2塁で敬遠してきた山中巽投手に対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出ている。しかし、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせたのである。

 醜い四球攻撃が記録の上で確実に分かるのが1959年に行われた杉山光平(南海)と山内和弘(大毎)の首位打者争いである。杉山が.323で山内が.318で最終戦が南海×大毎戦ダブルヘッダーとなり、ファンが待ち望む直接対決の期待をよそに杉山は欠場。南海は、山内を敬遠する作戦に出ている。しかし、最初の試合で山内が敬遠球に飛びついて二塁打を放ち、打率を.320に上げてしまう。あせった南海は、絶対にバットの届かない球で敬遠し、2試合に渡って6打席連続敬遠。最終的には山内が首位打者をあきらめてベンチに引っ込んでいる。

 それを超えたのが、1965年に行われた阪急のダリル・スペンサーへの8打席連続四球である。
 その年、スペンサーは、南海の主砲野村克也と打撃3部門で激しいタイトル争いをしていた。8月14・15日の盆休みにその事件は起きている。
 スペンサーは、本塁打33本で、野村の28本をリードしており、野村が三冠王を獲るためにはスペンサー以上の本塁打数を残すことが必要だった。
 当時の日本人の多くは、野村の三冠王獲得を期待していたようである。他チームの投手は、スペンサーに本塁打を打たせまいとこぞって四球攻撃をしかけた。
 8月14・15日には、東京オリオンズの投手陣がスペンサーを8打席連続で歩かせるという作戦に出た。もちろん、この8打席連続は、当時の日本記録である。
 スペンサーは、9打席目に敬遠のボール球を無理やり打って自ら記録を止めているが、その四球攻撃でスペンサーは完全に調子を崩していく。
 10月3日に行われた野村克也がいる南海戦で、スペンサーは、ついにバットのヘッドを持って、つまりグリップとヘッドを逆さまで構えて打席に立つという抗議行動に出ている。
 しかし、南海は、そんなスペンサーをあざ笑うように敬遠。
 スペンサーは、その後、失意のうちにシーズン2週間を残して交通事故に巻き込まれて足を骨折し、欠場を余儀なくされる。
 最終成績はスペンサーが.311、38本塁打、77打点。野村が.320、42本塁打、110打点。
 野村は、本塁打数で逆転を果たし、生涯唯一の三冠王を手にしたのである。

 さらに愚行は繰り返される。
 1975年の山本浩二(広島)と井上弘昭(中日)の首位打者争いでは山本の.319に対して井上が.318というわずか1厘差で最終戦が広島×中日戦となった。
 山本は様子見で欠場。さすがに井上は、まともに勝負してもらえないことを悟っていたのか、先発で出場せず、チャンスに代打で登場するという策をとった。
 3回表にその場面は訪れる。中日は無死満塁の大チャンスを作る。そこで待機していた井上が代打で登場。ここまでは井上の目論見通りだったが、広島は、何とこの場面で井上を敬遠し、押し出しの1点を中日に与えたのだ。
 結局、山本がそのまま首位打者を獲得してしまったのである。

 最もひどかったのは1982年の長崎啓二(大洋)と田尾安志(中日)の首位打者争いであると言われている。長崎が.351、田尾が.350の1厘差で最終戦が直接対決の中日×大洋戦。
 中日は、この試合にリーグ優勝がかかっていた。中日が勝てば中日のリーグ優勝。もし大洋が勝てば、巨人が優勝という重要な試合だった。
 大洋は、長崎を欠場させ、田尾を敬遠する、という恒例の策をとる。5打席連続四球だった。
 しかし、試合は、田尾の出塁をきっかけに中日が得点していくという展開になり、8−0で中日が圧勝して、リーグ優勝を果たす。田尾の出塁が試合結果はおろか、優勝の行方まで大きく左右しただけに、野球ファンから「これは大洋の敗退行為ではないか」という抗議がマスコミに殺到したそうである。

