20年の歳月を経て輝きがここに
         
             山犬
 ダイエー、二連覇。新聞に書かれた大きな見出しの横で王貞治は宙に舞っていた。2000年10月7日、王貞治監督率いるダイエーは、オリックスを1−0で破ってリーグ二連覇を成し遂げた。
 優勝を決めたこの試合は、序盤から緊迫した投手戦となり、耐えて待った末に出た小久保の一発による一点を四人の継投で守りきっての勝利となった。
 優勝を決めるための重圧に苦しんだ試合。
 そう見ることもできるだろう。
 だが、僕は、この試合こそが監督王貞治の作り出した野球そのものを象徴していると思う。
 王は、誰もが知る世界のホームラン王である。現役時代、積み上げた通算868本塁打は、いまだに世界の誰にも破られていない。
 王・長嶋のONコンビを中心として成し遂げた巨人のV9は、野球史の中に燦然と光りを放っている。
 監督になってからの王は、常にV9時代の幻影に苦しんでいた。
 最初に監督になったのは1984年のシーズンから。1980年の引退後、わずか4年である。前年、巨人は藤田元司監督の元でリーグ優勝を果たしている。
 王は、最初から常勝チームを指揮しなければならなかった。
 その頃の巨人は、V9時代の圧倒的な強さはなく、普通に戦えば何とかAクラスには入れるが優勝が確実なチームではなくなっていた。
 それでも、巨人は、当たり前のように毎年優勝、最低でも優勝争いを義務付けられる。若手を試しながら育てていって、数年後に強いチームを作り上げる。そのようなことは、最初から許されなかった。
 巨人は、目の前の一試合一試合を勝たなければならない。それが巨人王監督の悲劇を予感させていた。
 王は、巨人監督の就任直後、このようなことを言っている。
「小細工をしないでどんどん点の入る野球がしたい」
 その野球は、言いかえれば自らが膨大な本塁打で支えたV9時代の野球。
 そういう野球は、余程優れた名選手が数人揃わないと無理である。全盛期の落合博満がいたロッテ、イチローがいるオリックスでさえ、そういう野球はできていない。
 それを今、やっているのが膨大な資金力とFA制度やドラフト逆指名の利用で江藤・清原・マルティネス・高橋・工藤・メイを揃えた巨人ではあるが……。
 結局のところ王は、五年間、国民やマスコミの圧力を受けながら、その日その日の試合に勝つことだけに全力を注がねばならなかった。そうするより他になかったわけである。その中で、自らのV9時代の戦力を育てることが不可能であることは明白だった。
 一年目で3位、その後3位、2位、優勝、2位と続く。優勝した1987年も日本シリーズでは西武に敗れて日本一を逃している。
 多くの人々は、現役時代の輝きと比較して落胆した。王には監督としての才能がないと酷評する者もいた。
 確かに王の目指した野球は、現実的なチームでは機能せず、王が実際に巨人でした野球も、苦しみ紛れのものだった。
 任期途中で辞表を提出したこともあったという。僕達は、王が毎日、眉間にしわを寄せた厳しい表情をしてベンチで腕組みする姿をいつも眺めていた。

 王が長年着ていた巨人のユニフォームを脱いだ7年後、僕は、王が再び監督としてダイエーの指揮をとることを知った。
 そのときの世間の反応も冷たかった。巨人で日本一になれなかった監督がダイエーで成功できるはずがない、と。実を言うと、僕も、そう思っていた記憶がある。
 人気優先の誤った人選。それが国民の評価だった。
 ただ、僕は、王を監督に選んだのがあの根本睦夫だったことが少し気にかかっていた。
 王の野球に対する情熱と姿勢を評価したというのがその理由である。
 根本は、1970年代初めに広島のコーチ・監督として広島黄金時代の基礎を築き、1979年からは西武ライオンズの監督として黄金時代の基礎を築き、広岡・森といった監督を迎えて常勝軍団を作り出した。そして、今度は、自らの後任であるダイエーの監督として王を選んだのである。
 しかし、結果はすぐには返ってこなかった。
 王の就任後、ダイエーの成績は5位、6位、4位(日本ハムと同率)。
 誰の目にも「やはり……」と移っただろう。20年連続Bクラス。そのとてつもない記録は永遠に続くようにも思われた。だが。
 選手の自主性を引き出す大リーグ方式の練習を取り入れた根本と王の元で若手は着実に育ち、根本を慕って入ってきた秋山・工藤といったベテランの経験がチームを引っ張っていた。王が理想としていたV9時代の野球は捨てられ、明らかに違う形の接戦を勝ち抜く緻密な野球に変貌していた。
 1998年に21年ぶりのAクラス入り、そして1999年、ついにダイエーは、12度のサヨナラ勝ちという勝負強さを見せつけ、リーグ優勝を果たす。さらに、圧倒的不利とささやかれた日本シリーズも圧勝し、日本一となった。
 2000年は、改めて王の巨人時代との変貌ぶりを見せつけられることになった。エース工藤が巨人移籍で抜け、ローテ投手の星野と中継ぎエースの藤井が故障で離脱、その上、攻守の、いや王野球の要である城島と井口が抜けた。
 それでも、王の率いるダイエーは、最後に勝負強さを見せつけて優勝をさらっていった。打撃タイトルを獲得した野手、10勝以上した投手は1人もいない。
 それでも、総合力と選手層の厚さで他を圧倒した。攻守の揃った野手、きっちり役割分担されて統制のとれた投手陣が中心になっている。そのほとんどがダイエー生え抜きの選手である。
 王貞治が巨人を離れて辿り着いた野球。それは、見る方もやる方も真に面白いと言える投攻守が巧みに絡み合った総合力の野球であった。
 あれは、梅雨に入るか入らないかの頃だったと思う。首位のオリックスとの一戦で9−0で勝っていた試合を投手の乱調で9−9にまで追いつかれた。普通なら逆転負けを喫する試合だろう。でも、ダイエーは、その試合を信じがたい勝負強さを見せて10−9で勝った。オリックスはここから転落を始める。僕は、この試合が今年のペナントの行方を左右したと考えている。
 図らずも、日本シリーズの相手は、資金力でパワーヒッターを集めた巨人。王がかつて理想として作り上げようと考えたようなチームである。圧倒的な戦力でV9時代のもう一端を担った長嶋が采配を振るった。
 V9時代から解放された王と、いまだにV9時代の呪縛にいる長嶋との対戦。皮肉なことにこのシリーズは、本当の意味で世紀の戦いとなった。
 結果的にダイエーは自慢の勝負強さを見せてニ連勝したものの、その後、巨人の圧倒的な戦力の前に4連敗と巻き返され、日本一を逃した。資金力で揃えた大味な野球に2000年はすべてのチームが敗れ去った。しかし、1チームだけ突出した状況に、多くの野球ファンは失望していたことも事実である。
 王は、そんな中で生え抜き中心の選手でリーグ優勝、日本シリーズで第1・2戦連勝という形で意地を見せてくれた。
 最後の最後で敗れたとはいえ、 引退から20年の歳月を経て今、王は、現役時代に劣らぬほどの輝きを見せていることは間違いない。


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