プロフェッショナルの理論  〜落合博満新監督の斬新さ〜

山犬
 
   1.プロフェッショナルの中のプロフェッショナル

 どのような職業にも、その道のプロフェッショナルと呼ばれる人間がいる。経験を積み、並外れた技術や知識を身に付けた者は、いつしかそう呼ばれるようになる。人間国宝となるような伝統芸能の職人、困難な手術を何度も成功させた名医、修行に修行を重ねて独自の料理を作り上げたシェフ……。
 でも、職に就いていれば、誰でもその職のプロフェッショナルじゃないか、という意見がある。だとしたら、世界中の大人は、ほとんどプロフェッショナルということになる。
 高度な知識や技術、体力といったものが必要な職業は、意外と少ない。現実には、なろうと思えば、なれる職業が大部分を占めている。もちろん、こうした職業でも頂点に立つような人々は、高度な何かを持っているけれど、そんな人々は全体から見れば、ほんのごく一部でしかない。
 もちろん、僕も、こういうことに関してはプロフェッショナルだと胸を張るようなものはまだない。つまり、僕は、プロフェッショナルではない。
 プロフェッショナルと呼ばれるためには、並外れた能力と並外れた熟練の結晶がなければならない。底辺の広いピラミッドの頂上に立たなければならない。プロフェッショナルとは、星の数ほどいる中から選ばれし者だけに与えられる称号だと僕は信じている。
 
 そういう意味において、プロ野球選手は、その名の通りプロフェッショナルと呼ぶにふさわしい。彼らは、数百万人にのぼる野球人口の頂点に立っている。その数は、千人にも満たない。
 その中でも、プロ野球の一軍でレギュラーになれる選手は、プロ野球選手の四分の一程度である。ここまで来れば一流選手と呼ばれる。
 その中で超一流選手と呼ばれる選手は、ほんの数えるほどである。プロフェッショナルの中のプロフェッショナルである彼らは、言わば雲の上の領域にまでたどり着いた達人である。
 そんな超一流選手も、やがては歳をとり、全盛期のような成績を残せなくなって引退する。しかし、世間は、彼らを必ずもう一度引っ張り出そうとする。指導者として。
 ただ、それは、名誉職ではない。「あなたのような名選手を育てあげてほしい」という重い負担が背中にある。
 こうして名選手の多くは、監督としての一歩を踏み出すことになる。


   2.名選手、必ずしも名監督ならず?

「名選手、必ずしも名監督にあらず」
 以前、そんな格言が出回ったことがある。僕がよくその言葉を耳にしたのは、確か長嶋茂雄が監督として優勝できなかった年や、王貞治がダイエーの監督になって下位に沈んでいた年だったと思う。
 数々の栄光を手にしてきたONがどれだけ名選手であろうと、監督としては大したことがないじゃないか。俺が監督をした方がまだましなんじゃないか。
 名選手が監督としてなかなか結果を残せずにいたとき、人々は、好んでそういう言葉を口にする。
 こうした評価は、半分は的を射ているけど、半分は的を外れている。僕は、いつもそう受け取ることにしている。

 名選手は、自らがチームの中心として活躍し、うまく機能していたときのチームを再び作ろうとする傾向が強い。だから、チームに中心となる突出した選手がいない場合、機能しないことがある。
 それゆえ、ほとんど実績のない選手が監督になった方があり合わせの戦力をやりくりしながら使いこなしてうまくやっていける場合もあるわけだ。

 2003年秋、誰もが認めるであろう名選手、落合博満がついに監督になった。3年契約である。
 「オレ流」と呼ばれた個人主義者が監督になって、3年間のうちにチームを優勝に導けるのか。マスコミは、ここに焦点を合わせて書き立てている。
 落合がどのようなチームを作り上げるのか。既にその節々が報道を通じて流れてくるけれど、落合は、これまでのどの監督がしようとしたチームとはまた違ったチーム作りをするつもりでいる。落合自身、おそらく枠にはまったチームにするつもりなど、持っていないに違いない。そう、あの現役時代の言動と同じように。


