戦争を風化させてはならない
 〜嶋清一の殿堂入りと映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』〜


犬山 翔太
 
 1.戦争の記録と記憶を後世に残すための戦い

 2008年3月14日、第二次世界大戦中に起きた横浜事件の裁判がニュースになっていた。横浜事件は、残虐な言論弾圧事件だったのだが、免訴という裁判の打ち切りは、過去の事実を過去のことだからと正確に評価しない風化現象を如実に物語る。

 私は、戦争を知らない。中学生の頃、テレビのニュースで湾岸戦争を頻繁に報道していたが、私は、現実のものとして受け止める感覚はなかった。まるでゲームの世界だった。
 今でも私は、戦争のゲームに対して、ただの遊びの一貫として楽しむことができる。しかし、大空襲を受けた世代なら、私のように楽しむことは到底できないはずだ。つまり、私の世代では、もう既に戦争に対する感性が劣化しているのだ。

 私は、学生時代、頻繁にドキュメントとして第二次世界大戦の様子を見たが、日本の悲惨な情景を見て、ようやく現実感覚を伴ってくる程度だった。当時は、まだ第二次世界大戦をテレビが頻繁に取り上げていた。
 しかし、最近は、第二次世界大戦をほとんどテレビで見かけなくなった。
 それもそのはずである。既に終戦から60年以上が過ぎた。60年以上ということは、戦前戦中までに生まれた人々は、ほぼ定年を迎え、テレビ局やその他マスコミ、スポンサー企業の重職を担わなくなったということでもある。もはや戦後生まれの人々がテレビを作っているのだ。近いうちに、子供たちは、第二次世界大戦を関ヶ原の合戦と同じように実感のない歴史としてとらえることになるかもしれない。
 時間とともに悲しみが和らぐのと同じように、こうして戦争の記憶も、徐々に過去のものとして忘れ去られ、風化していくのである。
 
 先日、私は、3球団を渡り歩いて通算188勝を挙げた川崎徳次の自伝『戦争と野球』を読んだ。
 そこで私が感じたのは、おそらくこの作品が野球選手が戦争体験を赤裸々に描く最後の作品になるであろうということである。川崎も、2006年にこの世を去った。
 召集を受けた日本人がいなくなるのも、もはや時間の問題である。

 後世になればなるほど、第二次世界大戦が野球にどのような影響を及ぼしたかも、次第に語られなくなっていくにちがいない。そうなれば、戦争に翻弄されたプロ野球選手も、通算記録だけでその功績を判断されてしまうだろう。
 たとえば、川崎は、通算188勝を挙げた大投手だが、1943年から1946年まで約4年間に渡って空白がある。その4年間の空白を1941〜1942年、1947〜1948年という前後4年間の成績で埋めてみると、通算267勝に達する。しかし、そんなことは、おそらくマスコミでは顧みられることがないのだ。

 戦争中の空白を埋め合わせようとすると、戦争を生き残った選手でさえ、戦争によって通算記録に大きな傷跡がついてしまっていることが明らかになる。そして、戦死した選手たちは、通算成績にもっと大きな傷跡がついているわけでもある。
 それは、プロ野球に限ったことではない。2008年1月に野球殿堂入りの発表で、私は、初めて嶋清一という投手の存在を知った。嶋は、プロ野球では何の記録も残していない。なぜなら、プロになる前に戦死してしまったからだ。

 人々が戦争の存在を忘れてしまうということは、戦争の犠牲となった選手を軽んじてしまうということでもある。人間には忘れるという便利な機能が備わっている。だが、忘れる前に記録するという機能もまた備わっている。
 記録として文章、表彰、映画という形で残されていく中に、忘れ去られてしまうことを避けようとするもう一つの戦いがあるのではないだろうか。


 2.甲子園で全試合完封勝利の嶋清一

 嶋清一は、1939年の夏の甲子園第25回大会に海草中学の投手として出場している。それまでにも甲子園には5回出場していた。地方大会では圧倒的な強さを誇っていたわけだ。
 甲子園でも1937年夏にはベスト4、1938年春にはベスト8という成績を残すが、地元では、その程度の成績では不満を漏らす者もいたらしい。それほど、嶋の素質は突出しており、左腕から繰り出す剛速球と鋭いカーブは一級品で、直球は150キロ以上出ていたと言われる。
 そんな嶋が最後の夏に甲子園で快投を演じる。エースで四番として出場した嶋は、1回戦で嘉義中に5−0で3安打15奪三振の完封勝利を収めて波に乗る。
 2回戦では京都商に5−0で2安打完封勝利を収める。続く準々決勝では米子中を3−0の3安打完封勝利でベスト4に進むと、準決勝の島田商戦では17奪三振を奪う快投で、ノーヒットノーランを達成して8−0で圧勝する。
 さらに決勝戦の下関商戦でも、準決勝に続いてヒットを許さず、5−0でノーヒットノーランを達成するのである。昭和23年に福島一雄が5試合連続完封は記録したものの、準決勝、決勝の2試合連続ノーヒットノーランは、未だに並ぶ者がいない大記録である。
 決勝でのノーヒットノーラン達成も、1998年に松坂大輔が達成するまで半世紀以上にわたって誰も成し得なかった記録だった。
 しかし、嶋は、明治大学に進学後、主将として活躍するまでになったものの、1943年12月に召集を受け、海軍の一員となる。そして、戦争終了間際の1945年3月29日、ベトナム沖でアメリカ軍潜水艦の攻撃を受け、戦死する。

