永遠の野球少年  〜新庄剛志のホームスチール〜

山犬
 
   1.ホームスチール

 どれだけの人があのシーンを予測していただろうか。テレビ中継がカメラを切替えたのさえ新庄剛志がホームインした直後だった。球場でも多くの人がそのシーンを見逃しただろう。僕も、全く予想すらしていなかった。
 今年、朝青龍が北勝力に敗れて連勝記録が止まったときも、横浜Fマリノスが劇的な逆転優勝を決めたときも、ボブ・サップがレイ・セフォーにKO負けを喫したときも、僕は、たいした驚きを覚えずに冷静に受け止めた。それは、次起きる事態がある程度予測できることであり、そうなりうることもあるだろうと考えながら見ていたからだ。
 だが、僕は、あのシーンのとき、テレビの実況アナウンサーが「あー!ランナーが返ってきました」と驚きの声をあげた瞬間ですら、状況を全く理解できていなかった。
 キャッチャーがピッチャーへの返球を投げそこね、とんでもない暴投になったのか、と思ってしまったくらいだ。ランナーが新庄であることも忘れていた。
 ところが、新庄は、用意周到だった。3塁ランナーになった瞬間から既にホームスチールの機会をうかがっていたのだ。
 しかし、打者は、パリーグ4番の小笠原道大。スコアは0−0。タイムリーで先制点、あわよくば2ランホームランで2点先取も期待できる最高の場面だ。福原忍の伸びる速球に小笠原がフルスイングする。腰が鋭く回転する小笠原の豪快なフルスイングは、見る者をひきつけて放さない迫力がある。中村紀洋、松中信彦、城島健司、カブレラなど、パリーグにはスイングだけでファンを魅了できる選手が多い。
 真っ向勝負を挑んで小笠原を追い込んだ福原も、ファウルで粘られるうち、6球目はストライクゾーンから外れてカウント2−1となった。
 新庄がホームに走り始めたのは、その球をキャッチャー矢野輝弘が福原に投げ返した瞬間だった。福原は、慌てて本塁へ送球するが高い。矢野がタッチする前にヘッドスライディングした新庄の手がホームへ届いていた。
 状況を把握した僕に、しびれるほどの快感が襲ってきた。
 ホームスチールは、オールスター史上2回目。1978年のオールスター第2戦で7回に3塁ランナーだった簑田浩二(阪急)が1塁ランナーと重盗を決めてホームインしたのが最初だった。簑田は、この試合で5打数3安打4打点3得点の活躍を見せ、MVPを獲得している。簑田も新庄もパリーグの選手だというところがパリーグのオールスターに賭ける情熱を物語っていると見ることもできる。実力のパ、人気のセと言われることがあるように2004年終了時での対戦成績はパリーグの73勝61敗8分なのだ。
 ただ簑田のホームスチールは、1塁走者との共同作業であり、既に5−0とリードを奪った後の勢いに乗じたものだった。
 単独でのホームスチールは、新庄が史上初であり、決勝点となったのも史上初ということになる。