   3.1987年の衝撃
 
 僕が本格的にプロ野球に魅せられて行ったのは落合博満が中日でプレーを始めた1987年のことである。
 僕が住んでいるのは名古屋圏と言える地域であって、地元チームと言えば中日ドラゴンズだった。中日新聞が幅をきかせていたこともあって、僕は物心ついた頃から中日新聞と中日スポーツが脇にあった。
 1987年は、中日ドラゴンズにとって球団史上に残る転機だった。まず「燃える男」と呼ばれた星野仙一がついに監督となったこと。そして、落合博満がロッテからトレードで中日に移ってきたことである。
 僕は、それまでプロ野球には大きな興味を抱いていなかった。PL学園の桑田真澄・清原和博らが活躍していた高校野球の方にどっぷり浸かっていたからだ。トーナメントの緊張感が僕にはたまらなかったし、信じがたいほどの強さを見せるPL学園が憧れだった。
 それに引き換え、プロ野球は、だらだらと試合時間は長いし、毎日同じ選手ばかりがテレビに映っている。それが退屈だった。
 1984年にプロ野球を知ったものの、僕が惹かれたのは阪急のブーマーや山田久志、福本豊といった日本シリーズで見たパリーグの選手たちだった。セリーグの選手にはない野武士のような野性的な匂いがあったからである。
 しかし、パリーグの野球はめったにテレビ中継がない。テレビ中継といえば、セリーグの巨人・中日・阪神の試合だった。だから、僕は、プロ野球をあまり見ようとしなかった。
 もしあのまま、1986年末から1987年にかけての動きが何もなかったとしたら、僕は、プロ野球にほとんど興味を持つことなく、今に至っていたにちがいない。
 そう考えると、運命というのは不思議である。突如として僕の前にあの二人が同時に現れるのだから。
 星野仙一が監督に決まって、落合博満獲得に乗り出してから、中日スポーツの一面は、落合博満と星野仙一の二人で占められていたと言っても過言ではない。
 中日は、巨人との激しい争奪戦の末、落合獲得に成功する。
 一人対四人のトレードで移籍してくる落合とは、一体どんなバッターなのだろうか。あんな構えで本当に打てるのだろうか。僕は、想像だけを膨らませていく。
 中日に来て初めて試合に臨んだオープン戦で落合は、全打席の全投球を見逃して全打席三振に終わる。移籍騒動と、開幕に照準を合わせる落合のスタイルのせいで、この当時、まだフォームが固まっていなかった落合は、自らのフォームを崩すことを回避するため、打席でバットを振らなかったのである。スイングは、落合が頭に描いたイメージの中で行われていた。
 球を打たずして、球を打つ。
 そのプロ意識の高さに興味を持った僕は、好んで落合の打撃を見るようになった。
 そして、落合の打撃技術を目の当たりにした僕は、すぐさま落合のファンになる。他の選手には決して真似できないような落合の神主打法は、まさに芸術品だった。
 不動の4番打者を得た中日は、1987年、2位に躍進する。そして、翌1988年、中日は、ついにセリーグのペナントを制するのだ。


  4.遅咲きの大打者
 
 どの時代にも、人々の話題を独占するほど飛び抜けた打者がいる。1960年代には長嶋茂雄、1970年代には王貞治がいた。1990年代はイチローが出てきた。
 そうした流れの中で、1980年代の野球界を引っ張っていたのは間違いなく落合博満だった。
 落合は、1979年にプロ入りしている。このとき既に25歳。東芝府中という社会人チームで活躍する落合にロッテが目をつけたのだ。
 落合の打撃成績は申し分なかった。しかし、守備や年齢のことをマイナス視したプロの各球団はあまり高い評価をしなかったようだ。
 落合は、ドラフト3位でロッテに入団する。しかも、最初の1年間はほとんど1軍の試合に出ていない。
 当時の首脳陣は、落合独特の打撃フォームを1軍では通用しないと思い込んでいたからだ。だから、落合は、自力で周囲の酷評を覆すしかなかった。

