三分担それぞれの役割  〜「最多セーブ投手賞」と「最優秀中継ぎ投手賞」〜

山犬
 
  1.セーブポイントが廃止

 2005年2月3日、セーブポイントが廃止になった。セ・パ両リーグ記録部の発表によると、今後はセーブ数のみをカウントする「最多セーブ投手賞」が公式記録になるという。つまり、2005年のシーズンから、セーブを挙げても救援勝利を挙げてもセーブポイントはつかない。「最優秀救援投手」のタイトルがなくなるのだ。
 現在、289セーブポイントで歴代1位となっている高津臣吾と佐々木主浩の両投手は、今後、セーブポイントが公式記録として復活しない限り、末代まで歴代1位として残る。

 なぜセーブポイントが廃止になったのか。その理由は、一言で言えば「時代の流れ」となる。
 かつて日本では、好投手は先発完投するのが当たり前とされていた。だから、1960年代までの大投手は、すべて先発完投型である。沢村栄治も、別所毅彦も、金田正一も、稲尾和久も、米田哲也も・・・。
 そんな中でリリーフ投手というのは、明らかに二線級の投手と見られていた。連投できる先発投手が超一流ならその谷間を埋める先発投手が一流、そして、リリーフでしか出られない投手は二流だった。
 その当時のリリーフ投手で、人々の記憶に残っているのは宮田征典くらいだろう。宮田は、巨人入団当初からめったに先発では投げない、いわゆるリリーフ投手だった。だが、宮田は、好んでリリーフ投手になったわけでも、実力が先発投手陣よりも劣っていたわけでもないようだ。当時、巨人にはベテラン投手陣がまだ先発として居座っていた。ところが、ベテラン先発投手陣は、7回くらいまで投げると決まってへばりを見せる。だから、巨人は、疲れの見え始めた先発投手を引き継ぐ優れたリリーフ投手が必要な状況にあったのだ。
 宮田は、リリーフ投手として並の先発投手以上の活躍を見せる。1963年には47試合に登板して防御率1.88、1964年には35試合に登板して防御率2.32。毎晩、8時半頃になるとマウンドに上がることから「8時半の男」という愛称までついた。
 そして、すさまじかったのが1965年の64試合に登板して20勝、防御率2.07という活躍だった。164回2/3を投げて20勝しているものの、先発したのは1試合だけで、あとはリリーフによる勝利である。その当時は、セーブやセーブポイントという記録さえなかったが、それを遡って換算すると20勝22セーブ41セーブポイントという驚くべき成績になるという。
 だが、宮田は、この年の酷使がたたって肩や肘、内臓までも痛め、その後の選手生活をほぼ棒に振ってしまうことになる。
 セーブやセーブポイントが制定されるのは宮田が引退した後で、1970年代半ばまで待たねばならない。


  2.革命

 リリーフ投手は先発で通用しない二流投手。その考え方を根幹から変えたのが野村克也と江夏豊である。野村克也は、早い時期からリリーフ投手の重要性に気づいていた。しかし、それは、当時の常識にはない。一流のリリーフ投手を実現させるには、並外れた好投手が必要だった。野村が目をつけたのは江夏豊だった。
 江夏は、プロ野球史に長く名を残すほどの好投手だった。1968年にはシーズン401奪三振という不滅の大記録を打ち立てた。そんな江夏も、年齢とともに徐々に球威が落ちてきていた。1975年はシーズン132奪三振にとどまる。
 先発投手として先が見えてきた江夏を阪神は、あっさりと南海に放出した。江夏は、南海で野村克也監督から「革命を起こそう」と持ちかけられ、リリーフエースという地位の礎を築くことになる。
 折りしも、1974年にはセーブが公式記録として制定されていた。そして、1977年からはセーブポイントが公式記録として制定される。江夏は、1977年に19セーブ、22セーブポイントを記録し、最多セーブと最優秀救援に輝く。その後、江夏は、広島、日本ハムに移籍して広島の日本一と日本ハムのリーグ優勝に貢献し、ストッパーとしてセパ両リーグでシーズンMVPを獲得するという快挙まで成し遂げる。リリーフ投手の重要性を全国に知らしめたのである。