   2.パリーグの存在感誇示と予告MVP  

 今、考えてみれば、前兆は、確かにあった。
 新庄は、前半戦最後の試合を3打数3安打で締める。札幌ドームでお立ち台に上り、オールスターゲームへ向けての意気込みを聞かれると、高らかに宣言したのだ。
「MVPは、僕のものです」
 だが、この発言は、報道陣にもファンにもサービス精神旺盛な新庄一流の冗談だと誰もが受け流したはずだ。
 ファン投票でオールスターの出場選手に選ばれはしたが、シーズン前半戦の成績として、12本塁打を残したこと以外、特筆すべきものはなかった。その他をあえて言うなら北海道に野球ファンを激増させたことくらいだろうか。
 だから、真剣に新庄のMVP宣言を聞いた者は、おそらく冷笑していたはずだ。大リーグで4番を打ったこともある新庄は、残してきた足跡からすればもっと評価されてもいいはずなのだが、好不調の波が大きく、軽く陽気なキャラクターのせいで、過小評価されがちである。
 新庄は、大リーグに挑戦した2001年、メッツで123試合に出場し、打率.268、10本塁打を記録する。これは、2003年に大リーグに挑戦し、163試合に出場して打率.287、16本塁打に終わった松井秀喜とそれほど大差ない成績と言える。
 大リーグに渡る前年、打率.278、28本塁打、85打点という好成績だった新庄は、その後、大リーグの超一流選手との対決を経たことで、3割30本を狙えるほどの打者になったと僕は見ている。もし不慣れなパリーグではなく、以前在籍していたセリーグに戻ってきていれば、最初からかなりの活躍をしていたのではなかろうか。
 ただ周知の通り、新庄が選んだのは北海道に本拠地を移した日本ハムだった。この選択がパリーグの歴史を大きく揺るがすことになるとは、あのとき誰が想像しただろうか。
 その後、パリーグは、近鉄がオリックスとの合併を発表したことで、激震に巻き込まれる。にわかに1リーグ制移行の話がオーナー間で進み、パリーグは消滅の危機にまで陥ってしまう。大選手が次々と大リーグへ流出したパリーグは、人気・戦力の低下に加えて、ほとんどの球団が苦しい経営を強いられ、内部から崩壊しかかっていたのだ。
 その中で、新庄が過激とも言える表現でパリーグを盛り上げていた新庄がクローズアップされてくる。
「大リーグなんて、ほんとにつまんないですよ。これからはパリーグです」
 パワー偏重になりがちなメジャーの野球を皮肉ったものなのか、自らのメッツでの冷遇を非難したものなのかは定かではないが、新庄は本気でパリーグを大リーグやセリーグ以上にしようとしている。
 新庄の予告オールスターMVP発言を聞いた僕は、強い衝動を覚えた。あえて北海道日本ハムを選択した新庄のオールスターでの振る舞いが見たい。MVPは多分獲れないだろうけど、何かを見せてくれることだけは期待できそうだったからだ。
 僕がオールスターの全試合を最初から最後までみたのは今年が初めてだ。いいところは、VTRでやるから5回か6回くらいから見ればいいか、なんて考えてしまうのが例年のパターンだった。でも、今年だけは違う。話題性充分の新庄の他に、セ・パ対抗のオールスターゲームとしては今年が最後になってしまうかもしれない、という憤然とした思いもあった。
 例年とは違った雰囲気で始まったオールスターゲームで、新庄は、初っ端から派手に魅せてくれた。第1戦にパリーグの1番打者として出場した新庄は、始球式で投げた小学六年生の球を打ちに行き、ファウルを放ったのだ。普通なら空振りするのがお約束の場面で、あえてそれを覆してみせた。
 さらに試合になれば、全打席本塁打狙いで豪快に2打席連続三振。3打席目で巨人の上原から放った打球は高く上がらず、ヒットに終わったが、見所充分の3打数1安打だった。パリーグは勝ったが、新庄は賞を逃す。MVPは、MAX156キロの剛速球を投げた松坂大輔のものとなった。これでは新庄も面白いはずがない。
 そして、第2戦。前日の最終打席でヒットを放った新庄は、さらにヒートアップしていた。まずは、第1打席でいきなりレフトスタンドを指差して、まるでベーブ・ルースのようにホームラン予告。さらに、バットをものすごい速さでぐるぐる回して投手を威嚇。これは、日本人大リーガーであるイチローの仕草を意識したパロディにも見える。
 球場はこれだけでも既に盛り上がりを見せていたが、新庄のパフォーマンスはまだまだこんなものじゃない。
 ホームラン予告をしておきながら、初球をセーフティバント。打球が強すぎて簡単にアウトになってしまったが、大胆にホームラン予告したとは思えないほど必死に走る姿に、球場の盛り上がりは最高潮に達していた。
 そして、3回裏に最大の見せ場がやってきた。ノーアウトから新庄は、左中間へ2塁打を放つ。続く村松有人のファーストゴロの間には3塁を陥れる。だが、3番福浦和也はセカンドライナーに倒れて2死。ここまではごく普通の流れだった。ところが、4番小笠原道大の打席で、突如あのホームスチールが飛び出すのだ。
 6回にも通算198勝を挙げている工藤公康からレフト線を襲う2塁打を放ち、谷佳知のライト前ヒットで生還してパリーグの全2得点を記録した。パリーグが2−1で勝ったため、新庄はMVPを受賞した。セ・パ両リーグでのMVP獲得は落合博満、清原和博に続いて史上3人目の快挙となった。
「北海道を出るとき、MVPは俺のもの、と言ってきましたが、まさか本当にとれるとは……思ってました」
 完璧なまでに、パリーグの存在感誇示と、予告MVPが完結した瞬間だった。