 それでも歴史はまだ繰り返す。1984年には本塁打王争いをする掛布雅之(阪神)と宇野勝(中日)がトップの37本塁打で並んで最終の直接対決2連戦を迎えた。阪神と中日の投手陣は、本塁打を恐れて双方が敬遠し合い、共に10打席連続四球という日本記録を残した。もちろん、タイトルは、2人が分け合うという結果になった。
 1988年10月22・23日に行われたロッテ×阪急の3連戦はその記録をいとも簡単に塗り替えている。試合前まで高沢秀明(ロッテ)が.327、松永浩美(阪急)が.321。高沢は欠場したものの、6厘差があったため、ロッテ投手陣は最初、松永と勝負に出た。
 しかし3連戦の1戦目の第1打席の1・2打席で連続安打を放った松永は、打率を.326まで上げた。
 慌てたロッテは、松永を3打席目から敬遠。第2戦・第3戦も松永は敬遠され続け、日本記録の11打席連続敬遠となった。怒った松永は、第3戦の最終打席で敬遠ボールを3球空振りし、三振に倒れて抗議している。
 90年代に入ってもまだある。
 1991年10月13日、古田敦也(ヤクルト)と落合博満(中日)が激しい首位打者争いをしていたときに直接対決があった。古田が.339で落合の.335に4厘差をつけていた。
 それでも野村克也監督率いるヤクルトは、落合を第1打席から敬遠。中日が10−0で圧勝するという大味な試合になったため、落合は6打席連続で敬遠され、新たな1試合最多四球記録が生まれている。第三者から見れば、限りなく敗退行為に近い暴挙となってしまうだろう。
 怒った落合は、その後の対広島2連戦で6打数5安打という奇跡を起こし、打率を.340まで上げて逆転する意地を見せたが、古田もその後、1打数1安打で再逆転して首位打者に収まるという結果になった。
 ローズへの四球攻撃も、こうした流れの中で行われたわけである。


  6 社会問題となった松井秀喜の甲子園5打席連続敬遠

 四球攻撃はプロだけの世界のものであり、アマチュアの世界でこういう四球攻撃が行われないか、と言えば、決してそうではない。
 強打者がチャンスで登場して、一塁が空いていれば、四球で歩かされることは珍しくない。
 ただし、プロが野球を職業という概念で見るのに対し、アマチュアは野球を教育の一環と見る傾向が強い。
 そのため、アマチュア野球では審判に抗議することはタブー視されており、選手同士もフェアプレーの精神で戦うことが理想とされている。
 重視されるのは、緻密な戦術や駆け引きよりも、純粋な精神や道徳なのである。全力を出し切って正々堂々とプレーするひたむきさを周りは求めている。そういう光景を戦前の軍隊に例えて憂慮する者もいる程である。
 そんな中で1992年8月16日、夏の甲子園で世間を揺るがす事件は起こっている。
 松井秀喜は、石川県の星稜高校の大型三塁手として4番を任されており、これまで高校通算60本塁打を記録していた。1年夏の甲子園初出場から数えて4度目の甲子園出場。1回戦の長岡向陵高校戦(新潟)は11−0で軽く突破している。
 2回戦は高知県の明徳義塾高校戦である。明徳義塾は、星稜高校戦が初戦だった。
 明徳義塾の馬渕史郎監督は、星稜高校の超高校級スラッガー松井を全打席歩かせることを指示した。もちろん勝つためである。夏の高校野球は一度負けたら終わってしまうトーナメント。次の試合をするためには何としても勝たなければならない。
 試合は1点を争う好ゲームになった。
 松井は、第1打席から第5打席までの20球すべて敬遠のボールを投げられ、5打席連続四球で一塁へ歩いた。ランナーなしの場面でも松井は勝負してもらうことはなかった。5打席とも表情を変えず、一塁へ向かった松井の紳士的な態度は、今でも語り草になっている。
 だが、この松井への四球攻撃に対し、甲子園の観客は、ブーイングを浴びせ、メガホンやゴミを投げ入れて抗議した。
 松井は全打席出塁してチャンスを作ったものの、硬くなった星稜高校の5番バッター以降は明徳の河野和洋投手を打ち崩すことができず、2−3で敗れた。馬渕監督の目論見通り、明徳義塾高校は、松井封じに成功し、3回戦に駒を進めたのだ。
 勝った明徳義塾高校が校歌を斉唱している間中、観客は容赦ない「帰れ」コールを浴びせ、校歌の声はかき消された。
 馬渕監督の目論見が外れたのは周りの反応だろう。試合後の馬渕監督の談話にはそれがよく表れている。自らの指示で明徳の選手に嫌な思いをさせてしまったことに心を痛めていたのである。
 しかし、高校野球で前代未聞の5打席連続敬遠が生んだ波紋は、まだ収まらなかった。明徳義塾の宿舎には千件を超える抗議の電話が殺到し、高野連の牧野直隆会長が異例の記者会見を開いて、明徳の四球攻撃に苦言を呈するという事態にまで発展した。
 そのため、この松井5打席連続敬遠は、全国各地で物議を醸し、社会問題化していった。そして、ついには教育のあり方にまで議論が及び、松井敬遠の是非について生徒達に作文まで書かせる高校もあったという。
 世論も二つに割れている。
 それを整理すると以下のようになるだろう。

***5打席連続敬遠容認派***
・敬遠は勝つための戦術として認められているから、敬遠したおかげで勝利に近づくのなら何の問題もない。
・松井は5打席連続安打を放ったも同然で、打たずしてチャンスをもらっているわけなので、続く打者が打てず負けた星稜が悪い。
・野球は個人の成績よりもチームの成績を優先させるスポーツで、特に夏の甲子園は1回負ければ次の試合をすることができないのだから、やって当然の策である。
・勝つための手段を生徒に叩き込むのも重要な教育であり、非難されるべきことではない。


