日本スポーツ界は連帯責任制からの脱却を
 〜大相撲3月場所中止と島原中央高校の1年間対外試合禁止処分〜


犬山 翔太
 
 1.八百長発覚で大相撲3月場所開催中止の連帯責任処分

 大相撲の2011年3月場所が中止になった。2010年の野球賭博発覚に端を発して、捜査の過程で、携帯電話の通話記録から八百長の事実が明らかになったからだ。

 しかし、石原慎太郎東京都知事が笑い飛ばしたように、相撲界に八百長が存在するということは、既に国民全員が知っていた事実である。
 私が高校生の頃、社会科の先生が大相撲について、こんなことを話していた。
「大相撲に八百長がないことになっているけど、実際は八百長やってるからね。7勝7敗の力士が千秋楽に負けることなんてほとんどないんだから」
 もうかれこれ20年前になる。それから私も、7勝7敗の力士が千秋楽でどうなるか注目していたが、実際にかなり高い確率で勝つのである。
 日本には、義理と人情を重んじる文化が根づいている。いかにも日本的だと、私は、当時から感じていたのだが、ここにきてこんな大問題になるとは予想していなかった。

 世の中には暇な人もいるもので、アメリカのシカゴ大教授スティーヴン・D・レヴィット教授は、著書『ヤバい経済学』(東洋経済新報社 2006)で3万2千組の取組から7勝7敗の力士が8勝6敗の力士に勝つ確率を調べ、実に79.6%という事実を明るみにしたのである。
 日本では、当時、タブーだった調査ではあるが、今となっては明らかな八百長の証拠となってしまった。

 確かに八百長は、日本相撲協会が建前としてきた真剣勝負の枠から外れてはいる。だが、それでも処分は、あくまで八百長をした力士に限定すべきであって、すべての力士に対して処分を科すことになる3月場所開催中止という決定は、納得しかねる。
 私は、以前から高校野球において、不祥事が発覚すると、高野連が個人ではなく、高校全体に対して対外試合禁止処分を課すことに苦言を呈してきた。不祥事を起こしたのは、組織的ではなく、特定の生徒たちによるものであれば、無実の生徒たちを同罪として巻き込むべきではない、と考えているからである。

 大相撲の八百長事件の経緯をこれまで見守ってきた。結果的に東日本大震災によって3月場所は開催中止になっただろうが、それは、あくまで結果論である。
 本来、3月場所は、大震災がなければ、開催されてしかるべきだった。そこを見逃してうやむやに済ませてはならない。相撲協会が下した3月場所開催中止決定は、そもそも日本のスポーツ界全体における古典的な考え方に問題があるのではないか。


 2.無実の人々が大きな被害を受ける構造

 人間は、誰しも楽をして大きな成果を手にしたい、と考えるものである。大相撲の八百長発覚の後、京都大学を筆頭とする4大学でのカンニング事件も、そうした考えから起こったもので、いずれも携帯電話が発覚原因となったことは興味深い。
 人間が楽をできるようになった最新の情報機器は、手軽にせこい行為ができる代わりに、記録として残ってしまうという代償も払わなければならないのだ。

 大相撲の八百長発覚は、古典的に隠す慣習にあった行為が情報化社会を甘く考えた力士たちのせいで、公のものとなってしまっただけである。つまり、八百長をしていた力士たちは、時代が生んだ罠にはまったのだ。

 そもそも、八百長という言葉自体が相撲を語源としている。明治時代に八百屋の長兵衛が相撲の年寄伊勢海五太夫に、野菜などを買ってもらうために碁で故意に負けていたことが由来である。

 考えて見れば、あれほど大型の力士たちが年間6場所90試合をすべて全力でぶつかり、張り手や押し、投げを繰り返していたらほとんどの力士が故障して休場に追い込まれかねない。
 優勝争いから大きく脱落した力士同士がほどほどの力加減で相撲を取ることは、これほどまで大きな批難の的にしなくても良いではないかとさえ感じる。

 しかし、日本では昔から大相撲は真剣勝負という建前があるから、世間を揺るがす大騒動になってしまった。
 相撲協会も、かつて巡業をさぼった朝青龍を2場所連続出場停止にしたり、酒に酔って喧嘩した朝青龍を引退に追い込む過剰な処分をした手前、八百長発覚でそれ相応の処分をしなければならなかったのは仕方ない。
 だが、大相撲界全体で責任を取るというやり方は、いただけない。日本の悪しき伝統である連座、つまり連帯責任制で無実の力士までが犠牲になってしまったからである。大相撲界は、誰もが一心同体の集団主義だというのであれば、朝青龍が不祥事を起こしたとき、本場所開催自体を中止にしておかなければならなかった。
 そのあたりの基準があいまいであるがゆえに、大相撲界は、失態に失態を重ねて取り返しのつかない手詰まりに追い込まれてしまったのである。ゆえに3月場所を開催して、常に世間の厳しい目にさらされ続けるよりは開催中止にして、騒ぎの沈静化を待つ「逃げ」を選ばざるを得なくなった。

 この八百長事件で多大な被害に遭ったのは、相撲協会ではなく、無実の力士たちと、3月場所に生活をかかっていた関係者と、3月場所を楽しみにしていたファンである。
 これは、高校野球で対外試合禁止処分になって、無実の生徒たち、その親を含めた関係者、高校野球ファンがいわれのない不幸を強いられるのと同じ構造なのだ。


  3.不祥事は、起こした当人のみ処分を

 私がこれほどまで相撲協会の下した判断に異議を唱えるのは、この悪しき判断が前例となって、次の判断根拠として永続的につながり、日本スポーツ界の基準になってしまう懸念を考えずにはいられないからである。
 高校野球は、戦前から続く連帯責任の思想を未だに踏襲し、暴力事件を起こした生徒たちが特定できても、高校全体を長期の対外試合禁止処分にする。
 現に2010年12月に高野連は、2年生部員9人が1年生部員9人に暴力を振るっていたことが発覚した島原中央高校を1年間の対外試合禁止処分にしている。本来ならば、加害者の生徒たちに対して、その暴力行為の程度に応じて処分を下すべきところを、それらの面倒を省き、一括して島原中央高校自体を処分したのである。

 こうした処分が過去から延々と続いていて、それは、他の高校に対して一向に抑止力にもなっていない現状を見ると、前例に基づいた処分は、大きな問題を抱えていると断じざるを得ない。
 大相撲界も、高校野球界も、旧態依然として一向に改革が進まないという根本的な欠陥を抱えたまま、古い考え方を引きずって、時代の変化に対応できず、時代錯誤を生み出している。そして、それは、スポーツ界だけでなく、大学界でも京大カンニング事件の一連の騒動で露呈してしまった。
 これらは、進化し続ける技術と情報化の中で、最近になって、ひずみとして次々と浮き上がってきている。
 
 そこには日本が抱えている本音と建前の矛盾、個人の問題でも連帯責任に転嫁する集団主義、伝統をそのまま変えずに守ろうとする島国意識といった構造的な問題がある。
 大相撲界も、高校野球界も、無実の人々を罪人として巻き込む処分や判断をやめない限り、今後も依然として、いわれのない不幸を生み出し続けてしまう。
 変えるべきなのは、誤った伝統的な構造である。今の時代に必要とされるのは、論理に基づいた処分や判断なのである。





(2011年4月作成)

Copyright (C) 2001- Yamainu Net 》 伝説のプレーヤー All Rights Reserved.


inserted by FC2 system