 嶋が達成した甲子園大会全5試合完封と準決勝・決勝の2試合連続ノーヒットノーランは、いずれも永遠に破ることはできない記録ではあるが、それに並ぶ者すら出現が困難なため、顧みられることが少ない記録である。
 イチローが達成した大リーグ年間最多安打記録は、84年ぶり、8年連続200安打達成は、107年ぶりという歴史がついてきた。達成困難な記録は、どうしても長い期間、思い出されない存在となるのである。

 しかし、2008年、嶋清一という名前は、殿堂入りによって、マスコミによって大々的に報道され、その偉業に再び注目が集まることとなった。殿堂入りによって、殿堂が話題になる度に思い出される存在となる。おそらくは、戦争の記憶が残る人々が嶋を殿堂に入れることによって、戦争の悲惨さと命の尊さを後世に伝えたいという衝動が強く働いたからだろう。
 嶋の殿堂入り表彰が行われたのは、2008年8月15日の終戦記念日。場所は、もちろん高校野球の聖地甲子園である。


 3.映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』

 先日、私は、インターネットで『ラストゲーム 最後の早慶戦』という映画が2008年8月23日から全国ロードショーとなることを知った。
 早慶戦と言えば、東京六大学野球の華である。確かに最近は、ハンカチ王子と呼ばれる斎藤佑樹の出現もあって、東京六大学野球は、近年にない盛り上がりを見せている。
 しかし、私が少年の頃は、プロ野球と高校野球は話題に上がっても、東京六大学野球が話題に上がることはほとんどなかった。

 ONがプロ野球で活躍し始めてから、プロ野球が圧倒的な人気を誇るようになり、東京六大学野球は、マスコミが大きく取り上げなくなってしまったからである。
 しかし、戦前は、プロ野球よりも、東京六大学野球の方が人々の関心が高かったと言われている。そんな中、第二次世界大戦の激化により、プロ野球より先に六大学野球が中止になったことは、当時の国民に多大な不安を与えたにちがいない。

 だが、なぜ今、戦時中の東京六大学野球を映画にするのか。
 この作品の映画監督を務めた神山征二郎は、1941年生まれ。既にサラリーマンであれば定年を過ぎているとともに、戦前の生き残りである。だが、真珠湾攻撃の年に生まれており、監督自身が1943年の早慶戦をリアルタイムで知っていたわけでもない。
 なのに、彼は、自らの記憶にない戦時中の世界を描いた。しかも、学徒動員、特攻隊という戦争の敗北を色濃く見せる時期を、である。そこには、戦中戦後を生き抜いた、おそらく制作者としては最後の世代となるであろう日本人として、どうしても作っておかねばならない、という衝動が芽生えたからに違いない。
 
 今後、戦争を扱った作品は、間違いなく減っていく。それは、戦争を現実のものとしてとらえられなくなった世代が戦争の悲惨さを確実に伝える映画を作ることはできないからだ。平和な時代の恩恵で、制作者も、娯楽性の高い映画を作ればいい、または、海外で評価される作品を作ればいい、という風潮の中に流されていく。
 神山が制作した『ラストゲーム 最後の早慶戦』は、戦争を扱う映画として、最後の現実感を伴う作品になるかもしれないのだ。
 そういう観点からとらえると、この映画は、日本人が忘れつつある戦争の本質をもう一度日本人の心に植え付けさせるために作られたと言っても過言ではない。

 この映画は、1943年後半、早稲田大学野球部顧問の飛田穂洲が慶応義塾塾長の小泉信三とともに、学生たちを戦争に送り出す前に1度だけ早慶戦を実現するために奮闘するという実話である。主人公として描かれる早稲田の選手戸田順治は、兄を戦争で亡くし、自らも早慶戦後の召集で戦死を遂げる。
 戦争の中で描かれることによって、学生たちのスポーツに打ち込む想い、家族愛、生きることの意味が痛みを伴いながら伝わってくる。

 私が観に行った映画館では、お世辞にも観客が多いとは言えず、中高年がほとんどだった。その事実が戦争の風化を如実に物語っているようで、私は衝撃を受けたが、それとともに、こういった映画は、積極的に学校で放映をすべきだとも感じた。
 現実を見ると、今は、もはや戦前の選手たちを掘り起こす最後の時代に入ったと言う他ない。『ラストゲーム 最後の早慶戦』を見たことで、私には、戦前の選手たちの功績を可能な限り取り上げたいという気持ちが芽生えた。
 嶋清一の殿堂入りや『ラストゲーム 最後の早慶戦』は、戦前戦中の野球のほんの一部である。問題は、これらを後世に語り伝え、また新しく戦前戦中の野球選手を掘り起こし続けられるかである。戦前戦中を風化させないよう、野球界あげての奮闘を期待したい。






(2008年9月作成)

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