***5打席連続敬遠反対派*** 
・正々堂々と実力を出し切って勝負するのが高校野球の鉄則であり、いくら好打者だからといって姑息な敬遠策で勝負を避けるのは純粋さ欠け、道徳に反する。スポーツマンシップを無視しており、誤った教育である。
・松井の打席を見たいと思って観戦したファンへの冒涜である。
・監督の独断で、勝負を望んでいたであろう松井を始めとする両チームの選手達の気持ちを踏みにじった責任は重い。
・得点圏にランナーがいる場合ならともかく、ランナーなしで敬遠するのは、勝つためという理由にならない。


 世論は、松井の5打席連続敬遠に反対する方が多数派を占めていた。しかし、こうした議論の中で、明徳義塾はエースが怪我で欠場を余儀なくされており、普段は野手をやっていた河野投手がマウンドに立たざるをえなかったこと、明徳義塾の地元高知県勢がずっと初戦敗退を繰り返しており、明徳義塾は地元の初戦突破の願いから来る多大な重圧を背負っていたこと、などという伏線は無視されていた。
 結論が出ないまま、その話題は次第に世間から忘れられて行った。


 7 故意四球の正当性

 故意四球。これに正当性があるかどうかは、野球が続く限り永遠に議論されていくテーマだろう。
 しかも、故意四球が行われるには様々な場面がある。
 例えば。
 試合終盤に1−0でリードしていて守備につき、2アウトでランナーが2・3塁のピンチ。そこで3割台半ばの打率を残している4番バッターが打席に入る。
 こういう場面では、投手が故意四球を与えることに対して、誰も問題として扱わない。負けている相手チームの選手とファンの一部がわずかにブーイングをする程度だろう。
 それは、この場合の故意四球が1−0のリードを守って勝つための最善の策であることに多くの人々が納得してしまうからである。
 しかし、0−5で負けていてランナーが1人もいなかった場合はどうだろうか。そこで打者を故意四球で歩かせることが勝つための最善の策とは誰もが認めないだろう。
 たとえ、その後の試合展開で6−5と逆転勝利を収めることになり、試合後に投手が「あそこで歩かせて、余計な本塁打による失点を防いだことが勝ちにつながった」と主張したとしても。
 もっと極端にクリーンアップの3人を全打席全員歩かせて、その度に満塁のピンチを作ったとしても0点に抑えれば投手は、それが勝つための最善の策と主張できるが、第三者は決してそれを最善の策と認めないだろう。
 野球協約では、不正行為として「所属球団のティーム(チーム)の試合において、故意に敗れ、または敗れることを試み、あるいは勝つための最善の努力を怠る等の敗退行為をすること」(第18章有害行為 第177条)を禁じている。
 故意に四球で歩かせることが認められている以上、「勝つための最善の努力だった」と主張すれば、故意四球はルール違反にならない。もし、それのせいで敗れたとしても、敗退行為であったことを証明することは不可能に近い。
 なぜなら、投手が故意四球を与えるのは相手チームの核となっている強打者であるから。3割バッターや年間30本塁打するバッターを歩かせて次の2割バッターや非力なバッターで勝負する方が打ち取れる可能性が高いのだ。いくら凡退と比べて、故意にヒットを打たれる行為に等しい、と主張しても、本塁打と比べて、勝つために失点を防いだと弁明すれば、それ以上追及のしようがないからだ。
 それ故に、いつの時代も、故意四球に納得できない者と、納得できる者の間で議論がなされるのである。
 野球ファンの多くは、故意四球よりも正々堂々とした勝負を期待している。確かに野球というスポーツが投手有利にできており、打者と対戦しても投手が勝つ確率が最低6割あるという事実から見れば、むざむざ故意四球を与えることは個人の対戦としては充分敗退行為なのである。しかし、野球はチームで勝敗を決めるスポーツだからチームが勝てば、勝利なのである。
 野球自体が個人の勝負とチームの勝負との間に矛盾をはらんでしまうことがあるのは不幸と言えよう。
 しかし、それがまた野球の面白さを一層助長していることも確かである。松井の5打席連続四球もローズへの四球攻撃も、無念にも果たせなかった「松井の甲子園優勝」「ローズの56号達成」という夢の記録と同じくらいの、いやそれ以上のインパクトを持って我々の記憶に刻まれる。
 だから、我々は、故意四球を巡る多くの伝説の是非を語ることはできても、その正当性を断定することはできない。それは、人生における一つ一つの選択の正当性を語るようなものだからである。

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