   3.型にはまらない選手

 記憶に残る選手と記録に残る選手。プロ野球選手を評するとき、人はよくこのどちらかに入れてしまおうとする。
 たとえば、長嶋茂雄は記憶に残る選手で、王貞治は記録に残る選手といった具合だ。
 でも、少し見直してみると、そういう分け方にはすぐ疑問が出てくるはずだ。長嶋茂雄が優れた記録を何も残していない選手ではないし、王貞治が人々の記憶に全く残っていない選手ではない。
 長嶋茂雄は、首位打者6回、打点王4回、本塁打王2回というプロ野球史上10指に入る大打者であり、日本シリーズMVP4回の記録は不滅とさえ言われている。
 王貞治も、通算756号本塁打達成の万歳シーンやハンク・アーロンとのホームラン競争、日本シリーズで山田久志から放った逆転サヨナラ本塁打を鮮明に記憶している人は大勢いるはずだ。
 確かに記憶にだけ残る選手や記録にだけ残る選手という型にうまくはまった選手は、探せばいくらかはいるだろう。しかし、長嶋茂雄と王貞治が記憶や記録の片方で語り尽くすことができないように、新庄も、型にはめて語ることはできない選手だ。
 そう書くと、新庄の成績のどこが記録に残るほど優れているのだ、と言われるかもしれない。打撃成績だけ見れば、2000年までの日本での成績は、通算打率.249、145本塁打で打撃三部門のタイトル獲得は一度もない。一流選手と呼ぶには少し物足りない気がしないでもない。しかし、新庄には守備がある。ゴールデングラブ賞を7度受賞した守備範囲の広さと150キロ近い球を投げられる強肩を持っている。シーズン補殺王も既に3度記録している。また、この調子で行けば、通算2000本安打でさえ夢ではないのだ。