 落合が注目されたのはプロ入り3年目の1981年のことだ。1軍でレギュラーを獲得するやいなや、首位打者を獲得してしまったからだ。27歳なのだから、高校を卒業した選手なら既に9年目のシーズンを迎える中堅である。
 落合は、遅いスタートながらプロ入り3年目でタイトルを獲得してしまう。
 だが、こうやって運良く1回目のタイトルをスムーズに獲得してしまう選手は結構いる。ところが、それを持続することのできる選手は少ない。
 全くの無名選手から自力で這い上がってきた落合にとってその心配は無用だった。
 落合は、翌年も首位打者を獲得する。しかも、同時に本塁打王、打点王も獲得してしまった。つまり、三冠王である。1974年に王貞治が獲得して以来、8年ぶりのことであった。 
 その後の落合の成績は、超一流と言う他ない。2度目、3度目の三冠王に輝き、2年連続で50本塁打以上を記録した。特に三冠王は、1986年に落合とバースが獲得して以降、二十世紀中には誰一人としてその栄冠を手にできなかった。
 セリーグに移籍してからも、優勝請負人として中日・巨人を優勝させた。
 落合の現役時代は、語り尽くせないほどの功績に包まれている。
 落合は、王・長嶋・野村・張本・山本・衣笠といった大打者たちの仲間入りを果たした。しかし、落合は、彼らとは一線を画した功績も持ち合わせている。


  5.功績

 落合の最大の功績は、プロ野球界で半ば常識とされてきた不条理や非合理に徹底して立ち向かったことにある。
 落合は、たとえ四面楚歌となって孤立したときでも、常に自らの意思を貫き通した。プロでは通用しない、という酷評を受けながら2軍から這い上がって球界一の打者になるためには、それが必要不可欠だったからだ。
 神主打法への固執、自己流の練習、ロッテから中日への移籍、マスコミへのそっけない応対、労組脱退、年俸調停、FA権行使、巨人入団、名球会入り拒否。落合について、悪いイメージを生み出した出来事を並べてみると、かなりの数にのぼる。
 それぞれがすべて落合の一貫した哲学に基づいているものであることを述べれば、誤解されることはないのに、落合は、マスコミに多くを語らなかった。既成概念をすべてぶち壊していったのに、落合は、その説明を省いた。
 理解できない奴は、できなくていい。理解できる奴だけが理解してくれれば。俺は、グラウンドで結果を残せば、すべて打ち消せるんだから。
 そうやって落合は、プロフェッショナルに徹していた。同時にどんどん悪役となっていった。
 落合が世間から本当の意味で理解されたのは、おそらく巨人を捨てて日本ハムに移籍したときだろう。グラウンドで結果を残せる場を求めて、あの巨人を出たとき、誰もが落合を支持した。このとき、悪役のイメージがつきまとっていた落合は、ついに真の英雄となった。


  6.斬新な改革

 落合は、監督就任が決まってから、まるで選手時代の落合がよみがえったかのように、既成概念を覆す改革を始めている。

・三拍子揃った選手になる必要はない。どこか一つ優れたところを磨けばいい。
・一軍と二軍は、春季キャンプが終わるまで切り分けない。全員平等にチャンスを与えるためである。
・コーチ陣も一軍と二軍を切り分けない。すべての選手を見るためである。
・トスバッティングは、廃止する。試合でありえない横から下手投げで来るボールを打つ必要はない。
・他のチーム同士がやる日本シリーズを見る必要はない。それまでの自分たちの試合を洗い直した方が良い。
・今後1年間、一切トレードや解雇や外国人選手獲得を停止する。現有戦力の10%の底上げで、優勝できる。どうしても入りたいという選手だけは、テストする。
・キャンプでの練習は、それぞれ選手によって始まりと終わりの時間帯、自主練習時間も別々とする。

 落合は、すべての選手へ平等に活躍のチャンスを与えて競争力を高め、今後一年間、中日で野球に専念できる環境を作り上げようとしている。
 そして、現役時代と同様に、非合理的なものや不条理なものは一切切り捨ててしまおうとしている。

 僕は、日々、落合監督の動向から目が離せなくなってきている。
 次は、何をしてくれるのだろうか。
 そんな期待を抱かせてくれる魅力が落合には選手時代からあった。
 おそらく、これまでの監督が思いつかなかったような斬新な改革を断行して行くに違いない。その度に、選手たちも、僕たちも、落合理論を理解することを迫られ、深く考えさせられることになるだろう。
 中日は、1954年の日本一からはや49年にわたって日本一から見放されている。落合に与えられた契約期間は3年。
 中日の半世紀ぶりの日本一奪回へ使命を帯びた監督。僕は、落合監督をそんなふうに位置付けている。



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