 江夏がストッパーで「優勝請負人」とまで呼ばれるようになったことで、他球団も好投手を次々とストッパーに起用し始めた。1988年にはストッパーとして活躍した郭源治が中日優勝の原動力となった功績を認められてシーズンMVPを獲得した。
 1980年代から1990年代前半にかけては、いかに優秀なストッパーがいるか、というのが優勝を占う上で大きな要素を占めるようになったのである。


  3.セットアッパーの台頭

 その後、先発投手とリリーフエースだけでは現代の野球で勝ち抜くことは難しくなった。それは、先発完投型の投手が減ったせいでもあり、打撃技術の発展や飛ぶボールの使用などが原因でもある。

 鹿取義隆は、西武のストッパーに君臨していた1992年に10勝1敗16セーブ、26セーブポイントという成績を残した。プロ入団後、巨人・西武でストッパー、中継ぎとして活躍してきた鹿取は、先発として登板した試合は数えるほどしかなかった。そのため、1992年の10勝は、プロ14年目にして初の2桁勝利だった。
 プロ初の2桁勝利の感想を記者から尋ねられた鹿取は、こんなコメントを残している。
「オレがこれだけ勝ってるということは、それだけ打たれてるっていうことだからね。自慢できることじゃないよ」
 鹿取は、この年、38試合に登板し、76回2/3を投げている。現在のストッパーのような1イニング限定のストッパーではなく、同点で登板することも多かったのだが、鹿取の言葉はセーブポイントの将来を暗示している。
 たとえば、3−2と1点勝ち越している場面で登板した場合、もし3−3の同点に追いつかれても、味方が再び勝ち越し点を奪って4−3で勝てば、勝利とともにセーブポイントがつく。3−2から3−4に逆転されたとしても、チームがすぐに5−4と逆転すれば、こちらも勝利とセーブポイントがつく。
 ストッパーなら、こういうタイプの試合が多くなるほど、勝ち星は伸びるのだ。
 だが、逆に言えば、先発投手、あるいは中継ぎ投手の勝ち星を消してしまっているわけで、あまり褒められたことじゃない。

 鹿取が投げていた頃はまだストッパーであっても、2イニング、3イニング投げることはよくあったのだが、ここ近年ではセットアッパーの重要性が強く認識されるようになり、大抵の球団はストッパーには9回の1イニング限定と決めて登板させている。
 そうなると、ストッパーの勝ち星は、9回表に点をとられて同点に追いつかれたが、9回裏に逆転サヨナラ勝ちしたとか、9回裏に同点に追いつかれたが、10回表に味方が勝ち越してそのまま勝った、とかいうタイプの試合ばかりになる。
 同点、あるいは負けている場面で登板して2回、3回と回を重ねて投げ続けているうちに味方が勝ち越してセーブポイントがつく、という本来のセーブポイントというものが絶滅の危機に瀕してしまったのである。
 最近の野球では同点、あるいは僅差で負けている場合に粘り強く投げるのはセットアッパーの役目で、ストッパーの役目ではない。
 それを考えると、セーブポイントの廃止は、致し方ないことなのかもしれない。


  4.重要だった?勝利打点

 同じように廃止されたタイトルは、過去にもある。勝利打点のタイトルがそれである。
 試合でチームの勝利に直結する打点、つまり決勝点となる打点を挙げた選手に勝利打点1がつく。決勝の満塁ホームランを放っても1打点だし、内野ゴロの間に挙げた勝ち越し打点でも1打点である。
 1981年に作られた勝利打点のタイトルは、1988年限りでパリーグが、2000年限りでセリーグが廃止した。