 新庄は、下積みを知らないスターととらえられることがあるが、実を言うと順風にスター街道を駆け上がってきた選手ではない。福岡県の西日本短大付属高校で外野手として頭角を現したが、甲子園出場の経験はない。高校3年生の夏は、県大会決勝まで駒を進め、新庄自らもサイクル安打を放つ活躍を見せたものの、惜しくも甲子園出場を逃している。
 全国的に無名だった新庄に目をつけたのは阪神のスカウトだった。強肩と俊足、守備範囲の広さにただならぬものがある、と感じたようだ。
 新庄は、1989年11月のドラフト会議で阪神から5位指名を受けて、ひっそりと阪神に入団する。背番号は63。使いものになってくれれば儲けもの、とでもいった程度の背番号だ。この時点で現在の新庄を想像していた者など、いるはずがない。
 新庄が目立たなかった理由は、他の指名メンバーがあまりにも豪華だったこともある。
 この年、阪神がまずドラフト1位で指名したのは野茂英雄。くじに外れて、再度1位として指名したのは後に先発、中継ぎ、リリーフで阪神を引っ張った葛西稔投手だ。トルネード投法の野茂英雄は、ドラフト史上最高の8球団が1位指名して近鉄が当たりくじをひいた。この年のドラフトは、未だに史上最高の大豊作と言われるほど、名選手が揃った。近鉄は野茂の他に石井浩郎(3位)、大洋は佐々木主浩(1位)、広島は佐々岡真司(1位)と前田智徳(4位)、ロッテは小宮山悟(1位)、西武は潮崎哲也(1位)、ヤクルトは西村龍次(1位)と古田敦也(2位)、ダイエーは元木大介(1位)、中日は与田剛(1位)、オリックスは佐藤和弘(パンチ佐藤、1位)、巨人は吉岡雄二(3位)を指名している。
 なるほど、このメンバーだけでオールスターゲームに匹敵するナインが作れそうだ。
 野茂、与田、佐々岡、潮崎、古田らが1年目から華々しい活躍を見せる陰で、新庄は1軍出場なしで1年目を終える。
 2年目は1軍出場を果たして、初打席初安打を記録したものの、守備固め中心の13試合出場にとどまり、打率は.117。ここまでは、いつ消えていってもおかしくない平凡な選手だった。
 頭角を現したのは1992年。1992年5月26日、主砲オマリーが故障したため、新庄はスタメンで出場することになる。その第1打席で豪快な本塁打を放ち、1軍定着を果たすのだ。
 そして、オマリー復帰後も、センターでレギュラーを獲得し、打率.278、11本塁打の活躍で阪神を2位に押し上げ、6年ぶりのAクラス入りの原動力となった。9月16日の広島戦ではダイビングキャッチで2死満塁のピンチを救った後、球界最高の守護神大野豊からサヨナラホームランを放って阪神ファンの心をつかんだ。
 翌年も23本塁打した新庄は、いつしか「プリンス」という愛称がつけられ、将来の4番打者候補として期待されるようになった。
 ところが、である。新庄は、ここから長年にわたって伸び悩む。上がらない打率と本塁打数。
 1995年夏には中村勝広監督が休養となり、代わって監督代行となった藤田平は、打率が2割台前半に低迷し、本塁打数も落ち込む新庄に2軍落ちを宣告する。自由奔放なプレースタイルを好む新庄は、藤田平のような厳しい指導が合わなかったのだろう。その年の調子は、最悪なままで、上向くことはなかった。
 藤田平は、通算2068安打した大打者で、1981年には打率.356で首位打者になった。208打席連続無三振という日本記録を打ち立ててもいる。守備も堅実にこなす、まさに昔気質の職人と言える選手だった。その反面、藤田は、江夏や田淵、掛布らに比べ、スター性に乏しく、地味なイメージがつきまとった。スター性で人気先行の新庄とは全く逆のタイプだったわけだ。
 藤田に冷遇された新庄は、その年、87試合出場にとどまり、打率.225、7本塁打というレギュラー獲得後最低の成績で終える。
 そして、オフに衝撃の騒動が起こる。
「自分はセンスがないから野球を辞めます」
 新庄は、記者会見を開き、23歳にして引退宣言をしてしまったのだ。もちろん、前代未聞だった。このとき、新庄は、野球を引退して、日本初のプロ野球出身Jリーガーを目指そうとしていた、という伝説がある。その真偽は定かではなが、新庄なら充分に本気で考えていそうな話である。
 新庄は、周囲の説得により、2日後に引退宣言を撤回する。翌1996年の成績は、打率.238、19本塁打だった。
 大成の兆しが見え始めたのは野村克也が監督が就任して、新庄を4番打者として育て始めてからである。野村監督就任2年目の2000年には打率.278、28本塁打、85打点の活躍で翌年の阪神浮上に期待を持たせる内容だった。
 だが、新庄はここでも大きく期待を覆す。FA宣言をして、大リーグのメッツ入りを発表したのだ。5年で12億円という破格の契約を蹴って、大リーグ最低保証年俸20万ドル(約2200万円)のメッツを選ぶ。
 野村克也の阪神監督としての役割は、サッチー騒動による辞任のときではなく、このとき既に終えていた。今、思い起こせば、野村克也は、新庄を打者として育て上げるために阪神の監督になったようなものであり、それが最大の功績だったと評することもできる。
 新庄は、メジャーの3年間で、イチローとともに野手として日本人初の大リーガーとなり、レギュラーを獲得し、ワールドシリーズにも出場し、4番打者も経験し、そして冷遇も味わった。
 そして、2004年の日本球界復帰は、阪神に戻ってくるのかと思いきや、北海道に本拠地を移した日本ハムの背番号1としてだった。他人には決して真似できない野球生活こそ、新庄の真骨頂なのである。


   5.スーパースター

「宇宙人」
 阪神の監督をしていた野村克也は、新庄の印象を聞かれて、そう答えた。常識では計り知れない人物像という意味なのだろう。
 たとえば、1999年6月12日の巨人戦がある。8回裏に新庄の9号ソロ本塁打で同点に追いついて延長戦に持ち込んだ阪神は、延長12回裏に1死1・3塁のチャンスをつかむ。ここで新庄に打席が回ってきた。2塁が空いているため、巨人が新庄を敬遠して満塁策をとることは明白だった。新庄は、野村監督に尋ねた。
「打ってもいいですか?」
 新庄敬遠後を考えていたであろう野村も、答えに窮してこう言わざるをえなかった。
「勝手にせい!」
 予想通り、巨人の槙原寛己投手は、敬遠してきた。しかし、新庄は、槙原が外角に大きく外してきたボールに飛びついて3遊間を抜けるレフト前ヒットを放ち、阪神はサヨナラ勝ちを収めるのだ。
 それだけをとっても、新庄のつかみどころのなさが簡単に読み取れる。また、この伝説は、かの長嶋茂雄の伝説に通じるものがある。長嶋は、敬遠球を2回も本塁打しているが、そのような行為は限られた者にだけ許される栄誉でもある。長嶋や新庄であれば、失敗しても「しょうがないやつだなあ」と許されるが、他の打者なら「何を馬鹿なことやってるんだ」と怒鳴られ、2度と試合に出してもらえないかもしれない。
 新庄は、そういった面でスーパースターなのだ。
 2004年オールスター第2戦でのホームスチールに驚いた人は、新庄の大リーグデビュー戦を思い出してほしい。
 2001年4月3日、開幕のブレーブス戦で8回無死1塁の場面に新庄は、代走として出場する。そして、打者アルファンゾが放ったセンターフライで、何とタッチアップして2塁に向かうのだ。
 外野フライで3塁からホームへタッチアップしたり、ライトフライで2塁から3塁へタッチアップするのなら分かる。外野手からより遠い塁を目指して走るからだ。しかし、新庄は、外野手から最も近い塁を目指して走り出したのだ。
 常識で考えれば、ナンセンス以外の何ものでもない。
 ところが、驚くべきことにそのタッチアップは、ものの見事に成功してブレーブスのエース、トム・グラビンをマウンドから引きずり下ろしてしまう。そして、延長戦で回ってきたメジャー初打席では勝利のきっかけとなるセンター前ヒット。この時点で新庄の1年目の大リーグ定着は保証されたと言ってもいい。
 新庄は、常に節目節目で強いインパクトを残して、自らを1段上のスターへとのし上げていった選手なのだ。
 日本でも、初打席初安打でのプロデビュー。レギュラー獲得のチャンスとなったスタメン出場では第1打席で本塁打。優勝争いの重要な場面でファインプレーとサヨナラ安打。
 そして、プロ生活最大の危機に陥ったときの引退騒動。成績が低迷した1997年にはオールスターでファンが応援ボイコット。その汚名を返上すべく1999年には念願のオールスターMVP獲得。野村克也監督さえ驚かせた敬遠球をサヨナラヒット。日本人野手初のメジャー挑戦と鮮烈なデビュー戦。もちろん初スタメンでも第1打席にヒット。日本人野手初のワールドシリーズ出場と安打。さらに、北海道日本ハムと契約して電撃的に日本球界復帰。オールスターに出場し、ホームスチールでMVP。
 まさに宇宙人だからこそ、なせる業ではないか。
 
 スーパースターとは、こんな選手になってみたい、というあこがれを抱かせる存在でなければならない。高度成長期の頃、多くの少年が長嶋茂雄や王貞治にあこがれ、あんな選手になってみたい、と思った。僕は、子供の頃、落合博満やブーマーにあこがれ、あんな選手になってみたい、と夢を抱いた。今ではイチローや松井になってみたい、と考える少年は多いだろう。
 それは、少年の夢だけではない。今からでも入れ代わって自分がなれるのなら、その選手になってみたい、と考える大人も多いだろう。松坂になって気持ちよく剛速球を投げ込んでみたい、とか、城島になって豪快なホームランを量産してみたい、という気持ちは大人だってどこかにある。
 僕は、オールスターを見ていて、ふと「新庄になってみたい」と思ってしまった。あんな自分の思い通りに試合を作り上げることができるなら、僕は、今すぐにでも新庄になりたい、と。
 宇宙人とは、いつも悪い意味だけでとらえられるものではない。「宇宙人」は、「超人」と言い換えることもできる。超人であることは、スーパースターになるために不可欠な条件でもあるのだ。
 ホームスチールを成功させた新庄が腹ばいになったまま両手で地面を何度もたたいて喜ぶ姿は、心からプレーを楽しんでいる野球少年の姿だった。仕事に疲れた大人たちが失ってしまっている姿だった。
 少年のようでいて、超人の発想で観客を魅了する新庄は、もはや長嶋茂雄に匹敵する存在となりつつある。記録は、遠く長嶋に及ばなくとも、新庄には一つの枠にはまりきらない自由奔放さがある。
 長嶋が巨人という、やや窮屈なチームで選手生活をまっとうしたのに対し、新庄は、阪神・メジャーリーグ・日本ハムと、自らが思いのままに夢を実現できる場所を求めて渡り歩いている。それは、夢を抱いた野球少年そのままの姿なのではないだろうか。
 新庄は、これからも自らが最高に輝ける瞬間を作り出すために、僕らが想像もつかないことをなし遂げるにちがいない。僕らが想像もつかないことを成し遂げるということは、誰もが思いつかないプロ野球の未来さえ浮き彫りにしてくれるかもしれない可能性を秘めているということだ。
 だから、あのシーンをリアルタイムで放映できなかったテレビ中継を責めるわけではないが、新庄から目を離しちゃいけない。




(2004年7月作成)

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