 僕は、この勝利打点が廃止になったとき、何となく釈然としないものが残った。
 負け試合で放った3本塁打よりも、勝ち試合で放った決勝タイムリーの1打点の方が価値をもつ。野球というスポーツは、勝ち星を挙げることに意義があり、負けてしまえばどれだけ素晴らしい活躍をしても意味をなさない。
 イチローが大リーグで打ち立てたシーズン262安打という大リーグ新記録が全米を熱狂の渦に巻き込むに至らず、彼がシーズンMVPに選ばれることがなかったのも、おそらくはチームが最下位に沈んだことが遠因にある。
 そうであるならば、勝つことが極めて重要な野球というスポーツにおいて、勝利打点というタイトルが必要不可欠ではなかったか。「打点王」というタイトルがあれば、「最多勝利打点」はなくてもよい、ということにはならないのだ。最多勝利打点は、最多勝に値するほど、重要だと言っても過言ではないだろう。

 それに比べれば、セーブポイントは、「最多セーブ投手賞」があれば、なくても構わない、という見方が可能だ。
 元々、最多セーブ投手が最優秀救援(最多セーブポイント)投手、というのがほとんどである。特にリリーフ投手が1イニング限定と扱われることが多くなってからは、それが顕著となった。
 最優秀救援投手が最多セーブを記録しなかった例を追って行くと、1997年に遡る。この年、近鉄の赤堀元之は、10勝7敗23セーブで33セーブポイントを記録して最優秀救援投手になったが、ロッテの河本育之が25セーブを挙げていたため、最多セーブは記録できなかった。一方、河本も6勝6敗25セーブで31セーブポイントとなり、最優秀救援投手になることはできなかった。
 この年、赤堀は、防御率3.05だったのに対し、河本は防御率1.96だった。ここから判断すると、河本の方が優れた成績を残していた、ということになる。それなのに、タイトル表彰は、最多セーブポイントにより決められる最優秀救援投手の赤堀だった。
 この事例を見ると、今後は最多セーブ投手賞を表彰の対象としていくことに問題はなさそうだが、もし最多セーブ投手よりも明らかに好成績を残したクローザー、つまりセーブは少ないが勝利数が多くて防御率も良い、という現象が起きた場合に物議を醸すかもしれない。


 5.ベストナインにセットアッパーとクローザーを

 今回、「最多セーブ投手賞」と「最優秀中継ぎ投手賞」のタイトル基準が発表されたことで、先発投手とセットアッパー、クローザーという3分担した役割がより明確になった。おそらく、今後の野球界は、この流れで続いて行くにちがいない。
 しかし、この流れに対応できてない部分も存在することを忘れてはならない。その一例を挙げるなら、ベストナインだろう。
 各ポジションで最高の成績を残した選手9人に贈られるベストナインは、セリーグであってもパリーグであっても、投手は1人ずつである。
 そうなると、当然のように先発投手が受賞することになる。1978年、先発に中継ぎに抑えにフル回転し、15勝7敗15セーブ25セーブポイントという圧倒的な成績を残した新浦寿夫や1998年に1勝1敗45セーブ46セーブポイントでセーブとセーブポイントの日本記録を更新した佐々木主浩が受賞した例はごく稀である。
 もちろん、セットアッパーがベストナインを受賞した例は、いまだかつてない。ここのところ、最優秀中継ぎになる投手は、先発投手をもしのぐ活躍ぶりを見せているのだが、彼らがベストナインに選出される気配は今のところない。
 これまで最優秀中継ぎのタイトルを複数回受賞してきた岩瀬仁紀や吉田修司、森慎二らは、突出した活躍とは裏腹に、相対的な高評価を受けてきたとは言いがたい。
 徐々に「リリーフ投手は先発投手よりも劣る」という昔の評価基準はなくなりつつあるものの、未だにベストナインは、ほぼ確実に先発投手優位の賞となっている。
 ベストナインという名称がついているから、どうしても9人にこだわらざるをえないところもあるが、たとえ11人になったとしても、僕は、ベストナインにセットアッパーとクローザーを追加するのが時代の流れに沿った新しい形なのではないかと考えるのである。




(2005年3月作成)

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